「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!
今日は干菓子を
この干菓子はいただいたものなのですが
千葉県にお住まいの方からのものでした。
その方が、柏市にある「福島家」という和菓子屋
さんでお買い求めになったということでした。
干菓子はこのような包装紙に包まれていました。
私は「福島家」のものを頂いたのは初めて
だったので、この包装紙を見た瞬間、思わず、
「オーク!」
と言ってしまったのですが、違いますね。
これは柏の葉っぱなのでしょうか?
柏市ですから。
作っているのは香川県の「ばいこう堂株式会社」
この包装紙をあけて、箱の裏を見ましたら
作っているのは「福島家」ではなく、香川県に
ある「ばいこう堂株式会社」という会社でした。
材料の「和三盆」とは、主に香川県や徳島県
など、四国で伝統的に生産されている
お砂糖の一種のことをいうのだそう。
徳島の和三盆を「阿波和三盆」といい
香川の和三盆を「讃岐和三盆」といいます。
竹蔗というサトウキビから作る和三盆
「和三盆」は高級なお砂糖だということ
ですが、お砂糖ですので、原料は当然の
ことながらサトウキビです。
ですが、このサトウキビが普通の
サトウキビではなく、「竹蔗(ちくしゃ)
・竹糖(ちくとう)」という種類の
細長いサトウキビです。
すくすく育つ竹蔗
(写真/「ばいこう堂」)
普通のサトウキビよりも背が低く、茎も細い
ため同じ面積の土地で栽培するとしたら、竹蔗の
ほうが生産量は少ないということになります。
またサトウキビは花が咲かずに、栄養分を全て茎
に蓄えるために、茎自体に旨味を含むのだそう。
竹蔗と名前に「竹」とついていますが
竹の仲間ではなくイネ科の植物です。
江戸時代は黒砂糖が一般的
江戸時代には、お砂糖の存在は知られていたものの
使用するのは、黒砂糖が一般的だったといいます。
育った竹蔗は11月に刈り取ります
(写真/同上)
日本での砂糖作りを奨励したのが、
享保の改革で有名な八代将軍、徳川吉宗。
宝暦年間、高松五代藩主、松平頼恭(よりたか)
の命により、池田玄丈というお医者さんが
お砂糖作りの研究を始めますが、ついに完成
を待つことなく亡くなってしまいます。
池田玄丈の遺言を守って、彼の思いを完成させたのが
彼の弟子であった向山周慶と伝えられています。
砂糖作りを完成させた向山周慶
この向山周慶(さきやましゅうけい)が、
砂糖作りに成功したいきさつが面白いです。
彼は、病にかかって行き倒れになっていた人を
連れて帰り治療をして助けてあげたのですが、
その人は薩摩の奄美大島の人でした。
その人、関良介(助)から
「砂糖作りの経験がある」
と聞いた向山周慶は、彼に頼みます。
「是非、砂糖作りを手伝ってほしい」と。
和三盆を「ばいこう堂」では和三宝と呼びます
(写真/「ばいこう堂」)
人を助けたことにより助けられる
関良介(助)は命の恩人に報いるために、
藩外持ち出し禁止のサトウキビを
讃岐地方で育てました。
そしてその後、さまざまな研究の
後に1790年、寛政2年、ついに
白砂糖を作ることができたのです。
この白砂糖が、さぬき和三盆へと
つながっていくことになります。
向山周慶が奄美大島出身の関良介を助け
たのは、1788年頃とされています。
そしてその少し前にも、彼は京都で大火に
罹災した薩摩の医師を救っており
彼から製糖術を伝授されたそうです。
向山周慶は、彼自身の研究熱心と勤勉さは
もちろんのこと、人を助けることにより、結果的に
お砂糖を作ることに成功したともいえるのですね。
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