「中の橋」で暗殺されたアメリカ公使館の通訳、ヒュースケン

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160524nakanohasi

 

 

オランダから米国に移民後に通訳として日本に

前回は赤羽接遇所が出来た頃のお話でしたが
当時日本は激動の時代、井伊直弼の暗殺もありました
が、それは日本人だけにとどまりませんでした。

 

外国との交渉に重要な役割を担っていた
通訳のヒュースケンもまた、攘夷派の
浪士に暗殺されています。

 

オランダ生まれのアメリカ人、ヒュースケン
(Henry C. J. Heusken、1832.1.20〜1861.1.16)
がアメリカ公使通訳として、ハリスと一緒に
日本にきたのは1856(安政3)年のことでした。

 

15歳で父を亡くしたヒュースケンは
21歳の時に移民として渡米。

 

夕食を抜いたり、野宿の不安と隣り合わせ
という貧しい暮らしの中で、英語とオランダ語
のできる通訳として採用されることになりました。

 

 

harris初の駐日アメリカ合衆国弁理公使
タウンゼント・ハリス(Townsend Harris,)

 

 

 

将軍謁見

ニューヨークから10カ月もかけてようやく到着
した日本でしたが、決して歓迎されたわけでは
なく、彼等を迎えたのは、できることならば
お引き取り願いたい、という対応でした。

 

日本の役人には後をつけられ
町を歩けば人々は窓を閉ざす。

 

驚くことに馬や犬までもが騒ぎたてる始末で
「ヒュースケン日本日記」によりますと
平然と普通にしていたのはネコだけだったとか。

 

ちなみにこの日記は当時の西欧の標準語で
あったフランス語で書かれており、
ヒュースケンはオランダ語、英語、フランス語、
ドイツ語が堪能だったということです。

 

ハリスが大統領親書を将軍に提出したい、と度々
願い出るものの一向に許可が出ず、下田から江戸
に向かうことができたのは、彼等が日本に
着いて一年以上たったあとのこと。

 

江戸への旅の途中で、富士山の美しさに感動
したヒュースケンは、思わず馬の手綱を引いて
脱帽し「素晴らしい富士ヤマ」と叫びます。

 

 

heuskenヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン
  Henry Conrad Joannes Heusken(英名)
ヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・フースケン
Hendrick Conrad Joannes Heusken(オランダ名)

 

(2016年8月10日  追記:写真の変更に関して
以前の写真はヒュースケンの写真としてネット上に
散見されますが、実はアーネストサトウの写真のようです。
この写真がヒュースケンではないかと思いますので変更しました。
(写真/「麻布・三田界隈の幕末事変を追う」)

 

 

 

鋭い洞察力と日本の人への優しいまなざし

ヒュースケンは、大名屋敷や江戸城の
様子をこのように記しています。

 

「部屋の様子は、見たところ下田の商人の家と
なんら変わりがない
……、虚飾や華美はまったく
目につかない」

「わずかに刀の柄に小さな金の飾りが認められる
くらいだった」

「江戸の宮廷の簡素なこと、気品と威厳をそなえた
廷臣たちの態度、
名だたる宮廷に栄光をそえる洗練
された作法、そういったものはインド
諸国のすべて
のダイヤモンドよりもはるかに眩い光を放っていた」

(『ヒュースケン日本日記
(Japan Journal  1855-1861)
青木枝朗訳』校倉書房、後に岩波書店)

 

昨今の「クールジャパン」などと
日本人自ら言ってしまう恥ずかしさに対し
ヒュースケンのこの言葉こそ私には嬉しく思えます。

 

 

160602nakanohashi「中の橋」2016年6月2日 冒頭の写真は冬の夕暮れに撮影

 

 

江戸で将軍との謁見を終えたヒュースケンは
まさに今西洋諸国の仲間に入らんとする
日本に対し、こんな心情も吐露しています。

 

「しかしながら、いまや私がいとおしさを
覚えはじめている国よ、

この進歩はほんとうに進歩なのか?
この文明はほんとうにお前のための文明なのか?
この国の人々の質撲な習俗とともに、その飾りけ
のなさを私は賛美する。

この国のゆたかさを見、いたるところに満ちて
いる子どもたちの愉しい
笑声を聞き、そして
どこにも悲惨なものを見いだすことができなかった

私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや
終わりを迎えようと
しており、西洋の人々が
彼等の重大な悪徳を持ちこもうとしている
ように
思えてならないのである」
(同上)

 

 

akabanebashiyukinozu「中之橋」付近  広重『東都名所芝赤羽根之雪』

 

 

 

麻布善光寺に滞在

江戸では麻布の善福寺にアメリカ公使館が
置かれ、ヒュースケンは善福寺門前の
善光寺に滞在することになりました。

 

彼はアメリカのみならず、イギリスやプロイセンの
通商条約締結交渉にも重要な働きをした人物です。

 

1861年1月当時はプロイセン代表部との仕事中で、
プロイセン(孛漏生)とは、プロシア(普魯西)
ともいい現在のドイツ北部にあった国。

 

1660年に独立したプロイセン公国は、1701年には
プロイセン王国となり、1871年にはドイツ帝国の
盟主となりましたが、第二次世界大戦後、
連合国から抹消されています。

 

本来ないと思われていたプロイセンとの
条約は1861年1月24日に調印。

 

交渉にあたった外国奉行・堀利熙(ほり  としひろ)
は、老中筆頭格の安藤対馬守信正との
口論の後に自害をしています。

 

 

160602nakanohasikousaten現在の「中の橋」付近 港区東麻布3-35

 

 

 

「中の橋」付近で教われる

24日の条約調印に先立つこと十日、
1月14日の夜に事件は起こりました。
ヒュースケンが当時プロシア使節団の宿舎だった
赤羽接遇所から、アメリカ公使館へ向かう途中です。

 

ヒュースケンの前には騎馬の役人が1人、後ろに2人、
その他に4人の徒士が提灯を掲げて随行していました。

 

一行、8人は赤羽接遇所から、わずか数分の場所
である「中の橋」付近で攘夷派の薩摩藩士の
伊牟田尚平、樋渡八兵衛ら7人に斬りつけられます。

 

刀で刺され両脇を負傷したヒュースケンは
そのまま馬を全力疾走させ、180メートルほど先
の場所で大声で役人を呼んだのちに落馬をします。
そこには血溜まりができていました。

 

そのあたりは道路の北、赤羽接遇所側には
戸沢上総介や京極佐渡守の屋敷が、また
南側には久留米有馬家の屋敷がありました。

 

現在は、店内に英語表記が多く見られ
外国人のお客さんも多い、日清ワールドデリカ
テッセンというスーバーがある場所でもあります。

 

 

紫色の線で囲ったものが「中の橋
赤い線で囲ったものが「赤羽橋
 赤く塗りつぶした場所が「赤羽接遇所
 ピンク色で塗りつぶした場所が「戸沢上総介屋敷
  紺色で塗りつぶした場所が「京極佐渡守屋敷
  黄緑色の丸が「日清ワールドデリカテッセン
  水色の丸が「善福寺
nakanohashi右の中央あたりのV字形の「赤羽接遇所」から
左端の「善福寺)」まで帰る途中の「中之橋」付近で襲撃された後
麻布十番の方に向けて馬を走らせ「京極佐渡守」の屋敷あたりで落馬

 

 

 

異国で迎えた28歳の死

襲われたのは夜9時頃とも深夜ともいわれますが
善福寺に運び込まれたヒュースケンは、医師の
手当も空しく、日付が15日になった30分後に絶命。

 

葬儀が執り行われた18日は
小雨と雪が降る日だったといいます。
お墓は善福寺が土葬が禁止だった
ために光林寺に葬られました。

 

事件の黒幕といわれた清河八郎が逮捕される
ことはなく、襲撃理由も彼への遺恨ではなく、
単なる攘夷派の外国人排斥というにいたっては
何とも救いようがない思いです。

 

ヒュースケンの母へは日本政府から1万ドルの
賠償がなされたようですが、わずか28歳の青年が
異国の地において、外国人だからという理由で
殺されるとは、さぞ無念だったでしょう。

 

暗殺から数カ月後の5月22日、2度目の来日中で
赤羽接遇所に滞在していたシーボルト父子が、
また4年後にはトロイの遺跡発見で有名なシュリーマン
も、ヒュースケンのお墓参りに訪れたということです。

 

なお、ヒュースケンの暗殺に関与したとといわれる
清河八郎ですが、後に「中の橋」から少し離れた
一の橋付近で彼自身もまた暗殺されています。

 

 

huskenA アメリカ公使館 善福寺(元麻布1-6-21)
住居 善福寺門前の善光寺(元麻布1丁目7-3)
B 赤羽接遇所 プロイセン公使団宿泊(東麻布1-21-8)
C 中の橋 ヒュースケン襲撃場所(東麻布)
D 落馬したと思われる場所(東麻布)
E 墓 光林寺(南麻布4-11-25)

 

 

 

男の子を生んだつる

そんな彼の子どもを産んだ
日本人女性がいたといわれています。
麻布坂下町の長屋に住む久次郎の18歳の娘で、名はつる。

 

横浜の遊女屋で年季奉公をしていたところを
麻布に戻され、遊女屋の6倍半以上の給金で
雇われたということが、外国奉行・村垣淡路守
の日記に残っているそうです。

 

またアムステルダム海事博物館に所蔵されている
写真の中に「Madame Heusken」と
書かれている写真も見つかっています。

 

ヒュースケンの息子ではないかといわれて
いるようですが、つると子どもがその後、
どのような人生を辿ったのかはわかっていません。

 

 

turuヒュースケンの妻・つると息子

 

 

高額なお給金で雇われたとはいえ、つるは子どもを
抱えて、生活に窮することはなかったのでしょうか?
ヒュースケンの母への賠償金の一部が
つるに渡ったとも思えません。

 

彼の子どもが、ヒュースケン自らが日記に
書き残したような「いたるところに満ちて
いる子どもたちの愉しい笑声」に満ちた
少年時代を過ごせたことを願うのみです。

 

 

160602nakanohasikita「中の橋」

 

 

 

黒船来訪からヒュースケン暗殺まで

1853   6月3日  黒船が浦賀沖に現れる
     6月22日  第12代将軍・家慶(いえよし)死去
    11月23日  第13代将軍に家定就任
1854   1月6日  ペリー再び浦賀に来航
    3月3日  日米和親条約(神奈川条約)が締結
     8月23日  日英和親条約締結
    12月21日  日露和親条約締結
1855  12月23日  日蘭和親条約調印
1856     7月21日     初の日本領事ハリスとともに
        シュースケン下田に
1858 6月19日        日米修好通商条約
     7月6日     第13代将軍・家定死去
    10月25日     第14代将軍に家茂(いえもち)就任
1859       8月    赤羽接遇所完成
1860    1月    日米修好通商条約の批准書を
        交換するために
          遣米使節(咸臨丸の勝海舟を含む)
        が派遣される
    3月24日 「桜田門外の変」で井伊直弼暗殺
1861   1月16日    ヒュースケン暗殺

 

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