武士の名前の「◯◯守」とは?

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会津藩主なのに「肥後守」

江戸切絵図を見ていて不思議だと思ったことの
一つは「松平姓」がいっぱいあることでした。
(それについては前々回に書きましたね)
もう一つわからないことが、「◯◯守」という言葉です。

 

例えば三の橋から二の橋にかけて、広大なお屋敷を
所有していた保科正之の下屋敷(三田藩邸)は
切絵図では「松平肥後守」と書かれています。

 

「保科」ではなく「松平」とあるのは
将軍から「松平」姓を賜ったからですが
問題はもう一方の「肥後守(ひごのかみ)」。
会津藩主なのに、なぜ「肥後守」なのでしょうか?

 

 

narabukuyo保科家の家紋「並び九曜(角九曜)」

 

 

 

幼名

武士の正式名というのはやたらに長くて
よくわからないのですが、生まれた時から
あんなに長かったはずはありませんよね。

 

まず最初につけられる子どもの時
の名前は「幼名」といいます。

 

先日、このブログでも出てきた第3代将軍・家綱の
幼名は「竹千代」でしたが、これは徳川家康と同じ。
保科正之は「幸松」で、伊達政宗は「梵天丸」。

 

かなり前のNHKの大河ドラマで、伊達政宗を
とりあげた時の梵天丸の台詞「梵天丸もかくありたい」
が有名になったこともありました。

 

 

tokugawaaoi徳川家の家紋「三つ葉葵」

 

 

 

初名、改名

当時は15歳位で元服(成人)をしましたが
この時に、名前が「幼名」から「初名」にかわり
家康は「竹千代」から「元信」になっています。

 

これは今川義元の「元」をもらって
つけたもので、このように一字をもらうことを
「偏諱(へんき)を受ける」といいます。
その後、祖父・松平清康の偏諱をもらい「元康」に改名。

 

元康の「元」も「康」も偏諱を受けたものでしたが
1562(永禄5)年には、今川義元からの偏諱の「元」の
字を返上し、「元康」から「家康」へと名を改めました。

 

 

tosakashiwa土佐山内家の家紋「丸に土佐柏」

 

 

 

本名は呼ばない

家康の名を、親や主君が呼ぶことは許されて
いましたが、それ以外の人が呼ぶことは
当時は失礼なこととされていました。

 

本名で呼ぶことはその人の本質を支配する
との考え方からきたようです。

 

このように本名は呼称することをためらわれる
「忌む名(諱・いみな)」のため、仮名(けみょう)
という通称が用いられることになりました。

 

 

 

鎌倉時代頃までの仮名(通称)は生まれた順に
太郎、次郎とつけられたようですが、源義経は
九郎と名乗っていましたが、実際は八男である、
というように必ずしも正確ではなかったようです。

 

太郎次郎方式(?)ですと、同姓同名が多くなります。
そこで別の字をつけ、源義家の「八幡太郎」、
源為朝は「鎮西八郎」、坂田金時は「金太郎」
のようにすることもありました。

 

 

aiduaoiこちらは保科家の「会津葵」

 

 

 

通称としての官職名は好きなものが名乗れる

仮名(通称)として使った名前は、太郎次郎以外
にもいくつかありましたが、その中の一つに
官位、官職名を使うこともありました。

 

保科正之の屋敷は、切絵図で「松平肥後守」と記されて
いますがこの「肥後守」が官職名、守名(かむな)です。

 

 

 

 

「◯◯守」は律令制の地方官で、朝廷から任命されて
赴任した人を指すものでしたが、武家の時代になると
実体はなくなります。

 

3千石以上の旗本が好きな官位を名乗れる
単なる呼称になっていきました。

 

徳川幕府の公家諸法度、武家諸法度にも「律令制の官位・
官職は、武家に関しては別のものである」と明記され
本来の朝廷のものとは別なので、勝手に名乗ってもいい
との断り書きがあります。

 

 

仙台藩伊達家の家紋「竹に雀」

 

 

 

変更も可能

官職名は父親のものを名乗ることが多かったよう
ですが、他のものに変更することも可能で
口頭で老中に上申すると、数日中に許可されました。

 

また同じ官職名が複数いることもOKで
「越中守」は多くいたそうです。

 

「美濃守」に至っては、同時に
8人もいたことがあったとか。

 

 

 

 

とはいえどのようなものでも名乗れたか、といえば
そうでもなく、「武蔵守」を名乗ることは将軍家への
遠慮から、「尾張守」「薩摩守」「三河守」は
国主への遠慮から名乗ることはできませんでした。

 

松平を名乗る家はたくさんありましたので
混乱を避けるために、同時期に松平家同士では
同じ官名は避けていたそうです。

 

実際の領国名と官名が一致したのは
前田家の「加賀守」、島津家の「薩摩守」、
越前松平家の「越前守」、伊達家の「陸奥守」など。

 

 

kagamaeda加賀藩前田家の家紋「加賀梅鉢」

 

 

 

実体はなく名誉だけの官位

1631(寛永8)年、保科正之は養父・保科正光の跡を
継いで高遠藩3万石の藩主となりましたが、その時に
「正四位下左近衛中将兼肥後守」に叙任され
それ以降は会津中将と通称されています。

 

「正四位下」は位階で、「左近衛中将兼肥後守」
が官職名になります。

 

位階、官位はこちらも律令制以来の制度で
諸大夫(従五位下)以上に位を授け
官職に任じました(叙位)。

 

 

 

 

これは実質的な意味も実体も全くないものでしたが
叙任されて官職名を名乗ることは名誉であり
権威の象徴でもあったようです。

 

井伊掃部頭直弼(いい  かもんのかみ なおすけ)
の官職名は「掃部頭」、

 

浅野内匠頭長矩(あさの  たくみのかみ  ながのり)」
は「内匠頭」。

 

吉良上野介義央(きら  こうずけのすけ  よしなか)
は「上野介」。

 

 

 

 

(話はそれますが「掃部頭(かもんのかみ)」
は、なかなか読めませんよね。

 

横浜にある掃部山という名前を初めて見た時は
「掃部山」という文字と「かもんやま」
という音が全く結びつきませんでした)

 

 

asanotakuminokami浅野内匠頭の家紋「違い鷹の羽」

 

 

 

役職名から人々の名へ

「介」や「助、「左衛門」といった律令時代の
官名だったものは、時代とともに人の名として
武士階級や町人が使うようになりました。

 

この場合、武士は諱(いみな)を避けるための
仮名(通称)であるのに対して、諱のない
町民の場合は本名として使っています。

 

江戸時代の男性の約半数は「左衛門」
「右衛門」「兵衛」だったそうですよ。

 

 

 

 

このような実名である「諱」と、通称としての
「仮名(けみょう)」を区別することは、
1871年2月11日(明治3年12月22日)と1872年6月12日
(明治5年5月7日)の太政官布告で廃止されました。

 

しかし現在でも、戸籍名には仮名を届けて
実質的な通名とし実際には本当の名・諱を
もつ習慣も残っているということです。

 

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