「メディチ磁器」マイセンより100年以上前にイタリアに誕生した幻の磁器

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「この世の至高の什宝」

マルコ・ポーロがその著書「東方見聞録」の中で
初めて中国磁器を紹介すると、中国磁器は
ヨーロッパの王侯貴族の憧れの的となりました。

 

磁器に魅せられた人々は中国磁器を
「ホワイト・ゴールド」「この世の至高の什宝」
とまで讃えられるようになったのです。

 

そして当然のことながら、ヨーロッパの人々も
この透き通るように美しい肌を持った磁器を
自らの手で作ることができないだろうかと
考えるようになりました。

 

 

「マジョリカ焼」

 

 

 

イタリアで磁器作りに挑戦

ヨーロッパで最初に磁器製造に成功したのは1709年、
マイセンのベトガーでしたが、それ以前の
ルネッサンス期のイタリアでも磁器製造に
取り組んだことがありました。

 

しかしこれは残念ながら成功することなく終わります。
叶わなかった磁器製造のかわりでもあるかのように
イタリアではマジョリカ陶器」が発展しました。

 

15世紀にギリシャの東ローマ帝国がオスマントルコ
によって滅ぼされると、イタリア半島では
フィレンツェを中心にルネサンスが訪れます。

 

 

「デルフト焼」

 

 

東方から科学技術が流入し、アフリカからは金が、
アメリカ大陸からは金に続いて銀がもたらされる
ようになっていたフィレンツェ。

 

そこに1000年以上前に古代ペルシャで作られスペイン
に広がっていたマジョリカ焼が、マジョリカ島経由で
シチリア、フィレンツェへと伝えられていたのです。

 

ルネッサンスの新風の中でマジョリカ焼は進歩し、
後にアントワープからデルフトへと移ると
ともに
、それぞれの地で創意工夫が
加えられて「デルフト焼」となりました。

 

 

 

 

 

イタリアでのもう一つの試み

磁器製造は叶わずマジョリカ焼の発展へと
繋がったこの試み以外にもイタリアでは
もう一つ別の磁器製造を試みた人がいました。

 

ヨーロッパ初の白磁製造に成功したマイセン
のベトガーより100年以上も前のこと。

 

フィレンツェのメディチ大公がそれを試みました。
そしてその試みは、ある程度の成功を収めたのです。

 

 

 メディチ家の紋章

 

 

 

メディチ家

メディチ家はルネッサンス期のフィレンツェを
支配し、金融業や政治の世界で活躍した一族。
新興商人階級に属し、元々の出自はわかっていません。

 

ローマで金融業を営んでいた初代のジョバンニ・ディ・
ビッチが、1397年に本拠地をフィレンツェに移した
ことからフィレンツェでの活躍が始まります。

 

仕事で得た莫大な財産でボッティチェリ、レオナルド・
ダ・ヴィンチ、ミケランジェロという芸術家のパトロン
となりルネッサンス文化を育てたことでも有名ですね。

 

「メディチ(Medici)」という名前は「メディカル
(Medical)」からきていて、紋章についている
プチプチは丸薬を表しているともいわれますが、薬種業
を営んでいたという裏付けとなる資料はないそうです。

 

 

 

メディチ家家系図(「that blog-ish thingy」)

                                 ↑ 下から2番目が
                                 フランチェスコ1世

 

 

 

フランチェスコ1世・デ・メディチ

初代から数えて7代目のフランチェスコ1世・デ・
メディチ(Francesco Ⅰ de Medici、1541年〜1587年)
が、ヨーロッパで最初の磁器に取り組みました。

 

磁器製造に関わった期間は、1575年頃から1583年
までの短い期間といわれていますが、これについて、
松本典昭「マニエリスム期におけるメディチ家の宝物
コレクション」では、

 

「ヴァザーリは,『美術家列伝』第2版(1568年)で,
* フランチェスコ 1 世が1560年代から磁器工房を
* 開いて試作の 実験に乗り出したと伝えている」

 

と記されていますので、一般的に伝えられているよりは
かなり早い時期から取り組んでいたのかもしれません)

 

 

フランチェスコ1世・デ・メディチ
(Francesco de’ Medici 、1541年〜1587年)

 

 

1575年「メディチ磁器( Medici porcelain )」完成

1574年、フィレンツェで、フランチェスコ1世の命
により始められた研究は、レヴァント人の協力のもと、
翌1575年には「メディチ磁器」を完成します。

 

一説にはマジョリカ焼の陶工が焼いたともいわれて
いますが、できた作品のほとんどが染付であり
マジョリカ焼独特のおおらかな派手さはありません。

 

「メディチ磁器」という名前ではあっても
正確には磁器ではなかったのですが、外観が
かなり磁器に似ていたためにそう呼ばれています。

 

 

中国磁器「染付芙蓉手蓮池水禽文輪花大皿」
景徳鎮窯 1590~1630年代 九州陶磁文化館所蔵

 

 

 

材料に「カオリン」を含まない

メディチ磁器は、硅(ケイ)砂、ガラス、水晶粉に、
ファエンツァの白陶土、ビセンツァ粘土を混合した
素地に、錫(スズ)釉を掛けた陶器で、中国磁器を
お手本にマジョリカ焼の技法も取り入れたものです。

 

釉薬は比較的厚めで気泡が多いために
コバルトが少し滲んだように見えるそうです。

 

材料には、磁器作りといえば欠かせない
「カオリン」
を使用していませんので、正確にいうと磁器ではなく
陶器ですが、かなり磁器に近づいた「軟質磁器」です。

 

 

「メディチ磁器」(Baby’s bottle in Medici porcelain.
Soft Paste Porcelain ca. 1575–87.)
(写真/「Jelly Angel」)

 

 

 

フランチェスコ1世もともに

フランチェスコ1世は磁器製作を命じるのみでなく、
カジーノ・ディ・サン・ マルコの工房で多くの錬金
術師と一緒に一日中、磁器製造に没頭したといいます。

 

錬金術が好きで科学に明るいということが、磁器作り
への意欲を一層かきたてたのかもしれません。

 

マイセンでベトガーに磁器製造を命じたザクセン
強王は秘密の漏洩を恐れて、ベトガーを監視付きの
部屋に閉じ込め外界との接触を一切絶たせましたが、
フランチェスコ1世は、自ら実験に勤しんで
いたということのようですね。

 

 

メディチ磁器(©RMN, Sèvres,
cité de la Céramique, Martine Beck-Coppola)

 

 

 

ヴァザーリも絶賛!

その甲斐あって、正確には磁器ではないものの美しい
軟質磁器の「メディチ磁器」が生まれました。

 

イタリアの画家であり建築家、美術史家でもある
ヴァザーリは、メディチ磁器について

 

「素晴らしい技術から生まれる完全な作品であり、
しかも芸術的にも最高の到達点である」
と絶賛しています。

 

 

「メディチ磁器」皿 1575年〜1587年
大英博物館所蔵(写真/「やきもの色々」)

 

 

 

つかのまの煌き

しかし1587年、毒殺とも噂されたフランチェスコ1世の
死とともにメディチ磁器の歴史も終わることになります。

 

この後、イタリアで磁器が作られるのは100年以上後の
ウィーンからの硬質磁器を受け継ぐヴェッツィ窯で
作られる1720年のことです。

 

短い製造期間だったこともあり、現在残っている
メディチ磁器はごくわずかなものです。

 

フランチェスコ1世の亡くなった年、1587年の
財産目録によれば
「メディチ磁器」は820点を数えて
いますが、現存するのは60点ほどにすぎません。

 

セーヴル国立陶芸美術館に9点、
ヴィクトリア&アルバート美術館に9点、
ルーブル美術館に6点、
大英博物館に4点、
メトロポリタン美術館4点、などです。

 

 




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