江戸切絵図に「松平家」が多いのはなぜ?

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江戸の町は「松平」だらけ!

江戸切絵図を見ていると屋敷の名前に
「松平」が多いことに驚きます。

 

冒頭の切絵図では「松平肥後守」、「松平主殿頭」、
「松平隠岐守」、「松平時之助」というように。

 

左下の「三の橋」、真ん中の「二の橋」、上の「一の橋」、
そして今度は流れを右に変えて中央が「中の橋」、
右端が「赤羽橋」というように、古川に囲まれた場所
にある8つの屋敷のうち4つが「松平姓」なのです。

 

松平を名乗る屋敷がなぜ多いのか、という
理由については、大きく分けて3つあります。

 

 

tokugawaaoi「徳川葵(三つ葉葵)」

 

 

 

① 徳川を名乗らない家康の子孫は松平

家康の子孫で徳川を名乗らない家が
松平を名乗っています。

 

徳川を名乗ることができるのは、徳川の嫡流の
「尾張」、「紀伊」、「水戸」の御三家だけです。

 

それ以外は、家康の子孫であっても徳川を
名乗ることできず、また御三家でも
その分家となると徳川ではなく松平です。

 

 

「松図襖」狩野尚信 徴古館(佐賀藩鍋島家)

 

 

家康の次男である秀康を始祖とする家も、
松平を名乗っていますが、所領が越前で
あったことから、「越前松平家」といわれます。

 

前々回にお話をした保科正之も、2代将軍・秀忠の子
ですので、松平姓を許され、3代藩主・正容からは
松平を名乗っています。

 

こちらは会津藩主だったことから「会津松平家」

 

 

保科家の「会津葵紋」

 

 

家康の娘・亀姫の夫も「奥平松平家」となり、
家康の異父弟・康元、勝俊、定勝も「久松松平家」
となっています。

 

その中で城主大名として幕末まで
続いたのは、末弟・定勝のみです。

 

下の江戸切絵図で、左下の「松平肥後守」下屋敷の
表門側の道を挟んだ、右上の「  ■   松平隠岐守
(伊予国松山藩)」と、上から下へ書いてある
のがこの「久松松平家」のお屋敷です。

 

 

higonokami1857                     ↑ 「松平隠岐守」

 

 

 

② 家康が将軍になる前からの親類も松平姓

次は、家康が江戸幕府の征夷大将軍となる以前から
松平を名乗っていた、家康の親類たちの子孫も
当然のことながら松平姓です。

 

家康は三河国加茂郡松平郷の松平家の9代目
ということですが、記録に残る限りでは
松平を名乗っていたのは3代・松平信光から。

 

先祖を松平信光までさかのぼると、徳川家康と
共通の祖となる松平家を、「十八松平」といいますが、

 

この十八という数字は、かならずしも正確な数を
表すものではなく、「松」という字を分解した
「十」「八」「公」からきているといいます。

 

 

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十八松平(十四松平とも)

「竹谷(たけのや)松平家」
「形原(かたのはら)松平家」
「滝脇(たきわき)松平家」
「藤井(ふじい)松平家」

 

「大給(おぎゆう)松平家」
譜代大名4家と旗本を数多く出した家ですが
十八松平家の全てが大名とは限らないようです。

 

「大草(おおくさ)松平家」は、旗本
でしたが、嗣子がいないため断絶。

 

 

 

「五井(ごい)松平家」
幕末まで続いていますが旗本でした。

 

「福釜(ふかま)松平家」も同様に、大名には
取り立てられず旗本どまりで、松平一族の中では
優遇されなかった家だということです。

 

「東条(とうじょう)松平家」は、嗣子がない
ため、1607(慶長12)年に断絶していますが
家康が尾張徳川家を創設したことにより
領地と家臣の大半が尾張藩に引き継がれました。

 

 

150718hitotugimanjushougetu

 

 

 

「長沢(ながさわ)松平家」は跡継ぎがいない
ことから、家康の六男・忠輝が養子に入り
11代となりましたが、異母兄にあたる徳川2代
将軍・秀忠によって改易、家名は断絶。

 

忠輝の血筋は残っていたのですが
幕府はなかなか家と認めません。

 

1719(享保4)年になって、ようやく
長沢松平家と承認し、1834(天保5)年
に十人扶持と禄が下されました。

 

この長沢松平家の18代・忠敏(主税助)
は、幕末期の新撰組の前身である
浪士組の取締役となった人です。

 

 

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「能美(のみ)松平家」の14代・松平親貴は
戊辰戦争が勃発すると、旧幕府側から離反して
新政府側に寝返りましたが、このように
見ていきますと、松平家も様々ですね。

 

「桜井(さくらい)松平家」
改易したものの、後に復活。

 

桜井松平家の江戸屋敷は、東京府芝区三田2丁目
(現、港区三田2丁目)にあったということです。

 

次の切絵図では、上の真ん中の「黒田甲斐守」の
屋敷の下あたりになるはずなのですが、そこに記載
されているのはお寺で、お屋敷は見当たりません。

 

 

higonokami1857桜井松平家が行方不明?

 

 

切絵図の作られた後に、桜井松平家の
お屋敷が出来たのでしょうか?

 

切絵図を上下左右に四分割した、左上あたりに
桜井松平家の屋敷があったということです。
(わかり次第、追記でお知らせします)

 

桜井邸は第二次世界大戦の震災を逃れ
戦後に香川県に売却。

 

そしてその場所は現在「東京さぬき倶楽部」となり
敷地内には、当時の土蔵や木造建築が残っています。

 

6年ほど前になりますが、家のリフォームのために
1週間ほど家を空けた時、「東京さぬき倶楽部」に
4、5泊お世話になりました。
リーズナブルで快適だった記憶があります。

 

 

160411toriizaka「鳥居坂」麻布十番から六本木方面にのぼる坂

 

 

「深溝(ふこうず/ふこうぞ)松平家」
4代・家忠は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの
前哨戦といわれる「伏見城の戦い」の際、

 

守将・鳥居元忠の副将格として
伏見城で籠城玉砕しています。

 

このブログで少し前に鳥居坂をとりあげた
「『鳥居坂』鳥居元忠は大石内蔵助の高祖父」
時に登場した、鳥居家の鳥居元忠と運命
を共にした人だったということですね。

 

 

160411toriizakaue鳥居元忠のお屋敷があった「鳥居坂」

 

 

 

③ 報賞、名誉として与えられた松平姓

御褒美、名誉としても、有力
大名に松平姓を与えています。

 

江戸城内での格式は、将軍家一門に
匹敵する大名であるという称号でした。

 

豊臣秀吉も同様だったようで、徳川2代将軍・秀忠
は、秀吉存命中に「豊臣秀忠」の名で
官位の辞令がおりているということです。

 

松平姓を許されたとはいえ名乗ることができるのは
当主と、将軍家への披露、叙位任官の済んだ
嫡男のみが公的な場で名乗るのみです。

 

他の場面や、当主と嫡男以外の
一族は、本姓を名乗ります。

 

 

hyugazakasendaizaka・・・)で囲った「松平陸奥守」は仙台藩伊達家

 

 

 

松平姓を許された譜代大名

「戸田松平家」「松井松平家」
「大河内松平家」
「本状松平家(後に廃絶)」
「柳沢松平家」「菅沼松平家」

 

松平姓を与えられた外様大名

「前田氏」「伊達氏」「島津氏」「毛利氏」
「黒田氏」
「浅野氏」「鍋島氏」「池田氏」
「蜂須賀氏」「山内氏」

 

 

 

 

そこで最後に、松平姓を与えられた側は
どのように思っていたのかということですが
実はちょっと微妙なところもあったそうですよ。

 

「松平より、うちの方が格が上だものね」と
思った家もあったとか、なかったとか……。

 

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