須田青華 加賀、山代温泉の「青華窯」

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加賀の「精華窯」

先日、石川県金沢市の陶芸家・中村梅山の器をご紹介
しましたが、そういえばこれも同じ石川県のもの
と思い出したのがこの器、4代・須田青華の
「色絵風船向付」です。

 

こちらは石川県ですが中村梅山の梅山窯のある
金沢ではなく、加賀市の山代温泉にある窯です。

 

1906(明治39)年に青華窯を築いてから
染付や祥瑞(しょんずい)、呉須赤絵、古赤絵、
古九谷などの作品を作り出しています。

 

「須田青華
〒922-0256 石川県加賀市山代温泉東山町4
Tel. 0761-76-0008  Fax. 0761-76-0988」

 

 

 

九谷焼窯元「精華」

 

 

写真の左の建物の1階の屋根の上にある看板には
「九谷焼窯元」と、右から書いてあります。

 

そして写真ですとちょっとわかりにくいのですが
その真下のガラス戸の上にあるのが下の写真にある
看板で「青華」とこれも右側から書かれています。

 

これは北大路魯山人の作品。
一度は陶芸作家の道から離れようとした中村梅山の
御長男・中村錦平が、再び陶芸家を目指すきっかけ
ともなったのが北大路魯山人の作品でした。

 

 

 

須田青華の窯元に掲げられている
看板「青華」北大路魯山人作

 

 

 

ということで北大路魯山人というと、つい陶芸家と
思ってしまいますが、彼は元々は篆刻家で、このような
篆刻文字の看板や印鑑を掘る仕事が本業でしたが、
とはいえ魯山人を説明する肩書きは1つでは足りません。

 

美食家でも有名な魯山人は、今はもうなくなってしまい
ましたが、千代田区永田町に「星丘茶寮(ほしがおか
さりょう)」という有名な料亭の顧問兼料理長
としても活躍していました。

 

「星丘茶寮」は政界、財界及び文化人の
多くの顧客をもっていた料亭。

 

料理が超一流だったのはいうにおよばず、調理場を
お客さんに公開し、料理長にネクタイ着用を
義務付けたり、仲居さんにお酌をさせないなど
当時の料亭の枠におさまらない料亭だったようです。

 

 

北大路魯山人「伊賀釉四方平鉢」

 

 

同様に、北大路魯山人自身も篆刻家や陶芸家、
料理人等々、そのどれか一つにはおさまる
ことのない芸術家でもありました。
その魯山人の陶芸の手ほどきをしたのが
初代・須田青華。

 

私はこの「青華」の看板を作ったのは魯山人、と
聞いた時に最初は陶芸を教えてもらったお礼として
魯山人が看板を作ったのかと思ったのですが
そうではなく順番が逆だったようです。

 

山代温泉の「吉野屋」の主人・吉野治郎の別荘に
滞在していた魯山人がいくつか頼まれた仕事の
うちの一つが、青華窯のこの看板でした。

 

 

北大路魯山人の篆刻看板「青華」

 

 

魯山人は1915(大正4)年の11月に、出来上がった
「青華窯」の篆刻看板を須田青華のもとに届けます。
期待にたがわない素晴らしい出来に
須田精華は大満足。

 

その御褒美として魯山人は
青華窯で学ぶことを許されます。

 

書はお手のものである魯山人も、上絵付けには苦労
したようでしたが、生来の美的感覚の素晴らしさ
で周囲を驚かせる作品を作りあげます。

 

別荘の主である吉野治郎は
「この男、ただものではない」と。

 

また初代・須田青華は、この時に魯山人の
類い稀な才能を見抜いたといわれています。

 

一方、魯山人の方はといえば後に、初代・青華を
「陶芸界における〈独歩〉の観あり」と称えたととか。

 

 

「星丘茶寮」は現在、ザ・キャピトル東急ホテルになっています

 

 

 

初代・須田青華 1862~1927年 

初名、与三郎といった初代・須田菁華は
1862(文久2)年、金沢の商家に生まれました。
この年はペリー来航の9年後にあたります。

 

1880(明治13)年に石川県勧業試験場陶画部を
卒業後、京都に出て製陶の研究を重ね
3年後に九谷陶器会社に入社。

 

上絵付けに従事し、3年後の1885
(明治18)年には画工長となります。

 

ところが会社が解散してしまい、1891(明治24)年
に山代温泉に錦窯(きんがま)を築いた後、
1906(明治39)年には同じく山代温泉に自家用の
登窯「青華窯」を築いて独立することになりました。

 

 

 

 

 

「青華」の名前は「青花」から

須田青華の「青華」とは、白磁にコバルトで絵付け
を施した磁器の「青花」からきている名前です。
日本では「染付」と呼んでいるもののこと。

 

元代に、西方ペルシャから輸入されたコバルトを使用し
美しい白磁に酸化コバルトで絵付けをした後に
透明釉を掛け、高火度で焼成します。
鮮やかな青い色で複雑で重厚な模様が描かれています。

 

官窯の永楽、宣徳年間のものにも劣らない巧みなものを
多く残した、初代・須田青華は1927(昭和2)年に、
文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と
6つの時代を生きた後に亡くなりました。

 

 

4代・須田青華

 

 

初代の須田青華の子である2代・青華は1892(明治25)
年に生まれ、1971(昭和46)年に亡くなっています。
本名は吉次。

 

本名は清治といった3代・青華は、1916(大正5)年
に誕生し、1981(昭和56)年に没しています。

 

「身から遠いものは移ろいで行く。
逆に口の形が人間変わらないのと同じように、
口に近いもの、食べ物は変わらないだろう。
だからこれまでもこれからも、
自分は同じものを作り続けるつもりだ」
と3代・青華は語ったといわれます。

 

 

溜池山王駅アート「色絵茄子大鉢」
ギャラリー「壷中居(こちゅきょ)」(東京)所蔵作品

 

 

 

当代、4代・青華

その3代・青華の子が現在の4代・須田青華です。
本名は千二郎、1940(昭和15)年生まれ。

 

金沢美術工芸大学の洋画家を卒業後に
祖父と父に作陶を学びました。

 

1981(昭和56)年、3代・青華の没後、4代を襲名。
4代・青華は、初代からの手仕事を
大切に引き継いでいます。

 

地元の土を使って、電動ではない足で動かす蹴轆轤
(けりろくろ)で形作ったものを、磁器では珍しい
といわれる松薪の登り窯で焼くという
古九谷発祥時の工法を、現在も守り続けています。

 

 

須田青華「色絵かぶら文茶碗」

 

 

4代・青華はこの過程を「創作」ではなく「ものづくり」
と表現し「うちの器は健康なんです。だから丈夫で
使い勝手がよく、毎日楽しめるのです」と語ります。

 

観賞用だけではなく、日々の暮らしにとけ込む
「用の美」であり「色絵かぶら文茶碗」のゆったり
とした大らかさは ,まさにその言葉通り。

 

赤い色は,紅殻を丹念にすることで
生み出される赤だといいます。

 

この他には、青、緑、黄色、紫、紺など
はっきりとした色は、溢れ出る生命力を
感じさせる九谷の色でもあります。

 

 

須田青華「色絵風船向付」

 

 

 

「色絵風船向付」

それらの九谷の色が勢揃いして
楽しげなハーモニィーを奏でているのが
かなり前に手に入れたこの色絵風船向付。
「向付(むこうづけ)」というのは、小鉢のことです。

 

今、調べてみても見つからないのですが、以前は目黒に
こじんまりとした東京店があったような記憶があります。
私はそこで「色絵風船向付」を5つ購入しました。

 

残念ながら私は、石川県加賀市の「青華窯」に
お邪魔したことはありません。

 

この色絵風船向付の広い方を二つあわせて
まさに紙風船の形にした花瓶もあるのですが
なぜか私はこちらの方が好き。
紙風船の箸置きもありますよ。

 

 

 

 

「青華窯」の窯元では、何十畳ものお部屋には沢山の
器があるようですが、それでも現在ないものを頼む
部場合は1年ほど待たなくてはならないそうです。
購入された方は、待つのもまた楽しいとおっしゃいます。

 

また4代・青華は、
「手の込んだものを『これは手が込んでいるのだ』と
見せつけるようではダメ」ともおっしゃいます。
本当は凄いものを、軽やかにさりげなく作り上げる。

 

「私どもが作るのは、日常で使う手工芸。
器ばかりが立派で、気にかかるのは
本意ではありません。
伝統を継承する職人として仕事は確かにこなし
ながら、世に生み出す姿は謙虚でありたい」

 

と語る4代・青華は、古九谷が発祥した江戸前期
からの古い絵柄を参考にしつつも、新しいデザイン
を多く作り出しています。

 

「気兼ねなく自然に、今の感覚で
自由に使っていただきたいです」

 

古い伝統的な工法を大切にし、古九谷の絵柄を
参考にしながらも現代のデザインを作り出し、
日々の生活で使われることを望む作者の作り出す器。

 

「青華窯」の器は「辻留」でも
多く使われているようです。

 

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