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東京タワーのそばの「飯倉公園」
今日、御紹介するのは東京メトロ南北線の「赤羽橋」
から徒歩2分の場所にある「飯倉公園」です。
住所は東麻布1丁目21−8。
広さはそれほどでもなく
2,192,38平方メートルということです。
冒頭の写真でおわかりのように
「飯倉公園」の東側には東京タワーが聳えたち
芝公園の敷地が広がっています。
次の写真は「飯倉公園」の北側の
入口付近から撮った写真です。
右が遊具広場となっていて、お砂場、ブランコ、
滑り台などがあり、左は右とは反対に広い
スペースを確保した東側広場になっています。
由緒ある「飯倉」の地名
「飯倉公園」の「飯倉」とは
都内でも有数の由緒のある地名。
鎌倉時代に成立した日本の歴史書である
『吾妻鑑(東鑑)』の1184(寿永3)年の条に
源頼朝の寄付した土地として飯倉の名が見えます。
穀物を保存する蔵があった土地ということで
名づけられたと思われ、大化の改新前後にまで
遡るとの説もあるそうです。(「麻布細見」)
古くから街道筋として発展したこの付近では、
大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で
鬼の腕を切り落とした話で有名な渡辺綱
(わたなべ の つな)の伝説も生まれた場所だとか。
室町時代には特に豊かだったといわれ
江戸時代も四辻(飯倉交差点)を中心に賑わいを
みせ大名屋敷や学者が多く住んでいた場所でした。
「飯倉公園」は、戦後の区画整理事業によって
造られたものですが、この写真の古い住居表示
の碑には、上の方には右側から左に「麻布区」と
下は縦書きで「飯倉五丁目と書かれています。
「麻布区」の「区」は、ふるい
字体の「區」となっていますね。
現在は東麻布1丁目ですが、以前は飯倉5丁目でした。
「赤羽接遇所」跡
現在は港区立「飯倉公園」として親しまれている
この場所は、「赤羽接遇所跡」としてとして
1993(平成5)年3月23日に港区登録文化財
(旧跡)の指定を受けた場所でもあります。
「接遇所(せつぐうしょ)」とは、外国人
のために設けられた宿舎兼応接所のことで
現在の赤坂迎賓館の前身ともいえるもの。
「赤羽接遇所」ができたのは1859(安政6)年です。
ペリーが黒船で浦賀に来航したのは1853(嘉永6)年
で、その5年後の1858(安政5)年には、
アメリカとの修好通商条約を調印しています。
またオランダやロシア、イギリスとも条約を
締結したことから、それまではなかった
このような施設が必要とされたと思われます。
「赤羽接遇所」 ← 「講武所付属調練所」
ちなみに「赤羽接遇所」ができる前にこの場所に
あったのは、「講武所付属調練所(こうぶしょ
ふぞくちょうせんじょ)」というもの。
こちらも「接遇所」と同様に、日本語なのですが
現代の私たちにはよく意味がわかりませんね。
「講武所」というのは、江戸時代末期に設けられた
幕府の軍事修練所のことだそうで、旗本や御家人の
子弟に剣術、鉄砲などを教える場所でしたが、1866
(慶応2)年に陸軍所の設置により廃止されたそうです。
右側の中央あたりの赤い「V」字型が「赤羽接遇所」があった場所
すぐ下に「赤羽橋」と表示されているのは地下鉄赤羽橋駅という意味
その右側に赤い線で囲った「赤羽橋」が実際の橋です
シーボルト父子も滞在
黒い門と、高い黒板塀で囲まれた「赤羽接遇所」の
敷地内には間口十間、奥行き二十間の建物と、間口も
奥行きも十間という2棟の木造平屋家屋が建っていました。
幕末に日本を訪れたプロイセンの使節・オイレン
ブルグやシーボルト父子、ロシア領事・ゴシケビチ
などが宿舎として滞在しています。
この「赤羽接遇所」の建設には、作事奉行
・関出雲守行篤(せき いずものかみ ゆきひろ)
があたったということです。
関行篤は生没年は不明ですが1859(安政6)年
には京都町奉行として安政の大獄に携わり、
1861(文久元)年には将軍・徳川家茂の
正室・和宮付となった旗本です。
黒船来訪〜日米修好通商条約締結
1853年
* 6月3日 午後5時に、黒船が浦賀沖に現れる
(旧 7月8日)
* 6月22日 第12代将軍・家慶(いえよし)死去
(7月27日)
* 11月23日 第13代将軍・家定就任
(11月4日)
1854年
*1月6日 ペリー再び浦賀に来航
(2月13日)
*3月3日 日米和親条約(神奈川条約)が締結
(3月31日)
* 5月22日 和親条約の細則を定めた下田条約を締結
(6月17日)
* 6月1日 ペリー艦隊、下田を去る
(6月25日) 帰路で琉球王国とも正式な通商条約を締結
* 8月23日 日英和親条約締結
(10月14日)
*12月21日 日露和親条約締結
(2月7日)
1855年
*12月23日 日蘭和親条約調印
(1月30日)
1856年
*7月21日 初の日本領事、タウンゼント・ハリスが
(8月21日) 下田に赴任
1858年
*3月4日 ペリー、64歳で死去後、アメリカは
* 南北戦争に突入
* 6月19日 日米修好通商条約
(7月29日) (Treaty of Amity and Commerce)
* 14代将軍・家茂が「源家茂」と署名
* 7月6日 第13代将軍・家定死去
(8月14日)
* 10月25日 第14代将軍・家茂(いえもち)就任
(12月1日)
1859年
*8月 赤羽接遇所完成
1860年
* 日米修好通商条約の批准書を交換するために
* 万延元年、遣米使節(咸臨丸の勝海舟を含む)
* が派遣される
* 条約に反対する朝廷の勅許のないまま締結した
* ことから「安政の大獄」や「桜田門外の変」が
* 起き井伊直弼は暗殺された