「空のなごり」 吉田兼好が『徒然草』に書いたのは「空」か「別れ」か?

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2014年8月の終わりの空

今日で8月も終わっちゃいますね。
別に、もう小学生でも中学生でもないのだから
8月31日になったからといって、夏休みが
終わるというわけでもないのに。

 

『智恵子抄』の「あどけない話」の中で
智恵子は「東京に空はない」と言ったと
高村光太郎は書いています。

 

智恵子の故郷の安達太良山を見たことは
ありませんが、私にとってこの東京の
空はかけがえのない、私の空。

 

冒頭の写真は、8月30日の夕方になる
少し前の空です。

 

 

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「空の名残」とは「空ろな別れの余韻」なの?

「徒然草」(吉田兼好)の中で兼好法師は
このように書いています。

 

「某とかやいひし世すて人のこの世のほだし
もたらぬ身にただ空のなごりのみぞ惜しき
といひしこそまことにさも覚えぬべけれ」

 

この部分を、中学校か高校か忘れて
しまいましたが、とにかく授業で
こんなふうに学んだ気がします。

 

 

 

 

「ある世捨て人が、この世のほだし
(係累)がない身にも空のさまざまに
変わる様だけは心にかかる、
と言ったが、本当にそうである」と。

 

ところが、今調べるとそうでは
ないと書いてあるのです。

 

詳しい事は省略しますが、
(「日本古典文学摘集 古典を読む 徒然草」
をみてね)空のことではないと。
そこには、このように書かれていました。

 

「この世の絆しも足らぬ身に、
ただ空ろな別れの余韻ばかりが心に
残っている、
と読むのが自然でしょう」と。

 

 

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「持たぬ身」or「も足らぬ身」?

まず「この世のほだしもたらぬ身に」の
部分の、「もたらぬ」の解釈が違います。

 

私が今まで思っていた解釈でいいますと
「この世のほだし 持たらぬ身に」
ということです。

 

ところが今回、知った解釈は
「この世のぼだしも 足らぬ身に」
だというのです。

 

 

 

 

今までの方は、ほだし(係累)を持って
いないとの意で、今回知った方は、
ほだしも足らぬ身、ということですね。

 

なにか「弁慶がなぎなたを
(弁慶がな ぎなたを)」
みたいになってきましたが……。

 

「もたらぬ」だけではなく、「空の名残」
が「空」ではなく「うつろな」であり、
「名残」は「別れの余韻」のことだと。

 

とにかく、今日知った解釈によりますと
「空の名残」という意味は空のことではなく
「空ろな別れの余韻」の意味だと
説明してありました。

 

 

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それではわたくしめが申しましょう(!)

そうなんですか?
吉田兼好は「空」について書いてあるのではなく
「空ろな別れ」のことを書いているのですか?

 

今まで考えていた事と、全く違って
いるので少々戸惑っております。

 

本当の意味はそうであるならば、それでは
僭越ながら今度は私が書いちゃいます(!)。

 

 

 

 

「この世のほだしもたぬ身に
ただ空のなごりのみぞ惜しき」
(by しのぶっち)

 

20歳ちょっと過ぎた頃、当時住んで
いた家からは、富士山を包む
美しい夕焼けが見えました。

 

その美しすぎる空を見るたびに
吉田兼好の「徒然草」のこの言葉が
頭に浮かんでいたものです。

 

 

 

 

そして、それは今でも同じ。
今のうちは、富士山は見えないけどね。

 

この世のほだし持たぬ身(もたらぬ身  ではなく)
ではあり、いつこの世を去ってもいいと
すら思いますが、この美しい空だけは
やはり心残りという気がするのです。

 




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