「鳥居坂」鳥居元忠は大石内蔵助の高祖父 麻布の坂1 

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都道319号線を渡ると六本木

麻布十番の絵てぬぐいのお店「麻の葉」を出て、
麻布十番駅の方に少しだけ戻った角を、左に
曲がると大きな通り(都道319号)に出ます。

 

「東京都道319号環状三号線(とうきょうとどう
319ごうかんじょうさんごうせん)といい、
港区海岸2丁目から江東区辰巳2丁目までの23,7
キロメートルの道路で「外苑東通り」もその一部。

 

「都道319号」という名前よりも「明治路通り」や
「国道6号水戸街道」「言問通り」というように
それぞれの地名で呼ばれているそうですが、今日
はその都道319をから始まる「鳥居坂」のお話です。

 

「鳥居坂下」の交差点から「鳥居坂」を上って
行くと、長い直線の道が続き、突き当たりは
六本木通りの「六本木五丁目交差点」。

 

付近には六本木ロアビルや
ドンキホーテなどがあります。

 

 

toriizaka(地図/「Mapion」に加筆)
・・・・・・」は都道319号で、「  ◉  」のあたりが「麻の葉」
 ———  」が鳥居坂です。

 

 

 

右側が「鳥居家(現在はシンガポール大使館)」

鳥居坂下交差点のそばから
「鳥居坂」を見た写真が次のもの。
木々が見えている「鳥居坂」の
右側はシンガポール大使館です。

 

 

160411toriizaka都道319号から始まっている「鳥居坂」

 

 

江戸時代、この場所に大名の鳥居(鳥井)
彦右衛門元忠のお屋敷があったことから
「鳥居坂」と名づけられました。

 

鳥居坂下交差点から六本木五丁目交差点までの間
には、麻布麻地区総合支所、フィリピン共和国
大使館、東洋英和女学院などが並んでいます。

 

 

 

「きみちゃん」と「李垠(りぎん)」

「鳥居坂」の少し先には麻布十番パティオにある
「きみちゃん」にゆかりの建物もあります。

 

 

blog_import_51535fef6677a麻布十番のパティオにある「きみちゃん」の像

 

 

童謡「赤い靴」のモデルといわれる「きみちゃん」
は、1911年(明治44年)に鳥居坂教会の運営する
孤女院(女の子だけの孤児院)で9歳で亡くなり、
現在は青山墓地で眠っています。

 

また、少し前にブログで御紹介した
李王家の邸宅があったのもここ。

 

1907年(明治40年)の12月、大韓帝国の皇太子で
あった10歳の李垠(りぎん)は、留学という名の
もとに人質として日本にきました。

 

長じた李垠はここで結婚式も挙げ、今年の夏に
赤坂プリンスクラシックハウス」として
生まれ変わる、赤坂の旧李王家東京邸に
移るまでの日々を鳥居坂で過ごしています。

 

 

rigin李垠(りぎん)

 

 

 

300年前に誕生

「鳥居坂」という名前が付けられたのは
元禄年間、1688〜1703年頃だといわれています。

 

おもしろいことに1673 ~ 1681年(延宝)の
地図には、「鳥居坂」の名前がないだけではなく、
坂そのものも見当たらないことです。

 

その後の1699年(元禄12年)の地図に
なりますと「鳥居坂」が登場します。

 

このことから、1681年から1699年までの間に、
鳥居家の敷地の一部を道にしたと考えられて
いるようです(「港区 鳥居坂物語」)。

 

 

160411toriizakaue「鳥居坂」の上から下を見た写真

 

 

 

鳥居元忠は「鳥居坂」を知らなかった!

先ほど私は「鳥居坂」の名前は、「江戸時代、
この場所に大名の鳥居彦右衛門元忠の屋敷が
あったことから名づけられた」
と一般的に言われていることを書きました。

 

徳川家の家臣で、下総香取郡矢作藩の初代藩主
である鳥居元忠(とりい  もとただ)は、
1539年(天文8年)に松平氏の家臣・鳥居忠吉
の三男として三河(愛知県岡崎市)に生まれ、

 

1600年(慶長5年)の8月1日、62歳の時に
関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦いで
鈴木重朝との一騎打ちで討ち死をしています。

 

 

151030kinokuni

 

 

つまり亡くなったのは1600年ということで、
「鳥居坂」が作られた100年近く前に、すでに
亡くなっているのですから、元忠自身は
「鳥居坂」の存在は全く知らなかったはずです。

 

となりますと「江戸時代、この場所に大名の
鳥居彦右衛門元忠の屋敷があったことから
名づけられた」というよりは、

 

「この場所の近くにあった大名屋敷『鳥居家』から
名づけられた」と表現する方が、より正確で、
かつ誤解がないようにも思えますね。

 

 

toriizakaピンク色の部分が「鳥居坂」

 

 

 

「鳥居坂」が出来た当時の当主は?

ここで、鳥居家の歴代当主を見てみましょう。
鳥居家は元忠が初代ではありませんが、ここでは
わかりやすく元忠を①として数えることにします。

 

 

*  歴代当主の名        当時の領地
________________________
① 元忠(もとただ)
 1539〜1600

 

② 忠政(ただまさ)    1590年〜1600年
元忠の二男       下総矢作藩(4万石)
* 1566〜1628

1566〜1628*         1600年〜1622年
              陸奥磐城平藩(10万石)

             1622年〜1636年
             出羽山形藩(22→24万石)

 

③ 忠恒(ただつね)        ↓
忠政の長男             断絶
 1628〜1636
末期養子が認められず、山形藩没収

                  再興
④ 忠春(ただはる)    1636年〜1689年
忠政の三男、忠恒の異母弟  信濃高遠藩(3万2千石)
 1624〜1663

 

⑤ 忠則(ただのり)         改易
忠春の長男
 1646〜1689
                  再興
⑥ 忠英(ただてる)    1689年〜1695年
忠則の次男           能登下村藩(1万石)
 1665〜1716

             1695年〜1712年
             近江水口藩(2万石)

             1712年〜1871年
             下野壬生藩(3万石)

 

⑦ 忠瞭(ただあきら)1681〜1735 忠則の五男
⑧ 忠意(ただおき)1717〜1794 忠瞭の長男
⑨ 忠見(ただみ)1750〜1794 忠意の四男
⑩ 忠熹(ただてる)1776〜1821 忠見の次男
⑪ 忠威(ただあきら)1809〜1826 忠熹の次男
⑫ 忠挙(ただひら)1815〜1857 忠威の弟
⑬ 忠宝(ただとみ)1845〜1885 忠挙の三男

          1869年(明治2年)版籍奉還

 

 

120px-Japanese_Crest_Torii_Sasa.svg鳥居氏 家紋「鳥居笹」

 

 

1681年には記載がなかった「鳥居坂」が地図に現れた
のは、1699年からですので、その間の当主といいます
と、⑤忠則か、⑥忠英ということになるでしょうか。

 

 

 

「三河武士の鑑」といわれた元忠

なお「③忠恒」から「⑥忠英」の時代、右の領地の
記載には「断絶」と「再興」の言葉が見えます。

 

断絶した家がなぜすぐ再興したのか不思議に思い
ますが、これには「三河武士の鑑」と謳われた
鳥居元忠の活躍が関係しているのです。

 

元忠は、今川氏の人質として「松平竹千代」
と呼ばれていた徳川家康のもとに
13歳の時から仕えていました。

 

人質だった家康は3歳上の元忠に、主従を越えて
共に育った兄弟のような感情さえ
抱いていたのではないでしょうか。

 

 

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会津征伐に出兵する家康は、伏見城
に残して行く元忠に言います。

 

手勢不足のため伏見にわずかな
人数しか残せず苦労をかける、と。
すると元忠は、このように答えたのです。

 

「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば
自分と松平近正両人で事足りる。
将来殿が天下を取るには、一人でも多くの
家臣が必要である。
もし変事があって大坂の大軍が包囲した時は
城に火をかけ討死するほかないから、人数を
多くこの城に残すことは無駄である。
一人でも多くの家臣を城から連れ出して欲しい」と。

 

家康と元忠はその夜、おそくまで
酒を酌み交わしたといいます。

 

元忠が10歳の家康に仕えてから
50年の歳月が流れていました。

 

 

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そして元忠は伏見城で討死し、京極口に晒されて
いた首級は、知人の商人が葬ったということです、
元忠の忠節は「三河武士の鑑」と称されました。

 

生涯、家康への忠義を貫いた元忠は、秀吉からの度々
の官位推挙の話も受け入れることはありませんでした。

 

元忠の最期の場である伏見城の「血染めの畳」を
江戸城の伏見櫓の階上に置かせた家康は
途城する大名たちに元忠を偲ばせたといいます。

 

 

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元忠の功績により

さてここで先ほどの「断絶」に戻りますと、
元忠の孫にあたる忠恒は子どもがなく、
33歳で亡くなる直前の養子縁組に関してルール違反
をしたということでお家断絶になってしまいます。

 

しかし大政参与(幕府の職制の1つ)の井伊直孝
の反対にも関わらず、祖父・元忠の功績により
鳥居家は存続されることになったのです。

 

亡くなった忠恒の異母弟にあたる
忠春が信濃高遠藩主となりました。

 

それにとどまらず忠春の子、忠則も問題を
起こして閉門中に急死し(自害したと
いわれている)、再び領地没収。

 

2度目の不祥事ではありましたが、ここでも
元忠の功績により忠則の子・忠英は能登下村藩
(1万石)の藩主となることができたのです。

 

 

130312simoyasiki赤穂浅野家 下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

「血染めの畳」も凄まじいですが、元忠の忠臣
ぶりは、しばしば子孫を救うことになりました。

 

忠臣といえば、鳥居元忠の四男である鳥居忠勝の
娘は、赤穂藩家老・大石良欽に嫁いでいます。

 

そしてその孫が大石良雄(内蔵助)ですので
元忠は、内蔵助のひいひいおじいちゃん
(高祖父)にあたるのですね。

 

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