ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate・shirota・gordon)さん

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

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今日は憲法記念日ですね。
1947年5月3日、日本国憲法が施行されました。

 

そこで昨日のお皿とコーヒーカップ
の置いてあった布なのですが、昨日
の写真より少し大きくしてみました。

 

御覧になれるでしょうか?

 

 

12.5.1.beate

 

 

お皿の右上に当たる部分には、
このように書いてあります。

 

「日本国憲法第二十四条の六カ国語訳
The constitution of Japan,
Article 24, in the 6 Languages,
I speak, English, Japanese, German,
French, Spanish and Russian.

 

Beate Sirota Gordon

 

日本国憲法
24条、6カ国語訳
私は、英語,日本語、ドイツ語、
フランス語、ロシア語を話します。」

(ベアテ・シロタ・ゴードンのサイン)

 

上記の文字のまわりを、六カ国語に
訳された憲法24条が取り囲んでいる
バンダナなのです。

 

ベアテさんは、日本国憲法の草案を
作ったお一人で、この24条には
ベアテさんの思いが込められている
といいます。

 

彼女の両親はキエフ出身ですが、
父親レオン・シロタが有名な
ピアニストでありウィーンで活躍
していたために両親、ベアテさん
ともにオーストリア国籍でした。

 

父親が山田耕筰に招かれて現在の
東京芸大のピアノ科主任教授の任
につくために、御家族で日本に
いらっしゃいました。
ベアテさんが5歳のときです。

 

それからの約十年間の日本暮らしで
彼女は日本の女性の置かれている
立場を理解するようになります。

 

彼女は,バンダナの中では6カ国語
と書いてありますが、実際はラテン語
もおできになるようです。

 

ベアテさんは、スペイン語以外の
6カ国語を日本でマスターし,
15歳で大学に入学するために
単身でアメリカへ渡ります。

 

その直後に真珠湾攻撃。
戦争のために学費の送金が絶たれ、
両親の所在も分からなくなりました。

 

しかし通訳の仕事をしながら、
19歳の時に最優秀で大学を卒業。
アメリカで就職をしましたが、
日本の両親が心配で、なんとか
日本に「帰国」したいと就いた
のがGHQの仕事でした。

 

そこで憲法草案作成となるのですが、
これは極秘命令だったために、彼女は
両親にも話さなかったといいます。

 

また、アメリカに帰ってからも
インタビューなどは断り続けます。
事実を話すようになったのは、
多分、1993年頃からだと思います。

 

1993年5月、TV朝日で放映された
ドキュメンタリージャパン制作の
「日本国憲法誕生秘話」(という
名前だったかな?)を、深夜に
見た時の衝撃は忘れられません。

 

ベアテさんに感謝です。

 

そうそう、ベアテさんが日本で
暮らした十年間ですが、おうち
があったのは赤坂檜町。
東京ミッドタウンの近くだったそうですよ。

 

その上、以前ブログで書いた
2,26事件も真近で体験された
貴重なお一人でもあります。

 

 

 

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