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中国からきた「おまんじゅう」
いつも私たちが美味しくいただいているおまんじゅう。
「あぷりのお茶会赤坂・麻布・六本木」でも「和菓子」
のカテゴリーに入れていますが
おまんじゅうは中国からきたものです。
おまんじゅうは中国生まれの「饅頭(マントウ)」が
日本でお菓子として変身したのですが、「饅頭」が
日本に入ってきた時期については現在のところ
2つの説があるようです。
1241年説と1349年説の二つですが、その1349年説
の方が現在の「塩瀬総本家」の初代が、日本で
初めておまんじゅうを作ったといわれるものです。
日本におまんじゅうが入ってきた年
その1 1241年説「虎屋」
鎌倉時代の僧の円爾(えんに、1202年11月1日〜
1280年11月10日)が南宋から日本に帰ってきた後に
おまんじゅうの作り方を日本人に伝えたというのが
日本におまんじゅうが入ってきたとされる一番古い説。
1235(嘉禎元)年に宋に渡った円爾(
聖一国師)は、1241(仁治2)年に帰国した際、
福岡の博多に上陸しました。
現在の博多駅前にあたる辻堂付近で、円爾はいつも
お世話になっているお礼として、茶屋の主人・
栗波吉右衛門におまんじゅうの作り方を伝授します。
虎屋に伝わっている「御饅頭所」と
書かれた看板(写真/「虎屋」)
赤坂「虎屋」に伝わる看板
この時に円爾が、茶屋の主人に書いて与えた
という「御饅頭所」という看板が、現在
赤坂にある「虎屋」に伝わっています。
(「虎屋」
*本店は建て替え工事のため
*2015年10月7日から休業中
*2018年にリニューアルオーオープンの予定
*〒107-0052 東京都港区赤坂4丁目9-22
*「東京ミッドタウン店」
*〒107-0052 港区赤坂9丁目7-4 D-B 117
*東京ミッドタウン ガレリア地下1階
*Tel.03-7544-6101
*「東急プラザ赤坂店」
*千代田区永田町2丁目14-3 東急ブラザ赤坂2階
*Tel.050-6457-9784)
この時のおまんじゅうは米麹を使った酒饅頭
だったそうですが、吉右衛門の茶店の屋号から
「虎屋饅頭」とも呼ばれていました。
とはいえ吉右衛門の茶店の屋号が「虎屋」だった
ことが現在、赤坂にある「虎屋」の名前に
つながったのかといえば、そうではないよう。
「虎屋」のサイトには、「吉右衛門の店と当社
との関係は不明」と記されています。
「虎屋」独自の「虎屋饅頭(酒饅頭)」
円爾からつくり方を伝授されたという
おまんじゅうについては現在「虎屋」のサイト
では「酒饅頭 虎屋饅頭 御膳餡入」、
「初出年代 明治39年(1906)」となっています。
風味のある独特の酒の香りが楽しめる「虎屋饅頭」の
元種は、長い時間をかけてもち米と麹(こうじ)を使って
作られたもので生地作りは、前の夜から始まるのだとか。
ひとつひとつを丹精込め、手間暇かけて作られている
「虎屋饅頭」は、工夫を加え「虎屋」独自の酒饅頭
として代々受け継がれてきたものです。
本店(休業中)の他は一部の店舗でしか
手に入れることができません。
なお「虎屋饅頭」の皮が硬くなってしまった
時は、蒸し直して頂くのもよいようです。
ちょっと意外ですが、焼いてもまた美味しいのだとか。
子どもの頃、大福餅が硬くなった時には、母が焼いて
くれたこともありましたが、このようなふわふわ
おまんじゅうを焼くと、どのような味になるので
しょう?、ちょっと試してみたいですね。
日本におまんじゅうが入ってきた年
その2 1349年説「塩瀬」
そしてもう一つの説といわれるのは
最初の説から1世紀ほど後のこと。
1349(南朝ー正平4、北朝ー貞和5)年に、中国から
来朝した林浄因(りんじょういん)が、奈良に住居
を定めおまんじゅうを作ったという説です。
この林浄因が現在の「塩瀬総本家」の初代となった人。
(「塩瀬総本家」 本店
*〒104-0044 東京都中央区明石町7-14
* Tel.03-3541-0776)
浄因は、中国の「饅頭(マントウ)」の中身を
肉のかわりに、小豆を煮詰めて、甘葛の甘味と
塩味を加えた餡を入れることを考え出しました。
小豆餡入りのおまんじゅう誕生
その頃の日本にあった甘いもの、お菓子
といえばクルミや栗、干し柿、お餅に小豆の
呉汁をつけるお汁粉の元祖のようなもの位。
小麦粉をこねて蒸し、十字に切れ込みを入れた
「十字」や、中身のない菜饅頭(なまんじゅう)の
ようなものはあったようですが、現在にある
小豆餡入りのおまんじゅうはありませんでした。
浄因の作ったおまんじゅうは、日本人の評判を呼びます。
発酵した皮の香りとふわふわの
歯ごたえに、ほのかな甘みの小豆あん。
豆類を多く食し、小豆好きの
日本人にとっては画期的なものでした。
「塩瀬」の元祖 林浄因(りんじょういん)
(肖像図/「塩瀬総本家」)
お祝い事に紅白饅頭
浄因は、おまんじゅうを後村上天皇
(1328〜1368)に献上します。
天皇は大変喜ばれ、浄因に官女を賜ったといいます。
当時は一商人が官女を下賜(!)されるという
ことは特別な栄誉だそうで、結婚に際し
浄因は、紅白饅頭を諸方に配りました。
これが現在のお祝い事に際し
紅白饅頭を配る習慣の始まりだそうです。
浄因はその後、中国に戻ったということですが
子孫は残り、幾代か経たあとの店主・紹絆の時代のこと。
紹絆は中国の宮廷菓子を学ぶために中国に渡ります。
帰国した紹絆は、山芋をこねて作る
おまんじゅうを売り出しました。
これが今も「塩瀬総本家」の看板商品の一つで
ある、「薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)」
の元となったおまんじゅうです。
「塩瀬」の屋号は三河塩瀬村から
以来、その子孫は饅頭屋と称し京都に移りましたが
応仁の乱(1467〜1478年)の戦火を逃れて、
三河国設楽郡塩瀬村(現在の愛知県新城市)に行き
後に城主の娘を妻に迎えることになります。
その折、塩瀬姓を受けて「塩瀬」を
屋号とすることになりました。
東山文化が栄え始めた頃、再び京都に戻った
「塩瀬」は引きも切らぬほどの賑わいで
お店の所在地は「饅頭屋町」と呼ばれるほどの大繁盛。
室町幕府の8代将軍・足利義政(1435〜1490)
からは、「日本 第一番 本饅頭所 塩瀬」との
看板を授かったり、時の帝・後土御門天皇
からは、「五七桐」の家紋も拝領しています。
「塩瀬」はその後も天皇や、豊臣秀吉、徳川家康
などの権力者の寵愛を受け、塩瀬宗味が千利休の
孫娘を妻としたこともあり、おまんじゅうは
茶菓子として洗練を増してゆきました。
「塩瀬総本家」の看板(写真/「塩瀬総本家」)
桐の紋と共に「日本 第一番 本饅頭所 塩瀬」の文字
京都から江戸へ
徳川家康が関ヶ原の戦いを制し、江戸に築城するにあたり
京都の「塩瀬」は家康に従い、江戸に移ることになります。
皮が薄くて柔らかい「塩瀬」の
おまんじゅうは江戸っ子にも大評判。
江戸での繁盛ぶりは『紫の一本』(1674年)、
『元禄江戸名物』(1688年)、『江戸名物詩選』
(1836 年)などに記されています。
そして明治初年、「塩瀬総本家」は
宮内庁御用達となりました。
創業660年を誇る「塩瀬」の35代目の
現在の店主は川島一世さん。
35代店主の母親である川島英子さんは
34代目の店主だった方で、90歳を過ぎた今も
元気でお仕事をしていらっしゃるそうです。