ツバメの水遊び 「東京都心では2年間、ツバメが観測されず」

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2年間、東京ではツバメが観測されていない

今日、しばらくぶりに外出先でツバメを見ました。
沢山のツバメが池にやってきて、順番に水遊びをして
いる可愛い光景に遭遇したのは初めてのことです。

 

私は思わず立ち止まって見入ってしまいました。
最初は、ツバメが何をしているのか
わからなかったのですが。

 

今年の3月に、ネットの「YOMIURI  ONLINE」で
「東京都心でツバメが2年間続けて観測されず
生物季節観測のピンチ」という記事を読みました。
   (「読売オンライン」2017年の3月18日付)

 

そういえばここ数年、ツバメを見た記憶がありません。
以前、このブログで、東京ではありません
でしたが、お隣の千葉県でツバメの巣に
ヒナがいたと書いたことがありました。

 

 

2013年に見たツバメの巣

 

 

 

最後に見たのは2013年

今、調べて見ましたいら2013年7月の記事です。
「ツバメの巣 巣立ち半年後の渡りまでの
生存率は13%」
)ということは
もう4年も前のことになるのですね。

 

それ以降、見ていたかったツバメを
今日は東京から新幹線で西の方に
行った場所で大量に見ることができました。
その時、周りにはほとんど人はいませんでした。

 

静かで美しい庭園のかなり大きな池に
鳥が飛んできては、順番に水面をかするように
飛んでいるのが目に入ったのです。
そこは、よくペアーのカモが泳いでいる池でした。

 

飼っているカモだと思っていたのですが、そうではなく
カモが勝手に飛んで来ているのだということでした。
そういえば、時にはメスのカモだけのこともありました。

 

 

 

 

 

水飲み? 水遊び?

今日はカモの姿が見えずに残念、と思っていたら
なんとツバメが代役を果たすかのように華麗に登場。

 

ツバメたちは、池の上で大きく輪を描くように
飛んでいて、順番に水面に降りてくるかと思うと
少しだけ水に触れた後にまた飛び去ります。

 

水中の餌をとっているのか、水を飲んでいるのか、
はたまた水遊びをしているのかがわかりません
でしたが、家で調べてみると、水遊びが
水を飲んでいたかのどちらかのよう。

 

確かに今日は暑い1日でした。
ツバメたちも水遊びをしたかったのかもしれませんね。
どちらにしても華麗で美しい姿でしたよ。

 

 

 

 

 

越冬ツバメ

ツバメは北半球の広い範囲、ユーラシア大陸、南北
アメリカ大陸、アフリカ大陸などに生息していて初夏
になると沖縄から北海道まで日本各地にやって来ます。

 

日本で卵を産み子育てをし終えたツバメは、台湾や
フィリピン、ボルネオ島、マレー半島、ジャワ島など
に帰って冬を過ごします。

 

中には「越冬ツバメ」と呼ばれる西日本などで
冬を越すものもいて、夜になるとみんなで
体を寄せ合い、暖をとっているそう。

 

 

 

 

 

過酷な「渡り」

日本のどの場所で子育てをしていたツバメ
であっても、渡りをするときは沖縄諸島から
台湾、東南アジアへと移動します。

 

それぞれの島は数百キロメートル以上
離れていますので、その間、ツバメは
飛び続けることが必要です。

 

このようにして越冬地に渡ったツバメが翌年、日本に
やってくる率といえば、わずかに11パーセントに過ぎない
といわれるほど、渡りはツバメにとって過酷なもの。

 

寒さに耐えることができて、食べるものがあるならば
過酷な渡りをせずに日本にとどまろうという
ツバメもいるということなのでしょう。

 

 

 

 

 

歩くのは苦手

ツバメは、飛んでいる蚊や蛾などの羽虫をエサに
するそうですので、今日のツバメが池でエサを
とっていたわけではなかったようです。

 

「雨が振る前はツバメが低く飛ぶ」という
ことわざがあるそうですが、これは水分を含んで
低い場所を飛んでいる虫を獲るために低空飛行を
しているツバメの様を表現したものです。

 

エサである虫をとるのも、水を飲むのも
ツバメは飛びならがするようですが
これはツバメが歩くことが苦手だから。

 

足は短くて弱いので、巣作り以外では
ほとんど地上を歩くことはないといいます。

 

 

 

 

 

天敵が多くって……

巣作りに使用する泥を集める時だけは地上に降りてきて
泥に唾液を混ぜ合わせたもので、巣を作ります。
そんな苦手な地上に降りて作った巣ですが
時にはスズメに取られてしまうこともあるそう。

 

戦わないツバメにはスズメ以外にも、カラス、
ムクドリ、ネコなどたくさんの天敵がいます。

 

カラスなどは、ツバメの巣がどこにあるか、
ヒナがどの位の大きさかまでチェック済みで、
ほどよい大きさになるまで待ってから襲うのだとか。

 

 

 

 

 

益鳥

ツバメは害虫を食べてくれる益鳥として、またツバメが
巣を作る家は栄える、縁起がいいなどといって
日本では昔から愛されてきた鳥でもありました。

 

江戸時代には、ツバメを捕まえることは禁止
されていて、村全体で保護していたということです。

 

最近では、
神奈川県で2006年以降、種単位の減少種として指定、
千葉県では2011年以降、種単位で一般保護生物に、
また千葉市では2004年に要保護生物に掲載されています。

 

減少傾向にあったツバメが、2年前からは東京では全く姿を
見せなくなってしまったということは、本当に心配です。

 

 

 

 

2013年にこのブログで書いた、日本で生まれて巣立って
から、半年後の渡りまでの生存率が13パーセント。

 

そして今日知った、渡っていたツバメが翌年、
再び日本に来ることができるのが11パーセント。
この数字に関しては自然の厳しい掟ということでしょう、

 

それでもツバメは古来、毎年
日本にやってききていたのです。
最近の異変は、環境を含め人為的な側面も
かなり影響しているように思えます。

 

よくいわれることですが、ツバメが暮らせなくなる事態
とは、それは人間が暮らせなくなる環境でもあるのです。

 

今日、ゆっくりとツバメの飛翔を見て
言葉にできない美しさに驚きました。

 

動物も植物も人間も、ともに健やかに暮らすことが
できる地球であり、日本になることを祈るばかりです。

 

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参勤交代

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参勤交代の成立

江戸時代、大名が領国と江戸を1年毎に
往復する制度の参勤交代は1615
(元和15)年の「武家諸法度」で定められ、

 

1635(寛永12)年には
「大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。
毎歳夏四月中、参勤致スベシ」と記されています。

 

8代将軍・吉宗の時代の1722(享保7)年に
「上米(あげまい)制」という
1万石につき100石を収めることで
江戸滞在期間を少なくする制を導入しました。

 

これは参勤交代の江戸滞在期間を1年から半年に短縮し、
国元に1年半、居住できる制度でしたが、8年間実施
された後の1780年には今まで通りに戻っています。

 

 

 

 

 

「参勤」の言葉とルーツ

「参勤」という言葉は鎌倉、室町時代から
軍役負担などに使われていた言葉。

 

「参勤交代」は、鎌倉時代に幕府が御家人に
土地を与えたことに対する、主君・家臣の
見参式がルーツだといわれています。

 

室町時代、守護大名は京都に居住し
将軍の許可なく国許に帰ることはできません
でしたが、応仁の乱後は廃止されました。

 

京都市左京区に聚楽第を完成させた豊臣秀吉も
徳川家康、前田利家、伊達政宗といった
大名を近くに居住させています。

 

 

歩道橋の向こう側が、新田藩山内家のあった場所(麻布)
古川の「三の橋」から撮った写真で
「三の橋」の後ろは会津藩保科家の屋敷跡

 

 

 

全大名対象ですが例外も

参勤交代が始まった当初は、1万石以上の大名が対象
でしたが、1642(寛永19)年には全大名となります。
災害などが起きた藩は、免除されることもあったそう。

 

中には、江戸に常駐している大名や旗本もいました。
以前、ブログで紹介した忠臣蔵の寺坂吉右衛門
討ち入り後に暮らした、土佐新田藩の山内家も
そのような大名の一つです。

 

土佐新田藩は、山内一豊の土佐藩の支藩ですが
参勤交代を行わわず、江戸に定住している
定府(じょうふ)大名であったため
「麻布山内家」とも呼ばれていました。

 

 

左下の緑色の線で囲った場所が「土佐新田藩山内家」のあった場所
古川を挟んで右側の「●●●」内が「会津藩保科家」のあった場所
その中の緑色の矢印の先にあるのが「三の橋」

 

 

このように国許に帰らず江戸で暮らして
いたのは、徳川御三家の一つである水
戸徳川家、老中や若年寄などの幕府要職者。

 

「麻布山内家」と呼ばれた土佐新田藩山内家の上屋敷の
すぐそばには会津藩保科家がありましたが、保科正之
ほとんど会津に帰ることはなかったといいます。

 

正之は、幼くして将軍職についた甥の
4代将軍・家綱の補弼(ほひつ、補佐)を
3代将軍・家光から頼まれて幕政に専念して
いたため、20年以上も会津に帰りませんでした。

 

 

会津藩保科家の家紋「並び九曜紋」「角九曜」

 

 

 

参勤交代の期間

参勤交代は、4月に国許を出立し、江戸に1年滞在した
後に戻り、1年間国許で暮らすということを繰り返すもの。

 

全大名が一斉に4月に移動ということではなく
出発する年を奇数年と偶数年に分けて
交替で移動していました。

 

関東の大名に関しては、江戸在住が1年ではなく半年と
いう短いものだったようですが、反対に対馬藩宗家は
朝鮮との対応を考慮されて、3年に1度の参勤でした。

 

参勤交代の「参勤」は江戸に向かうことをいい
「交代」は帰ることを指しますので「参勤交代で
江戸に向かう」というのは間違いで、
「参勤で江戸に向かう」というのが正しい言い方だとか。

 

 

対馬藩宗家の家紋「隅立て四つ目結」

 

 

 

大名行列の人数

参勤交代の大名行列の人数は、多くが150~300人前後
の規模で、加賀藩のような大きな藩だと2000〜2500人、
仙台藩で1500人ほどでした。

 

整然とした隊列を組むのは宿場などの特定地に
限られて、それ以外の時は、1日も早く江戸に着く
ことが目的ですので、ただただひたすら
早く歩くことに徹していたということです。

 

また小さな藩では、国を出る時と江戸に入る直前に
人を雇って大名行列の形を整えることも普通だったとか。

 

 

 

 

 

江戸までにかかる日数

江戸までにかかった日数は、船を利用する北海道の
松前藩では40日、九州、薩摩藩では1ヶ月ほど。

 

松前藩の大変さを配慮して、参勤交代を5年おきとし、
また江戸に滞在するのは4ヶ月でよい、と将軍から
特例を出してもらったそうですが、それでも大変ですね。

 

西日本の大名は、大坂までは船を使って
海路でくるのが一般的。
紀州徳川家は和歌山から江戸までの約625kmを
18日で移動、ということは1日に約35kmも
歩くということで、こちらも大変。

 

 

 

 

 

参勤交代の費用1(鳥取藩池田家)

鳥取藩池田家は、700km少しという距離を22日間で
といいますので、1日の移動距離は約32km。

 

費用は、1859(安政6)年の記録では、1957両。
1両を8万円で換算しますと約 1 億5,700万円になり、
1日あたりは700万円以上で、往復では3億円以上です。

 

32,5万石の大藩とはいえ、かなりの金額。
なお鳥取藩の場合は、これらの費用のうち
40パーセントが人件費だったそうです。

 

 

 

 

 

参勤交代の費用2(加賀藩前田家)

加賀藩前田家となりますと、江戸まで13日と期間は
短縮されるものの、鳥取藩より大きく行列の人数も
膨大なもので、5400両(約 4 億3,200万円)。

 

2,000〜2,500人ということですが、1日のコストは
3000万円以上にも上り、往復では8億円以上。

 

1808(文化5)年の費用は、銀332貫466匁
(金5541両に相当)で、現在の価格では4〜6億円。
加賀藩の年間予算に占める割合は3パーセント程度です。

 

それ以上に経費がかかって
いたのが、江戸での予算でした。
参勤交代費用も含めると、年間予算の
50パーセント以上が、江戸で役目を果たすための経費
として計上されているそうです。(「金沢歴活」)

 

 

 

 

 

大名行列のウソ

ところで参勤交代といいますと、思い浮かぶのは
映画やTVドラマでの大名行列の「下に〜、下に〜」と
いう掛け声に人々が土下座をしている場面ですよね。

 

ところがあれは基本的にはウソだそう。
土下座をしなくてはいけなかったのは、紀州・尾張・水戸
の御三家と、自国のお殿様の行列の時だけでした。

 

それ以外の大名行列の時は、「片寄れ〜、片寄れ〜」、
「よけろ〜、よけろ〜」という声をかけて、
つまり、ぶつからないように注意を促したのです。

 

ただし、大名行列の前を横切ったり、列を乱す
行為はNGで、そのようなことがあった場合は
「斬捨御免(きりすてごめん)」もありえました。

 

 

 

 

 

大名行列を楽しんでいた江戸の人

これの例外は、飛脚とお産婆さん。
まあかなり常識的な話で、現在でいえば救急車が声を
かけながら優先して走っているようなものでしょうか。

 

江戸時代の人々は大名行列と出会うのを結構、楽しんで
いたと知って、私はなんとなく嬉しくなりました。
パレードを見ている感覚に近く土下座ポーズとは大違い。

 

大名行列の側もそれを意識して、槍のパフォーマンス
などで派手になることがあったため、8代将軍・吉宗は
大名行列に対して人数制限をするよう
『武家諸法度』に記しているほどです。

 

 

 

 

 

メリットとデメリット

参勤交代により財政が窮乏をきたした諸大名は
年貢米と特産品を中央市場である大坂で販売し、
貨幣を獲得した結果、全国の物資は
大阪に集まり、それが江戸へ輸送されました。

 

「諸大名と大坂、大阪から江戸への輸送と
流通路が出来上がり三者の経済的な結合
ができ、全国市場の形成を促進。
江戸時代の商品流通、交通・宿駅、また貨幣経済
・商工業などの発達は、換金交代に寄るところが
大きく、さらに中央文化の地方普及にも
貢献するところが少なくなかった」
       (藤野保『進呈幕藩体制史の研究』)

 

一方デメリットとしては(財政窮乏は上述のように
デメリットとばかりはいえませんが)藩士が
国許と江戸に別れて対立し、お家騒動の原因に
なることが少なくなかったことが挙げられます。

 

「幕府に対抗する勢力の弱体化を目指す
幕府の意図は成功したといえる」ともいわれます。

 

 

 

 

 

参勤交代の目的

そして最後は目的ですが、本来はこれが最初に
くることなのでしょうが、少々思うこともあって
最後にしてみました。

 

参勤交代の目的は、大名の力を削ぐことだった
とはよくいわれ説明されていることです。

 

しかし現在では、「幕府には参勤交代で諸大名の
経済力を圧迫しようという意図はなかった」
という説が主流だというのです。

 

 

 

 

京都府立大学の藤本仁文さんは、参勤交代の本来の目的を
「幕府の『御恩』に対して、大名が幕府を守護する
『奉公』にあたるもの」として、「大名が1年交代で、
色々な役目を果たすために江戸に行っていた」
と説明しています。

 

将軍と諸大名の主従関係を明確にするための行為
というのはその通りであると思いますし、人質として
妻子を江戸に残している以上、国許だけで暮らす
ということもあり得ないでしょう。

 

ですが私自身は、将軍に対する献上や御成とともに
特に大藩の外様大名に対して、財力を削ぐ効果を期待
していなかったわけはないような気もするのですが。
みなさんは、どのように思われますか?

 

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将軍家への献上 2 様々な献上品

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献上といえば博多献上

江戸時代に諸国266藩の各大名家から将軍家へ様々な
品物が「献上」されましたが、「献上」という言葉を
聞いて私がまず真っ先に思い浮かぶのは博多織の献上の帯。

 

日本舞踊のお稽古をしていたこともあり、「献上」という
漢字も知らない幼稚園児の頃から、この帯を「けんじょう」
と呼び、この言葉を日常会話で使っていた記憶があります。

 

中央に独鈷(どっこ)という独特の模様が織り出してある
のが博多献上の特徴で、私のけんじょうは白地に赤の独鈷
で、おそらく、半幅よりもう少し幅の狭い子ども用の帯。

 

後にこれが、福岡藩(筑前藩)黒田家が
献上物としていた帯地であることから
献上と呼ばれるようになったことを知りました。

 

 

道路左側が福岡藩黒田家のあった場所(現在は外務省庁舎)

 

 

 

福岡藩黒田家の献上品

福岡藩黒田家の江戸上屋屋敷は、現在は外務省庁舎が
ある(千代田区霞ヶ関2丁目2)霞ヶ関にありました。

 

中屋敷は赤坂2丁目にあり、赤坂の「南部坂」
(麻布の「南部坂」ではなく)に接していて、福岡藩
黒田家には、郊外に御鷹屋敷や下屋敷もありました。

 

日本各地からの献上品はかなりの数だったと
思われますが、中でも博多帯だけが
「献上」と呼ばれているのも不思議です。

 

他にもかつて献上品だったということから
現在でも「献上」という名前で呼ばれて
いるものはあるのでしょうか?

 

 

「南部坂」の左側が福岡藩黒田家の中屋敷でした

 

 

 

紀州徳川家 忍冬酒

博多藩黒田家の献上帯の他に、各大名家がどのような
ものを献上していたかといいますと、紀州徳川家は
「みかん」や「忍冬酒(にんとうしゅ、にんどうしゅ)」
を献上していました。

 

紀州徳川家がみかんというのは頷けますが、「忍冬酒」と
いうのはスイカズラの葉と茎を焼酎に漬け込んだお酒だと
いうことで、デトックス効果があるとされています。

 

家康が長寿を全うしたのも、「忍冬酒」を飲んでいた
のが一因だったともいわれていますので、徳川家に
とってはお馴染みのお酒だったのかもしれません。

 

 

 

 

 

薩摩藩島津家 琉球泡盛

お酒の献上品では薩摩藩島津家の「琉球泡盛」も有名。
琉球で作っていた泡盛を薩摩藩でも作るようになり1671年
に将軍家へ献上された時に「泡盛」の名がつけられました。

 

当時の琉球泡盛は薬でもあったようで、江戸時代の
1672年の『和漢三才図会』には「琉球及び薩摩の泡盛酒
は、みなこの国の焼酎で、気味ははなはだ辛烈にして、
痞(つかえ)を消し、積聚(しゃくじゅ)を抑えて、
よく湿を防ぐ」とあります。

 

何に効果があるのかについては、現代人にはちょっと
わかりづらい表現ですが、「痞(つかえ)」とは胸の
つかえのことで、「積聚(しゃくじゅ)」はお腹の
かたまりで胃痙攣や差し込みなどの腹部の急な痛みを、
「湿」とは湿り気や疥癬といったことのようです。

 

その他、刀傷の消毒にもよいということで、徳川家康は
娘の嫁入りに泡盛の壺を持たせたともいわれています。

 

 

 

 

 

高遠藩と諏訪藩 お蕎麦

お蕎麦は、現在でも蕎麦の名産地とされて
いる9藩から献上されていました。

 

夏用の土用そばとしては、信濃国伊那郡の高遠藩
(保科家→鳥居家→内藤家)と、同じく信濃国諏訪郡
の諏訪藩(日野原家→諏訪家)の2藩が献上。

 

たかがお蕎麦と侮ることなかれ、
お蕎麦とはいえ当時としては、高い技術を
要したかなりの高級品だったということです。

 

 

 

 

 

一年の月日が作り出す味

秋に収穫したそばの実を袋に入れて、寒中、大寒から
立春にいたるまでの極寒期に冷たい清流に浸した後、
引き上げて戸外の天日と寒風にさらして
約1ヶ月間乾燥させ、夏まで熟成させる、

 

といった時間をかけてゆっくり熟成させたお蕎麦。
この蕎麦の実の、中心の部分を取り出して打つ
お蕎麦は、アクも抜けてすごぶる舌触りがよく
甘みさえ感じるといいます。

 

また色も普通のお蕎麦の色ではなく純白で、
これは茹でても変わることはありません。
コシのある食感を含めて、特別なお蕎麦といえそうです。

 

 

 

 

 

会津若松藩 氷餅

このように寒さを利用して作るものには
会津松平藩(保科家)から献上された「氷餅」と
呼ばれるものがありますが、これはお餅を水に浸して
凍らせたものを、寒風に晒し乾燥させた保存食。

 

「干し餅」、「凍み餅(しみもち)」、
「凍み氷(しみごおり)」ともいうそうですが
これもやはり寒冷地の水と風を利用しているのですね。

 

会津藩松平家(保科家)の献上品はこの他に
「蝋燭(ロウソク)」、「マツタケ」があります。

 

 

 

 

 

加賀前田藩 氷献上

氷餅ではなく、実際の「氷」の献上品もありました。
これは加賀前田藩からのもので、領地で取れた雪を
江戸に運び、駒込の江戸屋敷に大きな穴を掘って
蓄えておき献上したそうです。

 

献上氷は、加賀藩3代藩主・前田利常の頃から始められ、
14代将軍・家茂の幕末に至るまで続けられました。

 

前田家は加賀の犀川上流や場内に氷室を持ち、天然の氷を
筵と笹の葉で何重にも包み、かつそれを二重の桐でできた
長持ちに納めて、昼夜休むことなく江戸屋敷まで運搬。

 

献上日は毎年6月1日、といってもこれは旧暦ですので、
現在では7月上旬から中旬にあたり本当に暑い時期です。
この「御雪おゆき献上」という行事を江戸庶民も楽しみに
していたそうですが、その気持ちわかりますね。

 

 

 

 

 

処分をした献上の帯

ところで最初に書いた、小学校に上がる前から
使っている私の献上の帯ですが、なんとも物持ちが
いいことに、実は今でも使用しています。

 

もう数十年の月日が経っていますので、帯の白地の部分は
とうの昔に黄ばんでしまい、処分しようと思っていました。

 

これを書いていて思い出しましたが、お稽古用にしていた
帯は、白地に赤の献上だけではなく、オレンジ色と黄緑色
の帯と、全部で3つの献上の帯がありました。

 

同じ時期に、母は博多献上の名古屋帯を浴衣などに
締めていて、質としては母のものが一番よかった
のでしょうが、その帯とオレンジ色と黄緑色の
ものは処分してしまい、今はありません。

 

 

 

 

 

今も手元に残る献上の帯

オレンジ色と黄緑色の献上は、半幅帯ではありましたが
白の献上とは異なり、大人用の普通のサイズでした。

 

ですから考えてみれば、変色をしてしまった白の献上帯が、
サイズ、色ともに一番不要な品ではあるはずですが
おかしいことに実際はそれだけが現在も手元にあります。

 

白の地の部分の黄ばみがあまりにも酷いので脱色をして、
その後に桃色に染め、今でも普段着に時々締めています。

 

なぜこの帯だけは処分できなかったのか、
我ながら何とも不思議な気がします。

 

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