女性参政権を提案した山脇玄が山脇房子とつくった「山脇学園」

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

141126akasakasacaskouyou

 

 

落ちて行く葉と、建ち上がる校舎

赤坂サカスのACTシアターを取り巻くように植え
られている桜の木も、すっかり紅葉をしています。
中にはもう葉っぱが落ちてしまった木もありますね。

 

でも今日は、赤坂サカスではなく、赤坂サカスから
少々北側に位置する「山脇学園」のお話です。

 

「山脇学園」はここ2012年から新校舎を建設中。
この写真でも真ん中あたりにクレーンが見えるでしょう?

 

 

141126yamawakigakuen

 

 

「山脇学園」の後ろに見えるビルの
右から2番目に少しだけ見えるのは
ホテルニューオータニ ガーデンタワー。

 

 

200px-Hotel_New_Otani_Tokyo_Garden_Tower-200x200

 

 

「山脇学園」の校門のそばの建設計画の
お知らせによりますと、2015年3月31日に
完成予定と書いてあります。

 

2012年から始まった工事ももうすぐ終わるようです。

 

 

yamawakigakuenkouji-400x316

 

 

 

創立111年

「山脇学園」は今年、創立111年を迎えました。
1903(明治36)年、牛込に女子実修学校として誕生。

 

1935年に今日の写真の場所である
赤坂丹後町(赤坂四丁目)に移転しています。

 

 

fa88b50db7f25b0631e215569767b29e 山脇玄(写真/「YAMAWAKI」)

 

 

 

山脇玄、山脇房子夫妻がつくった「山脇学園」

今年の9月1日、「山脇学園」の始業式中で
黙祷が行われていたことから、校長先生が
お亡くなりになったのを知りました。

 

現在は、山脇恭校長。
「山脇学園」の創立者は、山脇玄、
初代校長は彼の妻の山脇房子です。

 

山脇玄は、ドイツに留学して医学、解剖学、
法律、政治等を学び、ドイツから初めて
「ドクトル」の称号を授与された日本人。

 

帰国後は、明治憲法、皇室典範の草案、起草に
参画し貴族院の勅撰議院として活躍した方です。

 

 

yamawaki_fusako2山脇房子(写真/同上)

 

 

 

「これからは女でも勉強さえすれば……」

1867年、慶応3年、松江藩士の武家屋敷に
誕生した山脇房子は、明治維新により
6歳の時に小さな家に引っ越しました。
その理由を問うた房子に、
父はこう答えたといいます。

 

「御一新の世だからだ。
これからは女でも勉強さえすれば、
いくらでも偉くなれる」と。

 

房子の一生は、まさに父の言葉通りに
歩んだものといえるでしょう。
9歳で小学校に入学し、10歳で孟子や論語を
諳んじ成績優秀のため飛び級で2年で卒業。

 

 

 

 

 

向学の思いは消えず

その後、進学を望んだものの、両親の
反対で断念せざるを得ませんでした。

 

3人の兄の学費のために房子の学費がなく、
また母が病気で房子が家事を担わなくては
いけなかったからです。

 

しかし翌年、松江女子師範学校に入学し、
その後、16歳で英語の習得のために仙台に行き、
18歳で東京へ、というように向学への情熱が
衰えることはありませんでした。

 

 

kokkaigijidoushugiin131121

 

 

そして27歳の時に、山脇玄と結婚し
後に二人で「山脇学園」をつくることになります。

 

 

 

女性参政権の提案演説をした山脇玄

「山脇学園」は国会議事堂に近い学校の一つですが、
山脇玄は貴族院本会議において、女性に参政権の
提案演説を日本で初めて行った人でもあります。

 

それは、男尊女卑の時代に
一大センセーションを起こしました。
しかし彼は、自己の持論を覆すことなく
女性の地位向上に努めたといいます。

 

 

 

 

明治、大正の女性教育の先駆者でもあった房子は
1935年、現在の赤坂四丁目にある校舎への落成移転
を目前にした11月19日に、69歳で亡くなっています。

 

女性が選挙権を得てから
まだ100年もたっていないのです。

 

一週間後は、衆議院議員選挙の投票日。
棄権などしていられませんね。
(参照/「MYタウン 赤坂青山」第24号)

 

スポンサードリンク