参勤交代

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参勤交代の成立

江戸時代、大名が領国と江戸を1年毎に
往復する制度の参勤交代は1615
(元和15)年の「武家諸法度」で定められ、

 

1635(寛永12)年には
「大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。
毎歳夏四月中、参勤致スベシ」と記されています。

 

8代将軍・吉宗の時代の1722(享保7)年に
「上米(あげまい)制」という
1万石につき100石を収めることで
江戸滞在期間を少なくする制を導入しました。

 

これは参勤交代の江戸滞在期間を1年から半年に短縮し、
国元に1年半、居住できる制度でしたが、8年間実施
された後の1780年には今まで通りに戻っています。

 

 

 

 

 

「参勤」の言葉とルーツ

「参勤」という言葉は鎌倉、室町時代から
軍役負担などに使われていた言葉。

 

「参勤交代」は、鎌倉時代に幕府が御家人に
土地を与えたことに対する、主君・家臣の
見参式がルーツだといわれています。

 

室町時代、守護大名は京都に居住し
将軍の許可なく国許に帰ることはできません
でしたが、応仁の乱後は廃止されました。

 

京都市左京区に聚楽第を完成させた豊臣秀吉も
徳川家康、前田利家、伊達政宗といった
大名を近くに居住させています。

 

 

歩道橋の向こう側が、新田藩山内家のあった場所(麻布)
古川の「三の橋」から撮った写真で
「三の橋」の後ろは会津藩保科家の屋敷跡

 

 

 

全大名対象ですが例外も

参勤交代が始まった当初は、1万石以上の大名が対象
でしたが、1642(寛永19)年には全大名となります。
災害などが起きた藩は、免除されることもあったそう。

 

中には、江戸に常駐している大名や旗本もいました。
以前、ブログで紹介した忠臣蔵の寺坂吉右衛門
討ち入り後に暮らした、土佐新田藩の山内家も
そのような大名の一つです。

 

土佐新田藩は、山内一豊の土佐藩の支藩ですが
参勤交代を行わわず、江戸に定住している
定府(じょうふ)大名であったため
「麻布山内家」とも呼ばれていました。

 

 

左下の緑色の線で囲った場所が「土佐新田藩山内家」のあった場所
古川を挟んで右側の「●●●」内が「会津藩保科家」のあった場所
その中の緑色の矢印の先にあるのが「三の橋」

 

 

このように国許に帰らず江戸で暮らして
いたのは、徳川御三家の一つである水
戸徳川家、老中や若年寄などの幕府要職者。

 

「麻布山内家」と呼ばれた土佐新田藩山内家の上屋敷の
すぐそばには会津藩保科家がありましたが、保科正之
ほとんど会津に帰ることはなかったといいます。

 

正之は、幼くして将軍職についた甥の
4代将軍・家綱の補弼(ほひつ、補佐)を
3代将軍・家光から頼まれて幕政に専念して
いたため、20年以上も会津に帰りませんでした。

 

 

会津藩保科家の家紋「並び九曜紋」「角九曜」

 

 

 

参勤交代の期間

参勤交代は、4月に国許を出立し、江戸に1年滞在した
後に戻り、1年間国許で暮らすということを繰り返すもの。

 

全大名が一斉に4月に移動ということではなく
出発する年を奇数年と偶数年に分けて
交替で移動していました。

 

関東の大名に関しては、江戸在住が1年ではなく半年と
いう短いものだったようですが、反対に対馬藩宗家は
朝鮮との対応を考慮されて、3年に1度の参勤でした。

 

参勤交代の「参勤」は江戸に向かうことをいい
「交代」は帰ることを指しますので「参勤交代で
江戸に向かう」というのは間違いで、
「参勤で江戸に向かう」というのが正しい言い方だとか。

 

 

対馬藩宗家の家紋「隅立て四つ目結」

 

 

 

大名行列の人数

参勤交代の大名行列の人数は、多くが150~300人前後
の規模で、加賀藩のような大きな藩だと2000〜2500人、
仙台藩で1500人ほどでした。

 

整然とした隊列を組むのは宿場などの特定地に
限られて、それ以外の時は、1日も早く江戸に着く
ことが目的ですので、ただただひたすら
早く歩くことに徹していたということです。

 

また小さな藩では、国を出る時と江戸に入る直前に
人を雇って大名行列の形を整えることも普通だったとか。

 

 

 

 

 

江戸までにかかる日数

江戸までにかかった日数は、船を利用する北海道の
松前藩では40日、九州、薩摩藩では1ヶ月ほど。

 

松前藩の大変さを配慮して、参勤交代を5年おきとし、
また江戸に滞在するのは4ヶ月でよい、と将軍から
特例を出してもらったそうですが、それでも大変ですね。

 

西日本の大名は、大坂までは船を使って
海路でくるのが一般的。
紀州徳川家は和歌山から江戸までの約625kmを
18日で移動、ということは1日に約35kmも
歩くということで、こちらも大変。

 

 

 

 

 

参勤交代の費用1(鳥取藩池田家)

鳥取藩池田家は、700km少しという距離を22日間で
といいますので、1日の移動距離は約32km。

 

費用は、1859(安政6)年の記録では、1957両。
1両を8万円で換算しますと約 1 億5,700万円になり、
1日あたりは700万円以上で、往復では3億円以上です。

 

32,5万石の大藩とはいえ、かなりの金額。
なお鳥取藩の場合は、これらの費用のうち
40パーセントが人件費だったそうです。

 

 

 

 

 

参勤交代の費用2(加賀藩前田家)

加賀藩前田家となりますと、江戸まで13日と期間は
短縮されるものの、鳥取藩より大きく行列の人数も
膨大なもので、5400両(約 4 億3,200万円)。

 

2,000〜2,500人ということですが、1日のコストは
3000万円以上にも上り、往復では8億円以上。

 

1808(文化5)年の費用は、銀332貫466匁
(金5541両に相当)で、現在の価格では4〜6億円。
加賀藩の年間予算に占める割合は3パーセント程度です。

 

それ以上に経費がかかって
いたのが、江戸での予算でした。
参勤交代費用も含めると、年間予算の
50パーセント以上が、江戸で役目を果たすための経費
として計上されているそうです。(「金沢歴活」)

 

 

 

 

 

大名行列のウソ

ところで参勤交代といいますと、思い浮かぶのは
映画やTVドラマでの大名行列の「下に〜、下に〜」と
いう掛け声に人々が土下座をしている場面ですよね。

 

ところがあれは基本的にはウソだそう。
土下座をしなくてはいけなかったのは、紀州・尾張・水戸
の御三家と、自国のお殿様の行列の時だけでした。

 

それ以外の大名行列の時は、「片寄れ〜、片寄れ〜」、
「よけろ〜、よけろ〜」という声をかけて、
つまり、ぶつからないように注意を促したのです。

 

ただし、大名行列の前を横切ったり、列を乱す
行為はNGで、そのようなことがあった場合は
「斬捨御免(きりすてごめん)」もありえました。

 

 

 

 

 

大名行列を楽しんでいた江戸の人

これの例外は、飛脚とお産婆さん。
まあかなり常識的な話で、現在でいえば救急車が声を
かけながら優先して走っているようなものでしょうか。

 

江戸時代の人々は大名行列と出会うのを結構、楽しんで
いたと知って、私はなんとなく嬉しくなりました。
パレードを見ている感覚に近く土下座ポーズとは大違い。

 

大名行列の側もそれを意識して、槍のパフォーマンス
などで派手になることがあったため、8代将軍・吉宗は
大名行列に対して人数制限をするよう
『武家諸法度』に記しているほどです。

 

 

 

 

 

メリットとデメリット

参勤交代により財政が窮乏をきたした諸大名は
年貢米と特産品を中央市場である大坂で販売し、
貨幣を獲得した結果、全国の物資は
大阪に集まり、それが江戸へ輸送されました。

 

「諸大名と大坂、大阪から江戸への輸送と
流通路が出来上がり三者の経済的な結合
ができ、全国市場の形成を促進。
江戸時代の商品流通、交通・宿駅、また貨幣経済
・商工業などの発達は、換金交代に寄るところが
大きく、さらに中央文化の地方普及にも
貢献するところが少なくなかった」
       (藤野保『進呈幕藩体制史の研究』)

 

一方デメリットとしては(財政窮乏は上述のように
デメリットとばかりはいえませんが)藩士が
国許と江戸に別れて対立し、お家騒動の原因に
なることが少なくなかったことが挙げられます。

 

「幕府に対抗する勢力の弱体化を目指す
幕府の意図は成功したといえる」ともいわれます。

 

 

 

 

 

参勤交代の目的

そして最後は目的ですが、本来はこれが最初に
くることなのでしょうが、少々思うこともあって
最後にしてみました。

 

参勤交代の目的は、大名の力を削ぐことだった
とはよくいわれ説明されていることです。

 

しかし現在では、「幕府には参勤交代で諸大名の
経済力を圧迫しようという意図はなかった」
という説が主流だというのです。

 

 

 

 

京都府立大学の藤本仁文さんは、参勤交代の本来の目的を
「幕府の『御恩』に対して、大名が幕府を守護する
『奉公』にあたるもの」として、「大名が1年交代で、
色々な役目を果たすために江戸に行っていた」
と説明しています。

 

将軍と諸大名の主従関係を明確にするための行為
というのはその通りであると思いますし、人質として
妻子を江戸に残している以上、国許だけで暮らす
ということもあり得ないでしょう。

 

ですが私自身は、将軍に対する献上や御成とともに
特に大藩の外様大名に対して、財力を削ぐ効果を期待
していなかったわけはないような気もするのですが。
みなさんは、どのように思われますか?

 

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