「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!
赤坂の溜池にあった森永製菓の最初の工場
以前、「あぷりのお茶会」で森永の「ベイク
クリーミー」御紹介した時に、森永の創業者の
森永太一郎のお話を少しだけしました。
佐賀県の素封家に生まれたものの幼くして
父親が亡くなり母が再婚したために、森永太一郎
は親類の家を転々として育ったということなどを……。
24歳の時に九谷焼の販売のためにアメリカに
行った森永太一郎は、一度は帰国したものの
再びアメリカに向かいます。
人種差別の激しかった当時、森永太一郎はやっと
のことで、賃金の安いキャンディー工場へ就職が
かない、そこで12年間の修行を積みました。
その後、帰国した森永太一郎が1899年、
明治32年に、初めて森永西洋菓子製造所
をつくったのが赤坂の溜池でした。
森永太一郎、39歳の時です。
赤坂・溜池で作ったマシマロー(マシュマロ)
「森永西洋菓子製造所」は、わずか
2坪の工場だったそうです。
2坪って4畳ですよっ!
4畳の工場から森永製菓は出発したのですね。
そう考えますと、何かちょっとグッときます。
工場はその後、溜池から移り、現在では
森永製菓は横浜、愛知、栃木,静岡と
4つの工場を持つまでになりました。
森永製菓が赤坂・溜池に作った2坪の工場で
最初に作ったお菓子はマシマロー(マシュマロ)。
森永が最初に作ったのは
どんなマシュマロだったのでしょうね。
マシュマロをディスプレイしながら
当時、マシマロー(マシュマロ)は
日本にはなじみのなかったお菓子だった
ため、買いたいという人はいませんでした。
そこで森永太一郎は、ガラス張りの箱車を
作って、マシマロー(マシュマロ)をディス
プレイしながら東京中を歩いたといいます。
そのかいあって、徐々にマシマロー
(マシュマロ)は、人々に受け入れられて
仕事も軌道にのるようになりました。
ところがそうなりますと
類似品を作る人も現れ始めました。
そこで森永太一郎はシンボルマークを作ったのです。
エンゼルマークの変遷
それが今でも有名な、森永のエンゼルマーク。
ただし最初のエンゼルマークは、現在のもの
とは違ってこのようなマークだったようです。
初代のエンゼルマーク 1905年
なぜ、エンゼルマークにしたかといいますと
最初に作ったお菓子マシマロー(マシュマロ)
が、アメリカでは「エンゼルフード」と
呼ばれていたからだそう。
エンゼルマークは、その後も何度か
デザインの変更をしています。
こちらは1951年から使われ始めた
6代目にあたるエンゼルマークです。
6代目のこのマークは、私も見た記憶があります。
そして1986年から使用されることになった
次の7代目のエンゼルマークがこれ。
6代目→7代目で、がらっと
ザインが変わりましたね。
「M」の字が大きくなり、エンゼルは
それといわれなければわからないほどです。
半世紀以上前にできた「エンゼルパイ」
そうそう大切なことを言い忘れてしまいました。
今日、御紹介の森永「エンゼルパイ」は1961年、
昭和36年の発売だそうです。
森永のサイトによりますと、「エンゼルパイ」が
発売されたのは1961年と書いてあるのですが、
「エンゼルパイの歴史」では、エンゼルストアで
限定販売されたのは1958年とあります。
森永のサイトで間違いを記載して
いるとは考えられませんので
1958年にエンゼルストアで限定販売をした後に
1961年に、一般に売られるようになった
ということなのでしょうか?
いずれにせよ、発売からすでに
半世紀以上もたっています。
私の感覚としては、マシュマロが挟んである
ということから、ちょっと斬新な気もしてもっと
最近にできたお菓子なのかと思っていましたが。
森永の最初のお菓子であるマシュマロが
使われていて名前も「エンゼルパイ」。
ということは「エンゼルパイ」は、森永を代表
するお菓子の一つといえるのかもしれませんね。