赤坂の料亭 5軒のうち「口悦」は今月いっぱいで閉店

「あぷりのお茶会赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

 

 

最盛期は60件ほどのあった料亭が今は一桁に

昭和40年代(1965〜1974年)頃は、60軒ほどあった
赤坂の料亭も、今はわずか5軒になってしまった
という記事を読んだのは昨年の9月のことでした。

 

5つの料亭とは「浅田屋」「口悦」「つる中」「佐藤」、
そして前々回に御紹介した「赤坂金龍」
「赤坂 金龍『金龍御膳』」)。

 

その記事を読んでわずか半年も経たないうちに
その中の一つの料亭「口悦」が今月、
2017年3月で閉店が決まってしまいました。

 

 

 

 

昨年、首相官邸近くの赤坂2丁目にできた
「ケイ・ジー3」という会社が購入しましたが
この会社はカカクコムなどを傘下に収める
東証一部の「デジタルガレージ」という会社。

 

「口悦」のみならず外堀通りに面している
9階建てのビルも購入済みの上、隣接の
駐車場の購入を考えているそうです。

 

もしそうなると全部で477坪という広さになりますので
大きなビルが建つのではないかとも囁かれています。

 

 

 

料亭「口悦」

 

 

 

「口悦」は3月で閉店

「口悦」の女将・渡辺純子さんは
俳優の故渡辺文雄さんの奥様です。

 

1962(昭和37年)に「口悦」をオープン
して以来、半世紀以上にわたり切り盛りを
してきましたが体力の限界から、この度
お店を閉じることになりました。

 

(「口悦」
〒107-0052 赤坂2丁目5-15  Tel. 03-3585-0321
営業時間 17:00~23:00   総席数 100 喫煙 可
定休日 土曜・日曜・祝日  予算(夜) ¥30,000~)

 

 

 

 

歴代の総理で、訪れたことがない人はいない
といわれるほどの名店「口悦」は、お料理の
味は言うに及ばず、女将の細やかな心配りと
お店の佇まいが、訪れる人に安らぎを
与え続けてきた、赤坂の名料亭でした。

 

「もう非常に残念です。
 僕の若き青春の血が滾っていた時代
 を過ごした土地ですよ」

「口悦がなくなってもまだ数件は料亭が
 残りますが、
やはり『口が悦ぶ』と書く
 口悦は、日本の文化だった。

 国会の先生方も、口悦の門をくぐって
 総理大臣までのぼりつめているわけだから。
 守りたいとも思うけれど、お母さん(女将)が
 膝を痛めて
膝を痛めてお座敷で正座が出来なく
 なったことも、
閉店の大きな要因のひとつ。
 経営が苦しくなったということで
 はないですからね」

 

と寂しそうに語るのはみのもんたさん。
   (「週刊新潮」2016年11月17日号)

 

 

 

料亭「口悦」

 

 

 

命名は小津安二郎、表札は中川一政

「口悦」というお店の名前については
渡辺文雄さんが、生前にこのような
説明をしていらっしゃいます。

 

「女房の家が、昔、料亭をやっていて。
それを女房が再開したのが、結婚して
5年後ぐらい後のことです。
店の名を改める際、映画監督の小津
安二郎さんんが、
口が悦ぶと書いて
『口悦』とつけてくれました」

  (「DAILY  SHINCHO」2017.3.21)

 

また表札の字は、中川一政画伯の
筆によるものだそうですが、多分
このお酒の「口悦」の字も。

 

 

 

料亭「口悦」

 

 

 

最新版、赤坂の料亭マップ

現在、赤坂の料亭組合一覧に載っている
5つの料亭の位置を正確ではありませんが
大体のところを地図で示してみました。

 

外堀通りに平行に沿っている道に
料亭があることがわかります。

 

意外だったことは、お店の前を通っていて
ここは料亭だろうと思っていたお店のほとんど
が料亭ではなく「日本料理」や「割烹」の
お店として登録されていることでした。

 

お店の中に入れば、また別なのかもしれま
せんが、外見からですと全くわからず、夜は
外に黒塗りの車が待機していたりするもので
てっきり料亭だと思っていたのですが。

 

 

現在の赤坂の料亭の位置(2017年3月)

 

 

「口悦」も入れて、現在ある赤坂の料亭は
全て赤坂見附駅から溜池山王駅を結ぶ
外堀通りと並行の道にあります。

 

これはやはり、赤坂の花柳界が最も賑わった
のは軍人や政治家、財界人といったお客さん
が主だったことによるのでしょうか?

 

中でも「口悦」「つる中」「佐藤」の
3つのお店は、お隣同士といっても
いいほど近い場所にあり、その上
国会や首相官邸もすぐ近くですね。

 

 

 

料亭「つる中」 とても美しい写真があった
のですが、使わせてもらえないのでこちらを

 

 

 

料亭の情報は出ていない?

そこで「つる中」と「佐藤」の情報を調べて
みたのですがこれが驚き、といいますか
当たり前のことではありますが、いまさら
のように気づいたことがありました。

 

「つる中」
〒107-0052 港区赤坂2丁目5-17
Tel.03-3583-1457
営業時間  10時00分~22時00分

 

「つる中」はこのように営業時間は
記されていますが、定休日等の情報
は見当たりませんでした。
それが「佐藤」になりますと、もっと顕著です。

 

 

 

 

「佐藤」
〒107-0052 港区赤坂2丁目8-19
Tel.03-3585-8201

 

というわけで、住所と電話番号のみで、営業時間、
定休日等は店舗へお問い合わせくださいとのこと。

 

当然のことながら、「つる中」「佐藤」に
関しては食べログの写真、メニュー紹介、
口コミ等は一切ありません。

 

 

 

料亭「佐藤」
こちらも「つる中」同様 写真はこれしかありません

 

 

佐藤に関してこんなツイートが
ありました。

「Oryzias 2018年10月19日

2007年2月、獣医師会の北村直
人氏と加計理事長が面会した際
に、加計が指定した場所は赤坂
の小料理屋『佐藤』。
週刊文春(2017.7.6)によれば、
加計が岡山理科大学教育学部新
設を目指していた時期に、下村
博文文科相と会食した際、2013
年11月・2016年3月に安倍首相
と会食した際にもこの店を利用
#加計学園

2014年10月17日に下村博文文科
相(当時)・塩崎恭久(愛媛県)
・山本順三(今治市)と加計理
事長が会食した赤坂の料理店も
同じ店かも。
この10月17日の会合は、下村博
文事務所に9月3日に加計学園か
ら申し出があって実現」

 

 

 

一見さんお断り

はじめはなぜ?、と思ったものの、
そうですよね、それが「料亭」なのでしょう。

 

一見さんお断りなのですから、メニュー
はもちろん、営業時間や定休日なども
一般に知らせる必要もないわけでして。

 

これに対して「口悦」は、営業時間も定休日も、
予算も書かれていましたが、料金を気にする
ような人は、もともと料亭には行かない、行っ
てはいけないということなのかもしれません。

 

このような料亭の性質を考えれば
またこれも当然のことなのかもしれませんが
基本的に料亭にはサイトもないようです。

 

 

 

料亭「赤坂  金龍」

 

 

 

サイトがあるのは「赤坂金龍」と「浅田屋」

ただし前々回、御紹介した「赤坂 金龍」はサイト
がありますし、また「浅田屋」も同様です。
「浅田屋」の御主人浅田松太さんは
現在の赤坂料亭組合の会長。

 

『赤坂料亭組合』は、赤坂の芸者さんの組合で
ある『赤坂芸妓組合』と共に『東京赤坂組合』
として、料亭の取りまとめを行うほか、伝統芸能
としての料亭と芸者の継承に日々力を注いでいます。

 

 

 

 

「東京赤坂組合」
〒107-0052 港区赤坂2丁目8-15
       オリエントニュー赤坂 2F
Tel.:03-3585-1010

 

こちらの催しものとして今月、3月10日と
11日に第55回を数える「赤坂をどり」が
赤坂サカス内のACTシアターで開催されました。

 

私は残念ながら一度も行ったことはない
のですが、この時期には艶やかなポスター
が、赤坂の街中に目につくようになります。

 

 

 

料亭「赤坂浅田屋」(写真/「『WELCOM港区』vol.630」)

 

 

 

「浅田屋」

そして残る一店が「浅田屋」です。
「浅田屋」の始まりは、なんと今から
約350年ほど前のこと。

 

「浅田屋」
〒107-0052 港区赤坂3丁目6-4
Tel. 03-3585-6606   Fax. 03-3585-5229

昼食  月~日 11:30~14:30(L.O.14:00)
夕食  月~土 17:30~22:30(L.O.22:00)
   土日祝日は、前日までの完全予約制

 

1659(萬治2)年に、初代・浅田屋伊兵衛が
加賀藩主・前田綱紀より飛脚を命じられ、
その後200年にわたって飛脚のまとめ役で
ある棟取りを勤めましたが、明治維新の前年
当時の当主が飛脚の役割を藩に返上。

 

1867(慶応3)年に、今までの経験を
いかして、金沢市十間町に旅籠「浅田」を
開業し、後に旅館「浅田」を創業し、現在
は料亭や中華レストランも開いています。

 

 

 

金沢の料亭旅館「浅田屋」のお料理 「治部煮」と「ゴリ」
治部煮は頂いたことがありますが、ゴリって何でしょう?
煮こごりのことでしょうか。

 

 

 

そして1971(昭和46)年、現在の「赤坂  浅田屋」
の御主人であり赤坂料亭組合会長でもある浅田
松太さんのお祖父様が、加賀料理のお店を赤坂に
料亭「赤坂浅田」として開業しました。

 

1993(平成5)年には港区北青山に加賀料理
「青山浅田」を、2004(平成16)年、
名古屋駅JRセントラルタワーズに加賀料理
「名古屋浅田」をオープンしています。

 

「浅田屋」についてもっといろいろ
書きたいのですがそちらは、いつか
お邪魔した後にしましょうね。

 

「浅田屋」は一見さんお断りではないよう
ですし、サイトも充実していて、高いけれど
高過ぎる敷居のお店ではないようです。

 

と信じて、夜は無理でも(涙)
お昼に伺ってみたいと思います。

 

 

 

追記:2020年4月19日

コメント欄で「oeuf」さんから「口悦」が
料亭時代とは別の場所でお店を開いたと
教えていただきました。
「oeuf」さん、いつも色々教えて
くださってありがとうございます!
以下が、「oeuf」さんのコメントです。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

口悦ですが、2017年末に復活しています。
しかし場所は同じ赤坂ですが料亭時代
とは違います。
「料亭時代」と書いたように、
料亭としては復活していません。
個室はなくメインダイニングとバーだけです。
しかし料理の内容は料亭時代のメニュー
が健在のようです。
https://goetheweb.jp/restaurant/slug-n3cd1041532a5
https://www.kateigaho.com/food/61439/2/

今はコロナ禍で営業していないかもしれ
ませんが、形を変えて復活したのは確かです。

※上の2つのURLで休みの曜日情報が違います。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

6丁目で「口悦」再開のようです。
ランチならいけるかな?、なんて一瞬
思ってしまいましたが、営業は時間は
17時から22時まで、残念。
私は料亭時代のメニューは、もちろん
知らないのですが行ってみたいなぁ……

 

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「日本を愛し、日本人より日本人らしく生きた青い目の版画家」クリフトン・カーフ

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「赤坂  金龍」とクリフトン・カーフ

諸事情から一度は閉店した赤坂の「料亭金龍」が
日本の伝統文化発信の「赤坂  金龍」として再出発を
するきっかけの一つとなったのは今日、御紹介する
クリフトン・カーフさんの影響だったということです。

 

彼の作品はどのようなものだろうと
検索をしてみて驚きました。

 

かなり前のことですが、彼の作品をカード
(だったか正確には忘れましたが)にした何点かを
友人から頂いたことがあったからです。

 

建物や路地、お茶室の中など、日本の美しい
風景を版画にした作者を、私は当然のように
日本人だと思い込んでいました。

 

その作者が「赤坂  金龍」と御縁のあった
版画家だったとは……。

 

 

 

料亭金龍」は2009年、「赤坂  金龍」として再出発

 

 

 

1955年に再来日

フィンランドに生まれ、後にアメリカに移住した
祖父母を持つクリフトン・カーフ( Clifton  Karhu)は
1927年にアメリカのミネソタ州ダールズで誕生しました。

 

彼が初めて日本を訪れたのは1946年、18歳の時のこと。
最初は、なんと軍人として長崎県の佐世保にいらした
そうですが、軍人といっても任務は、軍隊付きの画家。

 

家族の全てが絵を描くという環境で育った
クリフトン・カーフはその時すでに、日本の文化や
町並みに興味をもち、帰国後の1950年〜1952年
には、ミネアポリス美術学校に通います。

 

 

 

「桂離宮と月」クリフトン・カーフ

 

 

 

京都から金沢に

卒業後、23歳だった1955年に再来日し
最初は滋賀県に、そののち京都に移ります。
初めての個展が大成功を収めたのは1961年、
34歳の時でした。

 

それからは国内はもとより、香港、オーストラリア、
ヨーロッパ、アメリカで個展を次々に開催し、版画集
(「カーフ画集」「京都再見」「京都発見」)を刊行。

 

59歳になった1986年からは、生まれ故郷のアメリカ、
ミネソタ州で、2年後には当時拠点であった京都で
またその2年後には、彼のルーツともいうべき
フィンランドで、それぞれ回顧展を開催しています。

 

 

クリフトン・カーフさんと、愛猫・マイト君

 

 

京都のアトリエ兼住居を1995年、
68歳の時に金沢に移します。

 

九谷焼きの仕事で訪れた際に金沢に魅かれ
何度か通ったのちに購入した家は、内外装とも
金沢の茶屋文化の伝統的な様式に整えました。

 

金沢に移ってからも版画集を刊行し、フィンランド、
スウェーデン、アメリカでの個展を開催していた
クリフトン・カーフは、今から10年前の
2007年3月24日、80歳で永眠。

 

このようにみていきますと、「赤坂  金龍」との
繋がりはどのあたりに位置するのでしょうか?
できることならば、秋葉佳宣さんに
伺ってみたいところです。

 

 

秋葉佳宣さん「赤坂  金龍」
(写真/「『WELCOM港区』vol.630」)

 

 

 

うさぎがお出迎え「カーフこれくしょん」

金沢の浅野川沿いの主計町(かづえまち)にあった
彼の自宅兼アトリエだった茶屋を改装した建物は
現在クリフトン・カーフ作品の展示、販売
をするギャラリーになっています。

 

「 Yanis   Art  japan   ltd.(株式会社
ヤニスアート・ジャパン)」
(代表取締役 香川寿幸
〒920-0908 石川県金沢市主計町3-19
Tel.076-255-3928(代)   Fax.076-255-3926
メールアドレス         info@cw-karhu.jp)

 

金沢に移ってからもカーフは、国内はもとより
香港、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカで
個展を次々に開催し、版画集(「カーフ画集」
「京都再見」「京都発見」)を刊行。

 

会社名についている「ヤニス(Yanis)」とは
フィンランド語で「うさぎ」という意味だそうです。
カーフさんも社長さんも、卯年生まれだからとのこと。

 

 

(写真/「金沢主計町茶屋街『かーふコレクション』 」)

 

 

というわけで、ギャラリーの格子戸には
うさぎさんがいっぱい。

 

写真はギャラリーの内側から見たものですが外は
ボタン雪が降っていて、カーフさんの版画のようですね。

 

 

 

水に映る風景を版画に

クリフトン・カーフは、雨上がりの
茶屋街を好んだといいます。
雨に濡れた道路に映った電線を見ていると
一瞬、版画であるのを忘れてしまうほど。

 

 

クリフトン・カーフが雨上がりの友人宅を書いた版画
(写真/「カーフこれくしょん」)

 

 

奥の蛇の目傘が、道に溜まった雨におぼろげに映り
ちょっと強めの風に煽られた暖簾が翻っている雨上がり。
がっしりとした黒の直線に添えられた
嫋やかな曲線が美しい。

 

数十年前にクリフトン・カーフの作品をプレゼント
してくれた友人に、見せてあげたい版画です。
ちなみにこちらはクリフトン・カーフ
の金沢の友人宅だそう。

 

次の写真は、3年前の赤坂サカスの「ホワイトサカス」
の様子ですが、間に水が入ることにより
風景は不思議な美しさに彩られます。

 

 

並べてごめんなさい、こちらは雨の赤坂サカスの写真

 

 

 

洒脱な筆使いの墨絵

クリフトン・カーフといえば、このような京都や金沢の
町並みや、「桂離宮と月」のような版画が最も有名だと
思われますが実は私は、カーフさんの墨絵が大々好きです。

 

 

クリフトン・カーフの版画「桂離宮と月」

 

 

大胆で生き生きとした自由な筆づかいが
生み出す線を見ていると、楽しくて、嬉しくて。
何もこわいものはないぞ!、という気になっちゃいます。

 

こちらは「二兎を追う者は一兎をも得ず」の
「二兎無兎」のうさぎさん。(逃げられてよかったね)

 

 

クリフトン・カーフの「二兎無兎」
(写真/「カーフこれくしょん」)

 

 

左に書かれているのは
「RUN  AFTER  TWO  RABBITS  AND  YOU’LL
CATCH  NONE」というアルファベットの英文ですが
なんとも絵になっている字(!)。

 

その左には「佳風」とサインがありますが
この「かーふ」のサインは、初期には「夏風」
という文字で書かれていたようです。
夏の風、も「佳風」に劣らず素敵です。

 

小説家のヘンリー・ミラーも、クリフトン・カーフ
のユーモラス墨絵を愛したようですよ。

 

 

 

 

 

鮎を売って生計を立てた頃を思い

クリフトン・カーフさんが、最後の12年間の住まいを
金沢主計町に決めたのは、再来日して岐阜にいらした頃
の郷愁に駆られたことも、理由の一つだったとか。

 

再来日して滋賀に住んでいた頃は、プロ級の
腕前をいかして趣味の釣りで得た鮎を売って
生計を立てていたこともあったのだそう。

 

金沢主計町にたゆたう浅野川を見て
その頃を思い出されたといいます。

 

常に着物を着て仕事をし、愛した金沢
の街を散策するクリフトン・カーフは
金沢の人々からも愛されていました。

 

「かーふコレクション」の香川寿幸さんは
こんな言葉を記しています。

 

「日本を愛し、日本人より
日本人らしく生きた青い目の版画家」。

 

 

「マイト」はフィンランド語で「ミルク」の意味

 

 

カーフさん御自身も、自画像を描くときは
目の色を青く描かれたそうですが、実際は
ブルーグリーンの目をおもちだったそうです。

 

上の写真でカーフさんと一緒に写っている
彼によく似たもはもはのネコちゃんの名前は
「マイト」君といいます。
これはフィンランド語で「ミルク」を意味する言葉。

 

今から10年前の2007年3月24日にカーフさんが
お亡くなりになってから、3年ほどの月日を経た
2010年4月に、マイト君は11歳で死んでいます。
マイト君の目の色は、何色だったのでしょう?

 

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赤坂 金龍 「金龍御膳」

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

元は料亭の「赤坂  金龍」

赤坂の有名な料亭「 金龍」をリニューアルした
「赤坂  金龍」でお友達と一緒にお食事を頂いてきました。

 

(「赤坂  金龍
 〒107-0052 港区赤坂3-17-2
  Tel: 03-3583-2033  )

 

昼食は、11:30~14:30(ラストオーダー14:00)で
夕食は平日が、17:30~23:00/(ストオーダー22:00)、
土日祝は、17:30~22:00(ラストオーダー21:00)

 

となっていまして、私たちが行ったのはもちろん昼食。
(本当は、夜に行きたいのですが、何しろ予算が……)
頂いたのはランチの「金龍御膳」です。

 

 

金龍御膳「赤坂  金龍」

 

 

昨年の2016年10月24日に、NHKプレミアム
「TOKYO ディープ!」という番組の
「赤坂 おもてなしの心」と題された回に
赤坂のいくつかのお店が紹介されました。

 

そのうちの一つが「赤坂  金龍」だったそう。
「歴代総理大臣が愛した料亭が閉店
*  復活秘話と驚きの大改革!」
とのキャッチコピー(?)がおどっています。

 

 

 

初回は……

「赤坂  金龍」でお食事をいただいたのは今回が初めて
でしたが実は昨年、一度行ったことがありました。

 

昼食は11時半から2時半で、2時までに入らなければ
なりませんが、私が着いたのはギリギリ2。3分前で
その時に御法事か何かの予約についての話を
玄関でしている方が数人いらっしゃいました。

 

その方々のお話が終わるまで待っていると、数分で
お帰りになったので、急いで入ろうとしましたが
2時を過ぎていたようで断られたことがありました。

 

 

 

 

 

 

奥の和室

今回「赤坂  金龍」に連れて行ってくれた
人に、その時の話をしましたら
「あら、そんなうるさいこと言うの?」

 

と、ちょっと意外そうな感じで
「それでは、今度一緒に行きましょう」
ということで連れて行っていただいたのです。

 

「赤坂金龍」の玄関には、料亭だった時の名残りと
思われる履物番の男性がいて、玄関で履物を
受け取って棚に収めてくれます。
もっと、綺麗な靴を履いてくればよかった、
とちょっと後悔。

 

部屋に通されると連れて行ってくれた N子さんが
何か質問すると、すぐに奥の和室に通してもらえました。
さすがN子さん、貫禄です。

 

奥の和室は畳の部屋なのですが、テーブルと椅子が
置いてあり、お庭も綺麗、こちらで良かった!

 

 

「赤坂  金龍」の広間(写真/「『WELCOM港区』vol.630」)

 

 

Nさんと私は、私が以前住んでいたマンションの
住人同士という間柄です。
「赤坂  金龍」から、ほんの2、3分という所で
生まれ育ったN子さんは、本格料亭だった頃の
「金龍」も知っていらっしゃる方。

 

NHKの「TOKYO ディープ!」の「赤坂 おもてなし
の心」にも「歴代総理大臣が愛した料亭が閉店、
復活秘話と驚きの大改革!」とありますが、N子さん
のお父様は議員でしたのでよくいらしていたのでしょう。

 

N子さんと私が住んでいたマンションも、やはり
国会議員の方が建てたもので、その方がお亡くなり
になるまで、御家族で住んでいらっしゃいました。

 

マンションを建てた方と、N子父親が同僚という
関係から、 N子さんの家でも買われたようです。
最も購入時は、物を置く場所として使用していたとか。

 

 

 

 

 

 

1945年東京空襲 → 襲戦後再建 → 現在の場所に

料亭「赤坂  金龍」は1928(昭和3)年に
秋葉よしさんが創業したお店ですが、その時は
現在の場所ではなく田町通りにありました。

 

1945(昭和20)年の東京空襲で、赤坂は焼け野原に。
葉山に疎開をしていて難を逃れた「料亭  金龍」の女将
秋葉よしさんは戦後、お店を再建して営業を始めました。

 

1953(昭和28)年には、現在のみすじ通りに移転。
100坪の敷地に建つ、木造の数寄屋建築でした。
「赤坂  金龍」の建物は、近代の数寄屋建築を
確立した吉田五十八さんの弟子である、
石間佳造さんの手によるものです。

 

秋葉よしさんは、84歳の1982年まで「料亭金龍」
の女将を務め、2代目は、秋葉家にお嫁入りを
した秋葉冨佐江さんに譲っています。
現在の三代目女将は、冨佐江の長女・陽子さん。

 

 

 

「赤坂  金龍」

 

 

 

2005年「料亭金龍」閉店

賑わっていた赤坂の花柳界は、1950年台後半から
次第に影を見せ始め、暖簾を下ろす料亭が相次ぎました。
そのような中、2005年「料亭金龍」も
閉店を余儀なくされます。

 

政治家、実業家というお客さんの減少に加え
建物の老朽化の問題も立ちはだかりました。

 

港区の条例により、新たに木造建築を作ることは
できない上に、改築の際も、認められるのは
建物の半分という制約がありました。

 

閉店をした年は2005年でしたが、2005年と
いいますと世の中を騒がした、例の耐震偽装問題
が起こった頃でもあります。

 

その影響により、耐震補強という名目で
築50年以上の木造建築物である、金龍の
改築の目処が立つことになりました。

 

 

 

 

 

2008年4月18日「赤坂  金龍」オープン

4年の月日を経た、2008年4月18日に「料亭  金龍」は
「赤坂  金龍」として生まれ変わります。
「赤坂  金龍」のサイトには以下のように記されています。

 

「私どもは、創業八十年の歴史を踏まえ、吉田五十八
 の流れをくむ、現代すき家建築を基礎に今まで
 高かった敷居を外し、国内外のお客様を問わず、
 気軽に、店頭芸能、日本の庭、料理、和服、
* お茶などを楽しめるスペースです。
* 金龍の暖簾をくぐった瞬間から殺伐とした都会
 では感じることのできないゆったりとした
 時間の流れを感じていただけると思います」

 

新しい「赤坂金龍」の建物は、ほぼ以前のままの
新興数寄屋造りを石間佳造が担当、庭園はホテル
ニューオータニを手がけた岩城恒太郎、
表具(ふすまなど)は向井一太郎、

 

食器類は、陶芸家の前田正博、川松弘美、
百田照、佐々木文代の作品を使用しています。

 

 

 

独特な魅力を持つ「赤坂  金龍」のバーカウンター
(といってもバーカウンターに座ったことなどほとんどないけど…)

 

 

 

いつかは、バーカウンターに!

次は、是非ここに座ってみたいと思ったのが
このバーカウンター。
でも、ここでランチ頂きたいです、というわけには
いかないでしょうから、ちょっと敷居が高いかなぁ。

 

このカウンターのみならず、「赤坂  金龍」で使われて
いるのは無垢の木のみ、全て手作りという贅沢さです。
バーカウンターを作った理由を、二代目女将
・秋葉冨佐江さんの御長男の秋葉佳宣さんは、

 

「個室が多いので、広い部屋でもお二人連れという
こともありましたが、もっと多くの方にお越しい
ただきたいと思い、気軽にお使いいただける
バーカウンターや、ランチもご用意しています」

 

「バブルの影響で、赤坂の街も昔のようなまとまりが
感じられなくなってしまいましたが、料亭というのは
日本文化の集約です。
この街で次の世代に日本文化を伝えていきたいと
思っています」 (『WELCOM港区』vol.630)
と語っていらっしゃいます。

 

 

秋葉佳宣さん「赤坂  金龍」
(写真/「『WELCOM港区』vol.630」)

 

 

 

「赤坂金龍」の復活に影響を与えた版画家

また2階の大広間を改装したライブスペースでは
日本伝統芸能の芸者さんの踊りはもちろんのこと
日本に4人しかいないという『太鼓持ち」の
芸を見ることも可能だそうです。

 

この「赤坂金龍」を復活するに際して、秋葉佳宣さん
が日本伝統文化を発信するお店にする決心をした
理由の一つには、版画家のクリフトン・カーフさん
の影響があったといいます。

 

私はこの事実には、ちょっと驚いたのですが
長くなってしまいましたので、クリフトン・カーフ
については、次回にお話ししましょうね。

 

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