ふぐの薄造り「春帆楼」東京店 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

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「春帆楼」東京店

お正月も終わって少したった頃に
久しぶりに会ったお友達と、これまた
久しぶりのふぐ料理を楽しんできました。

 

お店は初めて行った「春帆楼」東京店。
2012年(平成24)にできたお店です。
住所は千代田区平河町になりますが
赤坂見附駅から歩いてもすぐ。

 

(「春帆楼(しゅんぱんろう)」東京店
千代田区平河町2-7-9 JA共済ビル内 03-5211-2941)

 

ふぐのコースはちょっと無理でしたので
ふぐの薄造りのついた籠盛り御膳に、日本酒
の地酒が楽しめるメニューを選択しました。

 

 

籠盛り御膳「春帆楼」東京店(写真/N子ちゃん)

 

 

 

大吟醸「東洋美人」

地酒はお友達のN子ちゃんが選んで
くれた大吟醸を冷やで頂くことに。
名前は「東洋美人」というだけあって
ほんのりと甘くて優しいお酒でした。

 

「なんといっても『東洋美人』だからね」と
わけのわからないことを言いあいつつ頂きましたが
私は日本酒は本当に久しぶり。

 

軽くてジュースのように飲めてしまう
口当たりのよい日本酒でした。
大きめのワイングラスに入ってきましたよ。

 

 

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「河豚禁食令」

今回訪れたのは「春帆楼」東京店ですが
本店は言わずと知れた下関。
ふぐといえば「春帆楼」というほど有名ですね。
なんといっても日本のふぐ料理
公許第一号というお店ですから。

 

「春帆楼」がふぐ料理公許第一号店となったのは
1888(明治21)年のことでしたが、それ以前は
豊臣秀吉以来の河豚禁食令がありました。

 

とはいってもふぐを食する人は絶えず
ふぐ中毒が増加したため法律で
「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていたとか。

 

 

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「春帆楼」の始まりは目医者さん?!

今でこそふぐの「春帆楼」ですが
もともとは医院でだったそうです。

 

江戸時代の末に、豊中中津奥平藩’(大分県)
の御殿医だった藤野玄洋は、自由な研究を
するために御殿医を辞して、医院を開業。

 

医院での長期療養患者のために、薬湯風呂や
娯楽休憩棟が用意され、藤野玄洋の妻の
みちが食事を采配することになりました。

 

玄洋は1877(明治10)年には別の地に
「月波楼医院」を開業。

 

玄洋が亡くなった後の明治15年頃、
伊藤博文の勧めにより、みちは「月波楼医院」
を改装して割烹旅館を開きます。

 

 

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命名は伊藤博文

「月波楼医院」を改装した割烹旅館は、それまでの
「月波楼」から「春帆楼」に名を改めました。
名前を付けたのは伊藤博文。

 

「春帆楼」は伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋などの
維新の志士達に愛されたお店でもあります。

 

「春帆楼」の名前の由来は
春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が
浮かんでいる様から名づけられたそうです。

 

 

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場所が全然違いますが…… 歌川広重「隅田川葉桜之景」
(絵/「ウィスコンシン大学マディソン校」)

 

 

 

打ち首覚悟でふぐ料理

1887(明治20)年の暮れ、当時総理大臣であった
伊藤博文が「春帆楼」に宿泊します。

 

その日は海が大時化で漁ができず、困り果てた
女将のみちは打ち首覚悟で禁制のふぐをお膳に……。

 

伊藤博文は、すでにふぐを食した経験が
ありましたが、あたかもその時初めて
という顔で「こりゃ美味い」と賞賛します。

 

そして翌年、山口県令(知事)に命じて禁を解かせ
「春帆楼」はふぐ料理公許第一号となりました。

 

 

daa4bb27下関の前田砲台を占拠したフランス陸戦隊
(写真/「面白きこともなき世を面白く」)

 

 

 

下関戦争

1853年6月3日にアメリカ海軍提督ペリーが
浦賀に来航、翌年の日米和親条約締結、
と日本は開国への道を歩み出します。

 

そしてそれは尊王攘夷の討幕運動
へと進むことでもありました。

 

開国以来、攘夷運動の気運のたかまる長州藩は下関海峡
を渡る米国商船を砲撃しましたが翌月、アメリカ・
イギリス軍艦から報復攻撃を受けてあえなく敗退。

 

翌年には米、仏にイギリス、オランダも
加わった四カ国連合軍から砲撃を受けて
長州藩はわずか1時間で壊滅状態となります。

 

その後、下関戦争の講和会議がもたれましたが
正史に抜擢されたのが高杉晋作、副史が杉孫七郎、
そして通史(通訳)が伊藤博文という面々でした。

 

 

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左が高杉晋作、右が伊藤俊輔(博文)
(写真/「面白きこともなき世を面白く」)

 

 

 

日清講和条約会議の舞台にも

そして時代は明治に変わり1896(明治28)年
4月17日、「春帆楼」は日清講和条約締結の
会議の場として選ばれています。

 

全権大使としてこの条約の締結
に尽力したのは伊藤博文。

 

その後、1937(昭和12)年に、日清講和会議
を後世に伝えるために、下関「春帆楼」の
隣りに日清講和記念館がつくられました。

 

講和会議が行われた部屋を
当時の調度のまま再現してあるそうです。

 

伊藤博文とともに下関戦争の講和会議の副史
として活躍した杉孫七郎は、討幕運動に獅子奮迅
の働きをした後、明治政府の高官として
千代田区の平河町に居を構えました。

 

現在「春帆楼」東京店のある場所は
明治大正期に活躍した山口県出身の政治家、
杉孫七郎の屋敷跡だということです。

 

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