なぜ「色絵」を「赤絵」というのか? 何十年来のナゾが氷解

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色絵磁器の完成

日本で磁器が作られるようになったのは
1610年代でした.、最初は呉須を使った青い色
の「染付」が作られましたが、1630年代に
なると青磁の焼成も可能になります。

 

有田では初期の頃は、景徳鎮で焼かれていた
ような色絵磁器はできなかったのですが
1646(正保3)年、初代・酒井田柿右衛門が
色絵を完成。

 

中国人に色絵の秘術を教えてもらい呉須権兵衛
と共に試行錯誤を繰り返して、ようやく
色絵磁器を完成させた後、この技術は
有田周辺に瞬く間に広がっていきました。

 

 

「色絵魚介文鮑形鉢」天啓赤絵 明時代 17世紀前半
幅27.0㎝ 日本民藝館

 

 

 

初代・柿右衛門

1646(正保3)年に色絵を完成させた初代・
柿右衛門(喜三右衛門)は、1596(慶長元)年
に生まれ、1620年代に豊臣秀吉の御用焼物師
だった高原五郎七に作陶を習います。

 

鍋島藩が有田の窯場を13か所に整理統合
したのは、1637(寛永15)年のことでしたが
初代・柿右衛門は1643(寛永20)年頃から
赤絵の製作に取り組みました。

 

初代・柿右衛門が、完成した製品を長崎で売り
始めたのが、1647(正保4)年といわれています。

 

 

「染付山水図大鉢( そめつけさんすいずおおばち」
初期伊万里 高 12.5cm 口径 44.8cm 底径 12.9cm
重要文化財(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

色絵(赤絵)

色絵磁器「色絵」のことを「赤絵」といいます。
この理由については、

 

「呉須の青だけではなく複数の色を使って模様を
描く時に主に赤い色を多用するため赤絵と呼ぶ」
と説明されるのが常です。

 

上絵付けをする人を「赤絵屋」といい、
それを焼く窯は「赤絵窯」、その町は
「赤絵町」と呼ばれていました。

 

 

「青磁 瓶」 龍泉窯 元時代(14世紀)高27.6㎝
芸州浅野家旧蔵

 

 

 

「色絵」という単語は事実上の禁句?

以前、有田では「色絵」という言葉は事実上禁句
であり「正々堂々と使いづらい単語だった」
という言葉を、発掘調査に関わったと思われる
方が、ブログに書いていらっしゃいました。
 (「有田町歴史民俗資料館ブログ『泉山日録』)

 

発掘調査時も「色絵」という言葉を使うと
「有田に『色絵』はない。『赤絵」だ」
と叱られたといいます。

 

そのような中で行われた発掘調査でしたが
初代・柿右衛門が初めて赤絵を焼いた窯が
「楠木谷窯跡(泉山)」の可能性が高いこと等
数々の有意義なことがわかりました。

 

 


「色絵葵文皿 (いろえあおいもんざら)」鍋島焼
東京国立博物館

 

 

 

初代・柿右衛門以前に色絵ができていた!

驚くべきことは、上絵付けの技術は柿右衛門の
窯1つだけではなく、3カ所の窯場(岩谷川内山、
黒牟田山、年木山[泉山]  )で別々に
誕生していたことがわかった事実です。

 

その上、初代・柿右衛門が赤絵を焼く以前に
楠木谷窯跡で、すでに別の種類の上絵付けが
完成していたといいます。

 

初代・柿右衛門の赤絵が、余白を生かした
構図に暖色系の絵の具を多用しているのに対して
それ以前にできていた色絵磁器は、緑や紫、
黄色などの寒色系の絵の具を多用し
文様がびっしりと描かれていたそうです。

 

 

「色絵花鳥文皿(いろえかちょうもんざら)」
柿右衛門様式 1670〜1690年代 直径24.8cm

 

 

 

「赤絵」のナゾの解明

先ほどのブログの筆者は、初代・柿右衛門が
完成する以前に作られていた色絵の発掘陶片を
見て、このような感想を述べていらっしゃいます。

 

「やはり『赤絵』というイメージには合わないのです」

 

「つまり、喜三右衛門の『赤絵』が、当時の複数の
上絵付けの技術の中で、後の有田へと伝承される
主たる後継技術となったのです。
本来『赤絵』は『色絵』と同義語ではなく、
『色絵』の一つの種類であったと推測されます。
しかし、有田の後継技術となったことで『色絵』
と同義語として使われるようになったのでは
ないかと思われます」

 

これを読んで私は本当にすっきりしました。
赤を使用していないのになぜ赤絵なのか?
というなんとはなしにもやもやしていた
ものが解消されて、とても納得。

 

 

「色絵蓮池翡翠文皿」 江戸時代 17世紀中葉
日本民藝館   径36.4㎝

 

 

 

景徳鎮にかわり有田焼(伊万里焼)がヨーロッパに

中国の内乱により磁器が入らなくなった
ヨーロッパに、日本の磁器が初めて輸出
されるようになったのは、色絵磁器が
完成してすぐの1647(正保4)年から。

 

これらの色絵磁器の一部は東南アジアへも
輸出されていましたが、1659(万治2)年、
オランダ東インド会社( VOC)による
磁器輸出が本格化します。

 

西欧の生活様式に合わせた食器類の他、
景徳鎮窯で作られた製品を写した芙蓉手
(ふようで)と呼ばれるお皿や、装飾品
として使われる大きな壺や瓶なども作られました。

 

 

「色絵花鳥文八角共蓋壺 」酒井田柿右衛門 江戸時代前期
出光コレクション – 出光美術館  総高61.5cm

 

 

 

中国磁器の輸出再開

有田磁器の輸出は、1660〜1670年代にピークを
迎え、1690年からは減少してゆくことになります。

 

これは1644年に輸出禁止となっていた中国磁器が
再び輸出されるようになったからでした。
1684年、中国で貿易を許可する
「展海令」が出されます。

 

ただ有田磁器の輸出量が減った理由は、これだけ
ではなく、国内需要が増えたために価格が高騰して
中国磁器との価格競争において不利になっていた
という事情もあったようです。

 

このように、途中からは減少したとはいうものの
有田からの磁器輸出は、1757(宝暦7)年に
打ち切られるまでほぼ100年間続きました。

 

 

 「 色絵宝尽文皿(いろえたからづくしもんざら) 」
鍋島焼 ロサンジェルス・カウンティ美術館

 

 

 

大名家御用達

1668(寛文8)年、仙台藩主・伊達陸奥守綱宗
の御用で江戸の陶器商人・伊万里屋五郎兵衛
(名前がすごい!)は有田に食器を探しに来ました。

 

ですが納得のいくものが見つかりません。
そこで辻喜右衛門という
名陶家を教えてもらい注文。

 

2年後、噂に違わぬ見事な食器を入手
することができた伊万里屋五郎兵衛は
伊達家にこれらを収めたということです。
     (木本真澄「 ARITA   EPISODE2」)

 

 

 

 

 

大名だけではなく町人も

元禄時代(元禄年間 1688〜1704年)といえば
華やかな町人文化が栄えたことでも有名です。

 

ちなみに私が元禄という言葉を初めて
聞いたのは多分、長唄の「元禄花見踊り」
だったと思われ、元禄と聞くとパブロフの
犬よろしく華やかな舞台が思い浮かんで来ます。

 

そんな元禄時代、それまでは大名などの限られ
た人だけのものであった磁器が、町人たちの
生活の場にも登場するようになりました。

 

お皿や向付(むこうづけ)と呼ばれる
小ぶりの鉢などの高級食器も作られています。

 

 

 

 

 

江戸と共に歩んだ有田磁器

中国磁器の突然の輸出禁止により技術の向上をみた
有田焼は海外に輸出されて西欧の王侯貴族に愛されます。
あまりの熱中ぶりに「「磁器病(porcelain sickness)」
という言葉が生まれたほどだったとか。

 

国内でも特権階級だけではなく町人の暮らしにも
身近になってきた有田磁器の発展の様子は
まさに江戸時代と重なっています。

 

お料理の器である有田焼のみならず
またお料理自体も、そしてそれを頂く時のマナーも
同じく江戸時代に確立されたということです。

 

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佐賀鍋島藩の御用窯完成(1650年代)

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「色絵葵文皿 」鍋島焼 東京国立博物館

 

 

 

中国磁器の輸入がストップ

17世紀半ば頃、中国国内の内乱により佐賀藩鍋島家の
将軍家への献上品として重要な位置を占めていた
中国磁器が、手に入らなくなってしまいました。

 

その当時、磁器を世界で最も多く生産していた
のは中国で、特に景徳鎮のものが最高とされ
ましたが、内乱の中国を統一した清(しん)は
1656(明暦2)年、海外貿易を禁じます。

 

ヨーロッパの王族や貴族たちの間では、中国磁器
や東洋の美術工芸品の収集が大人気でしたが
佐賀藩鍋島家にとっては趣味の範疇では
終わらない、いわば死活問題でもありました。

 

 

印のあるところが景徳鎮
ここから長崎へ磁器が輸入されていた

 

 

 

日本の磁器作りの始まり

日本で最初の磁器が焼かれたのは肥前国
(ひぜんのくにー現在の佐賀県全域と
長崎県の大部分)だといわれています。

 

豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した際に、優れた陶工を日本
に連れて帰ったことから日本の磁器作り始まりました。
この朝鮮出兵には鍋島直茂も参加しています。

 

日本に連れてこられた陶工の中で最も有名なのは
金ヶ江三兵衛(かねがえさんべえ)、朝鮮名・李参平
(りさんぺい)で、彼等を連れてきたのが鍋島軍でした。

 

有田町周辺で磁器原料の陶石を発見した
陶工達は、1610年頃に磁器焼成に成功した
ことが、発掘調査からわかっています。

 

 

鍋島焼を作る大河内山の青磁原石

 

 

 

1580代から焼かれていた「唐津焼」

一方、磁器ではなく陶器の方は、すでに
1580年代に唐津焼が作られていました。
こちらの陶器作りもやはり朝鮮人陶工に
よるものだそうです。

 

秀吉の朝鮮出兵の前、松浦党(まつらとう)
の有力豪族・波多氏が朝鮮半島との間で倭寇
(わこう)として活動していた関係で
陶工を日本に連れてきたと考えられています。

 

これらの肥前陶器窯は、波多氏が朝鮮出兵時に秀吉の
不興を買って改易されたことから離散してしまいました。

 

 

「黄瀬戸茶入れ」各務周海

 

 

 

日本古来の陶器窯

このように近世、中国や朝鮮から渡来した製陶技術に
よる陶磁器や唐津焼、萩焼、有田焼、薩摩焼等とは
異なり中世から日本で作られていた焼物もありました。

 

平安末期から鎌倉時代にかけて作られ、かつ現在も作り
続けられている窯を指して「日本六古窯」と呼んでいます。

 

「信楽(しがらき)焼」、「備前(びぜん)焼」、
「越前(えちぜん)焼」、「丹波(たんば)焼」、
「瀬戸(せと)焼」、「常滑(とこなめ)焼」の六つ。

 

 

 

 「備前焼のうさぎ」
ジカバーニッポン 東京ミッドタウン

 

 

 

「有田」で焼かれ、「伊万里」から運ばれた

鍋島群が朝鮮出兵の折、日本に連れてきた金ヶ江三兵衛
(李参平)を中心とする朝鮮陶工たちによって、有田の
周辺で作られるようになった磁器の話に戻りますと、

 

これらの有田の磁器は、伊万里津(津とは港の意味)に
運ばれ船で積み出されたために「伊万里」あるいは
「伊万里焼」と呼ばれるようになりました。

 

江戸時代の文献には「伊万里」ではなく
「今利」や「今里」とも書かれていますが、
「有田焼」と「伊万里焼」というのは同じ焼物のこと。

 

 

「古伊万里」(たい焼きではなくお皿を見てね)

 

 

 

「初期伊万里」

最初に焼かれた磁器製品は、釉薬をかけて焼くと青色に
発色する呉須(ごす)とばれる顔料だけを使って中国風
の絵を描く染付のほか、青磁なども作られていました。

 

 

「染付山水図大鉢( そめつけさんすいずおおばち」
初期伊万里 高  12.5cm 口径  44.8cm 底径  12.9cm
重要文化財(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

1637(寛永14)年、佐賀鍋島藩が伊万里や
有田の窯場を整理、統合し有田皿山
(ありたさらやま)に生産拠点を築きます。
この頃までの伊万里を「初期伊万里」と呼びます。

 

そして冒頭でお話ししたように1644年に中国磁器の
海外輸出が途絶えたことから、中国磁器に代わって
伊万里焼がヨーロッパに輸出されるようになりました。
その最盛期は、1670〜1680年代といわれています。

 

 


「染め付け鶴型皿」(古伊万里写し)

 

 

 

佐賀藩の御用窯設立

一方、民間の窯で焼かれて日本や海外にも広まっていた
伊万里焼とは異なり、佐賀藩鍋島家が販売目的はなく
藩窯(はんよう)で焼いていたのが鍋島焼です。

 

将軍家への献上を始め、幕府の要人や大名への
贈答品のために、莫大なお金をかけて最高の
技術で焼いた高級焼物が鍋島焼でした。

 

佐賀鍋島藩は、1652〜1654年(承応年間)に
有田の岩谷河内(いわやごうち)に御用窯を作り、
1661〜1672年(寛文年間)に伊万里の
大川内山(おおかわちやま)に移転。

 

将軍家献上を目的とした藩窯の鍋島焼が完成します。
1651(慶安4)年6月、家光の内覧を受けた結果(年末
か翌年から)正式に献上されることになりました。

 

1673〜1681年(延宝年間)に鍋島藩窯が確立し
1690〜1726年に最盛期を迎えます。

 

 

真ん中より少し上に横書きで
「鍋島藩窯公園」と書いてあります

 

 

 

技術の漏洩を恐れて厳重なチェック

鍋島藩の御用窯に入るには一般の人はもちろんのこと、
陶工でさえも鍋島焼の技術が漏れることを恐れて
自由に出入りすることは許されませんでした。

 

また藩窯以外の窯場で、優れた技術を持った陶工が
いると入れ替えるというように、常に最高の技術を
確保するための注意も欠かしません。

 

このようの選び抜かれた藩窯の陶工たちは
武士と同じ身分が与えられていたということです。

 

 

「色絵宝尽文皿 」鍋島焼
ロサンジェルス・カウンティ美術館(写真/Wikipedia)

 

 

 

「鍋島焼」の名称が生まれたのは大正以降

とこのように今まで私は「鍋島焼」と書いていますが
実は、当時はこの焼物が何と呼ばれていた
かは、正確にはわかっていないのだとか。

 

江戸時代の肥前では、陶磁器を作る窯場を
「○○山」と呼んで、藩の御用品を焼いて
いる窯場を「御道具山」と呼んでいました。

 

鍋島焼は、藩内では「大河内焼(おおかわちやき)」
「大河内御磁器」といわれていたといいます。

 

現在の私たちが使っている「鍋島焼」と
いう呼び名は、大正時代以降に使われる
ようになったと呼び方だということです。

 

 

鍋島焼「青磁染付桃文皿」
口径14.7cm 高3.7cm 高台径7.4cm
元禄(1688-1704年)

 

 

なお鍋島焼の窯場は、近世の藩窯としてはもっとも
組織が整い、生産量も多かったと考えられていて
幕末の記録では、陶工などは31人を数え、
生産数は年間5031個と記されています。

 

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