「日向坂(振袖坂)」と「仙台坂」を繋ぐ「二の橋」 古川の橋9 「振袖坂」の名前の由来の一考察

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160729ninohasi

 

 

「二の橋」の欄干は矢羽根模様?

古川の橋、今日は「二の橋」の御紹介です。
冒頭の写真の手前側が麻布十番4丁目6番 で、
「二の橋」を渡った先は三田2丁目1 番 になります。

 

港区に入った古川の橋を「天現寺橋」から辿ってきて
今日の「二の橋(  m  )」は、11番目の橋。
住所が「南麻布」から、ここで初めて
「麻布十番」になりましたね。

 

 

古川に架かる橋hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)・
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

現在の「二の橋」は、1998(平成10)年12月に
新しく架け替えられたもので、長さは20メートル、
幅は15メートルほどの橋です。
橋の様子を書こうとして、その部分の名称がわからず…

 

「欄干」でもないですし、「手すり」とも違うしと
検索してみましたら「欄干(欄杆・おばしま・手すり)」
とありました。
欄干でいいのですね、あるいは手すりでもいいみたい。

 

 

160729ninohasi ↑ 「二の橋」のこのあたり矢羽根模様に見えませんか?

 

 

 

矢羽根模様は毛利家から?

とにかく「二の橋」のその手すりの部分の模様が
矢羽根を象ったようにも見えますよね。

 

と書きながら、ふっと思いました。
江戸時代、この「二の橋」を渡った場所には
徳山藩毛利日向守の屋敷があったことから
「日向橋」とも呼ばれていた橋です。

 

ということは、毛利家から「三本の矢」→  矢羽根模様
ということなのでしょうか?、調べた限りでは
そのような記述は見当たりませんが。

 

 

160729ninohasi麻布十番側から見た「二の橋」はすでに坂道

 

 

 

「日向坂(ひゅうがざか)」

上の写真でもおわかりの通りに、「二の橋」は
麻布十番(手前)から三田(橋を渡った先)
へと上り坂になっています。

 

そしてこの「二の橋」を渡ると
そこからは「日向坂」が始まります。

 

 

160814hyugazaka「二の橋」を渡ったところから始まる「日向坂」

 

 

「日向坂」の名前の由来としては
以下のように書かれています。

 

「江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。
振り袖坂ともいった。由来は不明である。
誤って日なた坂とも呼んだ」

 

「由来は不明」というのは「日向坂」の方ではなく
「振袖坂」の名の由来が不明ということですよね?

 

 

 

「日向坂」の別名「振袖坂」

「振袖坂」とはこれまた美しい名前の坂ですが
同じ名前の坂が、仙台の宮城野区榴岡(つつじがおか)
にもあることを知って(『flom  仙台』)
また、ふっと思いました。(よくふっと思う日です)

 

「日向坂(振袖坂)」を「二の橋」まで戻り、
そのまま真っすぐ麻布十番の方に行きますと
南麻布1丁目と元麻布1丁目の間に「仙台坂」
という坂があります。

 

 

160712sendaizaka元麻布1丁目と南麻布1丁目の間にある「仙台坂」

 

 

名前の由来は、当然のことながら仙台藩伊達家
の下屋敷があったことによるのですが、坂に
隣接している南側一帯が仙台藩下屋敷でした。

 

住所は南麻布1丁目2-5で、1657(明暦3)年
5月14日に拝領した屋敷です。

 

 

hyugazakasendaizaka・・・)内が「仙台藩伊達家下屋敷
その北側の(———)が「仙台坂
 ↓  )の所が「二の橋(日向橋)
———)が「日向坂(振袖坂)

 

 

 

品川区にも「仙台坂」

現在は、汐留の日本テレビタワーがあるあたりにも
仙台藩の屋敷があって、近くにある坂はやはり
「仙台坂」と呼ばれていました。

 

そちらは品川区東大井4丁目と
南品川5丁目の間にあるそうです。

 

伊達家は外様大名の伊達政宗が樹立し
明治になって廃藩置県を迎えるまでの長い間
途切れることなく仙台を統治した大名です。

 

 

140915satumaimotakikomigohan

 

 

 

諸藩中、第3位の石高

石高は、表高62万56石4升4合で
諸藩のなかで第3位を誇ります。
実高は、支藩であった一関藩を含めて
18世紀初頭には100万石を超えていたといいます。

 

江戸の人々が食べていたお米も
仙台藩でとれたものだったそう。
また、干しアワビやフカヒレも
長崎俵物として外貨も得ていたとか。

 

伊達本家は大広間詰国持大名で代々、将軍家
より松平姓を許された家でもあり、歴代藩主の
ほぼ全てに、陸奥守の官位が与えられています。

 

伊達家は地方知行により多くの陪臣を抱えており
直属家臣が約7千人(江戸中期では約1万人)、
陪臣を合わせますと2万数千人から3万人(江戸中期
は約3万5千人)という兵力を抱えていました。

 

 

150503hakkogenmai

 

 

 

「陪臣」とは、家来の家来

ここで「陪臣」という言葉が出てきましたが
「陪臣(ばいしん)」とは「又者(またもの)」
ともいわれ、主従関係において家臣の
そのまた家臣を指す言葉です。

 

たとえば将軍の家臣といえば
大名や旗本、御家人であり「直臣(じきしん)」。
大名を除いた旗本、御家人は「直参(じきさん)」
と呼びます。

 

 

 

その大名や旗本、御家人の家臣は
将軍から見れば「陪臣」となります。
「陪」は重なるの意味で、「陪臣」は
家来の家来、またげらいのこと。

 

ちょっと話はそれますが前回、書きました
寺坂吉右衛門
のことを陪臣という人がいます。
寺坂が、浅野内匠頭の家臣・吉田忠左衛門
の足軽だったからです。

 

確かに最初はそうでしたが後に、浅野内匠頭の
足軽になっていますので、寺坂吉右衛門は
浅野内匠頭の陪臣ではなく、れっきとした家臣です。

 

 

150528teapothuji

 

 

 

仙台の「振袖坂」もなだらかな坂

話を戻しまして家臣で1万人、陪臣を合わせると
3万人以上という伊達家の家臣のうち、どれほどの人
が麻布の仙台藩伊達家下屋敷にいたかはわかりません
が、かなりの数だったことは想像に難くありません。

 

そこで暮らす多くの人たちも
当然この辺りを歩いたことでしょう。

 

「仙台坂」の方は、長さも長く傾斜がきつい
坂然とした坂(?)ですが、「日向坂(振袖坂)」
はおっとりとした短い坂。

 

次の地図でもおわかりの通り「日向坂(振袖坂)」は
「仙台坂」の半分ほどの長さですが、仙台の宮城野区
榴岡(つつじがおか)にある「振袖坂」も
なだらかで短い坂だということです。

 

 

 

hyugazakasendaizaka仙台藩伊達家下屋敷沿いにある「仙台坂」の
少し先の「二の橋」を渡ると「日向坂(振袖坂)

 

 

 

仙台の「振袖坂」の名の由来

「郷土史『仙台耳ぶくろ』三原良吉  宝文堂刊」
には「振袖坂」の名の由来としてこのように
記されているそうです。

 

享保(1716〜1735)の改革で知られる
第8代将軍・徳川吉宗の時代。

 

信仰心が厚く、参詣することを願いながらも
病死した仙台の呉服屋の娘の魂が、死後お寺に
行き巡礼者に自分の振袖の片袖を託します。

 

娘の四十九日にあたる日に、巡礼者は片袖を親元に
届け、片袖を埋めた塚のそばにあった坂を
「振袖坂」と呼ぶようになったというお話です。

 

 

150528thicpukikkou

 

 

「振袖坂」命名の一考察(?)

麻布の「仙台坂」の先にあった「日向坂」は
「仙台坂」とは異なりおだやかな坂で
まるで故郷、仙台の「振袖坂」を思わせる坂、

 

その坂を通る時に、仙台の「振袖坂」の片袖のように
今すぐここから懐かしい故郷、仙台へ飛んで帰りたい
と思っていたのかもしれません。

 

そうした人たちが「仙台坂」の少し先に位置する
「日向坂」を、故郷の「振袖坂」と同じ名で呼ぶ
ようになったのではあるまいか、
との妄想が湧いてきてしまったというわけです。

 

 

160814hyugazakaueここで「日向坂(振袖坂)」は終わり

 

 

明暦の大火、振袖火事絡みではない

最初に「振袖坂」と聞いた時には、1657
(明暦3)年の江戸の大火、振袖火事に
関連する名前なのかなと思いました。
(その話を書くと長くなりますので、また今度)

 

ところが「振袖坂」の名はそれとは無関係のよう。
振袖火事絡みでしたら、坂の名の
由来として残っているでしょう。

 

ということは振袖火事とは関係のない
ところから来ているのではと。

 

 

 

 

暑い日差しの中を歩いていて、ちょっと
考え過ぎてしまったのかもしれませんね。

 

そうそう「二の橋」の袂(たもと!)に
素敵なカフェがありましたので、行ってみましょうか。

 

 

 

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寺坂吉右衛門の討ち入りが終わった日 「三の橋」麻布山内家 古川の橋8

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160729sannohasi

 

 

「三の橋」=「肥後殿橋」

「古川橋  ( j )  」(古川橋交差点))で、大きく
流れの方向を変えた古川に架かっている
次の橋は「三の橋(k)」です。

 

 

  古川に架かる橋(麻布)hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

南麻布2丁目6番から、三田5丁目1番に架かっている
橋で,長さ22.3メートル、幅11.2メートル。
2007(平成19)年1月に架け替えられたものです。

 

江戸時代、「三の橋」の三田側には、松平肥後守
(会津藩保科家)の下屋敷があったことから
「肥後殿橋」とも呼ばれていました。

 

 

 

反対側には「麻布山内家」の上屋敷

松平肥後守の屋敷と川を挟んで反対側には
土佐藩の支藩である土佐新田藩(とさしんでんはん)
山内家の上屋敷がありました。

 

「三の橋」から山内家のあった方に向けて
撮った写真が下のもの。
山内家の屋敷があったのは、歩道橋の
後ろあたり一帯でしょうか。

 

 

160729yamautikesannohasi「三の橋」から山内家があった方に向かって撮ったもの

 

 

当時は、麻布古川町と呼ばれていたこの辺りに上屋敷
のあった土佐新田藩は、参勤交代を行わずに、江戸に
定住している定府(じょうふ)大名であったため
藩主の山内家は「麻布山内家」とも呼ばれていました。

 

 

 

山内一豊(やまうちかつとよ)

この地図で 緑色の矢印「   」のある所が
「三の橋」で緑色の線で囲った「山内遠近守」
と書いてある場所が山内家の上屋敷。

 

 

aiduhoshina
緑色の矢印「  ↓  」が「三の橋」
緑色の線で囲ったの場所が「麻布山内家」
左下のが寺坂吉右衛門のお墓

 

 

こちらの山内家は土佐藩の支藩、分家ですが
本家は、関ヶ原の合戦の功により
土佐を拝領した山内一豊の山内家です。

 

006年のNHKの大河ドラマ『功名が辻』
も山内一豊夫妻のお話でした。

 

事実が否かは定かではないようですが、一豊の妻・千代
は、お嫁入りの持参金(orへそくり)で、いざという時
に夫に馬を用意したという、内助の功として有名な女性。

 

その山内一豊の名前の読み方ですが、私は「山内」は
今まで「やまのうち」だと思っていたのですが
「やまうち」と読むそうです。

 

本家は「やまうち」と読み、
分家は「やまのうち」と読むのだとか。

 

しかも名前の方も「かずとよ」ではなく「かつとよ」
だそうで、これは『土佐山内家宝物資料館』に
記載されていますので、正しいと思います。

 

 

tosakashiwa山内家の家紋「丸に土佐柏」

 

 

 

元禄赤穂事件の寺坂吉右衛門

前々回に書きましたように、麻布御殿はわずか数年
で焼失してしまったため、第5代将軍・徳川綱吉は
折角造営したものの麻布御殿へは2度しか
訪れることがなかったということでした。

 

2度目に訪れたのは、浅野内匠頭と吉良上野介
の元禄赤穂事件の疲れを癒すためといわれて
いるようですが、今日の麻布山内家も
実はこの事件に関係があります。

 

それは、いわゆる「忠臣蔵」といわれる元禄赤穂事件
の四十七士の一人、寺坂吉右衛門(1665〜1747)が
事件の後、麻布山内家に召し抱えられていたからです。

 

 

140510oakオークで山内家の家紋「丸に土佐柏」
(上の写真)をまねっこしてみました

 

 

 

濡れ衣を着せられた一生

赤穂浪士といえば四十七士、というのは
あまりにも有名ですが、1703(元禄15)年の
事件後に、切腹を命ぜられたのは46人です。

 

討ち入りは47人でしたが
切腹は寺坂吉右衛門を除く46人。

 

討ち入り後、義士たちが吉良邸から
浅野内匠頭のお墓のある泉岳寺に着く直前に
寺坂吉右衛門は姿を消します。

 

逃亡したのか、はたまた大石内蔵助の命令だったのか
いまでも議論がかまびすしいところではあります。

 

しかし元禄赤穂事件の研究に、学生時代から
半世紀以上の生涯をかけている、中央義士会の
中島康夫さんによりますと、逃亡ではなく
大石内蔵助の命によるものということです。

 

 

140829oakametubu

 

 

 

逃亡ではない根拠

寺坂吉右衛門はもともと、四十七士のうちの
吉田忠左衛門の足軽を務めていた人であり
足軽で唯一、討ち入りに参加した人でした。

 

逃亡でなかった理由を書くと長くなってしまうので
ほんの少しだけにとどめますが、寺坂吉右衛門が
四十七士の隊列から離れる際に、逃亡でない旨、
大石内蔵助の口上書を貰い受けていること。

 

また、大石内蔵助の命を果たした寺坂吉右衛門は
大目付・仙石伯耆守に自訴(自首)していること。
(受け入れられなかったのは仙石伯耆守
の温情だといわれています)

 

 

terasaka寺坂家の家紋「丸に二つ割菊」

 

 

一人生き残ることになった寺坂吉右衛門は
吉田忠左衛門の娘婿の伊藤家に養われた後、
麻布の山内家に召し抱えられました。

 

逃亡をした裏切り者だったならば、吉田忠左衛門の
縁者の元に居ることは考えられない等々の説明を
中島康夫さんはしていらっしゃいます。
(中央義士会監修『忠臣蔵四十七義全名鑑』
駿台曜曜社1998年)

 

四十七士とともに行動するつもりで途中で逃げた
人たちはその後、名前を変えたそうですが、
寺坂吉右衛門は隠れもせず、名も変えず、「信行」
という名の如く、信念の通りの行動を貫きました。

 

 

aiduhoshina
緑色の矢印「 ↓ 」が「三の橋」
緑色の線で囲ったのが「麻布山内家」
緑色の◉が、寺坂吉右衛門のお墓のある場所

 

 

 

有り難いこと

これらの説明には大きく頷くばかりですが
それ以前の問題として、私が逃亡ではないと
確信する理由が一つあります。

 

それは、逃亡するような人ならば、そもそも
討ち入りの場にいないということです。

 

何人もの人々が篩(ふるい)にかけられる
ように落ちていきました。
しかし、その人たちを責めることはできないでしょう。
むしろ残った人の方が、希有な人なのですから。

 

 

 

 

様々なしがらみに絡めとられて討ち入りをすることが
できずに、討ち入り以前に自害をした人さえいました。
あの場に辿りつけた人は全員が、想像を
絶するようなことを乗り越えてきた人です。

 

討入り後に、それぞれのお屋敷にお預けとなって
いた時には、愛する者を置き去りにして、一人
逝くわが身を思わなかったはずはありません。

 

ですが、目的を果たし高揚していたに違いない
あの瞬間に、逃げ去ることなど到底考えられない、
あり得ないことだと私は思います。

 

 

 

 

 

「独り」残る

麻布山内家で召し抱えられていた寺坂吉右衛門は
病いを得て、山内家の北側にある曹渓寺に寄寓し、
1747(延享4)年10月6日に亡くなります。

 

1665(寛文5)年、巳年、赤穂若狭野に、浅野家家来
船方役人の父・吉佐衛門と、川端与右衛門の娘の母
との間に生まれた吉右衛門は、8歳の時から吉田
忠左衛門の家で子守の手伝いをしていたといいます。

 

1691(元禄4)年、吉田忠左衛門が加東郡代となって
穂積に移る時に、27歳になっていた吉右衛門は
五石二人扶持で足軽組にに編入。

 

 

 

 

そして38歳の時に討ち入りをし、後に『寺坂筆記』を
書き残した寺坂吉右衛門信行(のぶゆき)が
亡くなったのは83歳。

 

長い独りの時を生きなければならなかった
彼の胸の内はいかばかりか。

 

大石内蔵助は、寺坂吉右衛門に、いくつかの場所に
密使として行くことの他に、生き残って全てを見届ける
役目を託した、と中島康夫さんは書いていらっしゃいます。

 

 

141008geshhoku4

 

 

足軽というさして重い身分でもなく、元は吉田
忠左衛門の家臣であるにも関わらず、最後まで
思いを一つにし、行動を共にした寺坂吉右衛門。

 

そんな寺坂吉右衛門を切腹から免れさせることは
情けなのか、あるいは残酷な宣言なのか、という
答えのない問いはさておき、その役目を
寺坂吉右衛門に与えたのは大石内蔵助の慧眼です。

 

仙石伯耆守が寺坂吉右衛門の自訴を
受け入れなかったことも、まさに大石内蔵助
の胸の内を仙石伯耆守が忖度したのでしょう。

 

 

 

 

寺坂吉右衛門は、元禄赤穂事件後の数十年間を
生き続けたことにより、大石内蔵助の命令を
完璧に成し遂げたといえるのかもしれません。

 

1703(元禄15)年の元禄赤穂事件から44年が経過した
1747(延享4)年10月6日、寺坂吉右衛門の
長い一生が終わった日に、彼の討ち入りが
ようやく終わりを告げたのです。

 

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「古川橋」明治通りはここから始まる 古川の橋7

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160729sinhurukawabasi

 

 

「古川橋」

「四の橋」つながりで、「野田岩」のうなぎ
食べに飯倉に行ったりと「四の橋」に少々
長居をしてしまいましたが、今日、御紹介する
古川の橋は、その名も「古川橋」です。

 

古川は、渋谷区では渋谷川と呼ばれ
「天現寺橋」を過ぎて、港区の麻布からは古川と
名を変えますが今日の「古川橋」に来ますと
その流れの方向を大きく変えています。

 

次の地図で、(  j  )  が「古川橋」の位置です。
「天現寺橋( a ) 」から西に向かって流れてきた
古川は「古川橋  ( j ) 」で、ほぼ90度曲がり
一ノ橋ジャンクションまでは北方向に進みます。

 

 

古川に架かる橋(麻布)hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

 

明治通りの起点

「古川橋 ( j ) 」の左にあるのは「新古川橋 ( i ) 」。
「古川橋 ( j ) 」も「新古川橋 ( i ) 」も共に
南麻布2丁目(地図でいうと上)から
白金1丁目(下)へ架けられている橋です。

 

「古川橋 ( j ) 」の方は上下だけではなく、T寺路と
いいますか(  ー|  )のような形の三叉路になって
いますので右方向もあり。そちらは三田5丁目。

 

古川橋交差点は「明治通り」の起点だそうです。
明治通りは、ここ港区の南麻布2丁目から始まり
「天現寺橋」を越して渋谷区、新宿区、豊島区、
北区、荒川区、台東区、墨田区を

 

経由する33.3キロメートルの道路で
江東区の夢の島で終わっています。

 

 

meijidoriroot明治通りのルート(地図/「地図絵描き日記」)

 

 

 

「古川橋」のあとにできた「新古川橋」

今の「古川橋 ( j ) 」の前の橋は
昭和初期に架けられたもので、現在の橋は
1968(昭和43)年6月に架け蹴られました。
長さ17.6メートル、幅は37メートルもある銅橋です。

 

お隣の「新古川橋 ( i )」  は、以前の「古川橋」が
昭和初期に架けられたその少し後である
1935(昭和10)年3月に新しく架けられた橋だった
ことから、「新古川橋」と名づけられたそうです。

 

「新古川橋」も、1989(平成元)年3月には
新たに架け替えられていますが、「古川橋」より
かなり小振りで長さ16.1メートル、幅13.8メートルの橋。

 

 

160729hurukawabasi「古川橋」

 

 

上の写真ですと橋の大きさがわからないのですが
「古川橋」は、実際はかなり大きな橋です。
むしろ次の写真の「新古川橋」の方が
大きな橋に写ってしまいましたね。

 

両者の長さはほぼ同じようなものですが
橋の幅は大きく異なり、「新古川橋」が13.8メートル
であるのに対して、「古川橋」は37メートルと
なんと2倍の大きさです。

 

 

160729sinhurukawabasi上の「古川橋」よりはるかに小さい「新古川橋」

 

 

ただ現在では、「古川橋」というと、橋の名前という
よりは、明治通りと東京都道415号高輪麻布線の
「古川橋交差点」のことをさすことが多いようです。

 

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