「国際文化会館(旧岩崎邸)」 六本木・麻布

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160409kokusaibunkakaikan2

 

 

旧岩崎邸

前回、御紹介した「鳥居坂」を上ってから少し歩いて
行きますと、左側に「国際文化会館」があります。
今日はここに名残の桜を見にきました。

 

「公益財団法人 国際文化会館
(インタナショナル  ハウス オブ  ジャパン
The International House of Japan, Inc.)」

 

(〒106-0032 東京都港区六本木5‐11‐16
Tel.  03-3470-4611(代)  Fax.  03-3479-1738)

 

 

kokusaibunkakaikan(地図/「国際文化会館」)

 

 

住所は六本木ですが、地図を御覧いただくと
おわかりのように、六本木駅よりは麻布十番駅
からの方がはるかに近いです。

 

東京メトロ日比谷線の「六本木駅」
からですと徒歩10分。

 

同じく東京メトロ南北線の「麻布十番駅」
からは徒歩7分で、都営大江戸線の
「麻布十番駅」ですと徒歩4分です。

 

 

 

現在の建物は1955年に完成

こちらが入口です。
大きな桜の木が出迎えてくれているかのよう。

 

 

160409kokusaibunkakaikan「国際文化会館(旧岩崎邸)」入り口

 

 

「国際文化会館」は国際交流を目的として
ロックフェラー財団などの支援により
1955年(昭和30年)に完成しました。

 

建物の設計は、前川國男、吉村順三、坂倉準三の
共同設計によるものですが、旧岩崎邸の庭園との
調和を最大限に考慮して作られたとのことです。

 

1976年には、設計者の一人である前川國男により
改修工事と併せて新館も増築されました。

 

2005年の改修工事の後には、その保存再生活動に対し
日本建築学会からは「2007年日本建築学会賞」、
財団法人日本産業デザイン振興会からは「2007年
グッドデザイン賞」をそれぞれ贈られています。

 

また、2006年には本館が
登録有形文化財に登録されました。

 

 


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「国際文化会館(旧岩崎邸)」
上の写真から少し入ったところ

 

 

一つ前に掲げた写真から、ほんの少しだけ
歩いて桜の木のそばに参りますと、突然、
桜の木の右側に大きな建物が出現します。

 

最近は毎日のように霞(or濃霧?)のような
モヤモヤがたちこめていて、ちょっとボケて
写っているのですが、この建物は六本木ヒルズです。

 

 

 

池泉回遊式庭園

六本木ヒルズを右に見ながら本館の玄関を
入りますと、一面がガラス張りになっていて
このような風景が目に飛び込んできます。

 

 

160409kokusaibunkakaikan2「国際文化会館(旧岩崎邸)」の庭園

 

 

池の水が薄紅色に染まっていますが
これは散った桜の花びらです。

 

もう桜はほとんど散ってしまったかと思い
ながらきてみたのですが、桜の木全体が
桜色に見えるほどに花が残っていました。

 

このの庭園は1929年(昭和4年)、岩崎小弥太
が小堀遠州と並び称される京都の造園家、
「植治(うえじ)」の七代目  小川治兵衛に
依頼してできた池泉回遊式庭園です。

 

池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園とは、
大きな池を中心にまわりに路をつくって、
築山や池の中の小島、石などで景勝の地を
再現する日本庭園の代表的なものです。

 

桃山時代、あるいは江戸時代の名残をとどめている
近代庭園の傑作として知られるこの旧岩崎邸庭園は
2005年10月に港区の名勝に指定されています。

 

 

 

次々と変わる主 

先ほどの写真の左側を写したものが次の写真です。
美しい庭園が建物をぐるっと取り囲んでいる落ち着いた
空間に身を置きますと、本当に安らぎを感じます。

 

 


160409kokusaibunkakaikan3「国際文化会館(旧岩崎邸)」

 

 

岩崎邸だった「国際文化会館」ですが
もっと遡りますと、江戸時代から幕末までは
香川県丸亀市の多度津藩(たどつはん)主、
京極壱岐守の江戸屋敷でした。

 

明治初期には、外務大事を務めた井上馨侯爵の
邸宅でしたが、のちに1876年(明治9年)に
創設された宮家の久邇宮の邸宅へ。

 

その後、所有者は三菱系の実業家であり
大正銀行頭取であった赤星鉄馬となりますが
1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊。

 

1929年(昭和4年)になると三菱財閥4代目総帥
である、岩崎小弥太が新しく邸宅を建設します。
しかしそれも1945年(昭和20年)の
空襲で消失してしまいました。

 

戦後は一時、国有地となっていたそうですが
「国際文化会館」に払い下げられ、1955年
(昭和30年)に現在の建物が完成したのです。

 

 

 

釣殿風

この写真の右側に見える風情のある建物ですが
これは平安時代の絵巻物によく描かれている
釣殿風に設えられています。

 

 

160409kokusaibunkakaikan2「国際文化会館(旧岩崎邸)」

 

 

「釣殿(つりどの)」とは、平安時代の貴族の邸宅
に見られる、寝殿造(しんでんづくり)という
建築様式のなかに含まれる建物の一つで、水面に
釣おろしたようにつくることから命名されています。

 

釣殿で魚を釣ったなどともいわれますが、主に納涼や
お月見、あるいは雪見などの遊宴に使用された建物です。

 

それでは、「国際文化会館」の釣殿風の建物は
何の目的に使用されているのかといいますと
レストランで、その名も「SAKURA」。

 

2007年にお亡くなりになった作家の城山三郎さんは
「国際文化会館」のレストラン「SAKURA」がお気に
入りでいつも決まった席におすわりになっていたとか。

 

 

hira-4tume-100丸亀藩・京極氏家紋
「平四つ目結(ひらよつめゆい)」

 

 

 

3人の男児の相次ぐ夭折

江戸時代、この場所が多度津(たどつ)藩の江戸屋敷
になったのは、元禄7年(1694年)のことだと
いいますので、前回お伝えした「鳥居坂」が
丁度できたかできないか、といった時期ですね。

 

この地に多度津藩の江戸屋敷ができた時、というのは
京極高道(きょうごくたかみち)が多度津藩の
初代藩主になった時ということでもありますが、
その時、京極高道はわずか4歳。

 

高道の父は、丸亀藩藩主の京極高豊(たかとよ)です。
高豊は正室との間に生まれた幼い男児、
3人を次々と亡くしています。

 

幸い元禄4年(1691年)には側室の子である高道が、
翌年の元禄5年(1692年)には正室の子・
高或(たかもち)が生まれて、丸亀藩主は高或
(たかもち)が継ぐことになりました。

 

 

sumitate-4tume-100多度津藩・京極氏家紋
「隅立四つ目結(すみたてよつめゆい)」

 

 

 

4歳の藩主・京極高通

父・高豊は家名の断絶を恐れて側室の子・高通に
支藩を立てることを幕府に願い出ます。

 

元禄7年(1694年)に父・高豊が40歳で亡くなると
高或は丸亀藩主に、高通は多度津周辺の1万石を
賜る多度津藩主になったのです。

 

とはいえ藩主の高通はわずか4歳でしたので、
実際に藩主として政務を執るようになったのは
正徳元年(1711年)からだったそうです。

 

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