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日本の磁器作りの始まり
日本初めて磁器が焼かれたのは
1610年代の肥前でした。
磁器を作るには磁器用の鉱石がなければ
できませんが、それを金ヶ江三兵衛が
有田泉山で発見したのです。
朝鮮名・李参平の金ケ江三兵衛は、豊臣秀吉
の朝鮮出兵(1592年・文禄元年、1598年・
慶長3年の文禄・慶長の役)の際に鍋島軍に
よって連れてこられた朝鮮人陶工。
彼が有田泉山で見つけた白磁鉱を用いて
磁器焼成に成功したのは、1616(元和2)
年頃のことといわれています。
(江戸時代は有田泉山の「泉山鉱石」で
作られていましたが、現在では熊本県
天草地方の「天草鉱石」を使用しています)
1644年に、中国磁器の輸入が途絶えたことに
より、藩の重要な献上品であった中国磁器が
手に入らなくなった佐賀藩鍋島家は、質の
高い磁器を作るべく藩窯を作ります。
ここで作られたのが、販売目的ではなく
将軍献上を主目的とする最上級の焼物である
「鍋島焼(有田焼、伊万里焼)」でした。
青磁から染付へ
それ以前の日本で最も高級な焼物とされていた
のは、江西省景徳鎮から輸入した中国磁器でし
たが、15世紀までは緑色や青の釉薬がかかった
「青磁」と呼ばれるものが主なものでした。
その後、呉須を使って藍色の模様を描く「染付
(中国では青花磁器)」が作られるようになり
16世紀になると、こちらの方が主流となります。
中国磁器は日本の大名などにも人気で、
競うようにして買い求めたであろうことが
各地の城跡からこれらの、中国磁器が
多く発掘されることからもわかります。
「色絵魚介文鮑形鉢〔天啓赤絵〕」 明時代
17世紀前半 幅27.0㎝(写真/「日本民藝館」)
また日本だけではなくヨーロッパへも
ポルトガルやオランダなどが大量の
景徳鎮の磁器を運んでいました。
それまで陶器しかなかったヨーロッパ
でも、磁器は魅力的に映ったのでしょう。
王侯貴族が競うように買い求めます。
しかし景徳鎮の高価な染付磁器を購入できるの
は、ほんの一握りの権力者に過ぎなかったため
より安価な磁器が福建省南部の青洲窯で作られ
日本にも入ってくるようになりました。
「染付山水図大鉢(そめつけさんすいずおおばち)」
初期伊万里 江戸 重要文化財
(写真/「文化遺産オンライン」)
肥前では色絵が焼けない…
そのような中、朝鮮人陶工の手により肥前で初めて
磁器が作られるようになったのが1610年代のこと。
この頃のものは景徳鎮の磁器に比べて厚手で
あり、「初期伊万里」と呼ばれています。
1630年代には青磁も作られるようになりました。
これらは1300度以上の高火度で焼く磁器
ですが、まだ赤や緑、黄色などの多彩な
色絵はありませんでした。
景徳鎮の中で最も価値のある磁器とされて
いた色絵は、景徳鎮に続いて作られた
福建省南部の青洲窯でも作られるように
なり、ベトナムへも伝播していました。
ところが朝鮮では色絵は焼かれていなかったため
朝鮮人陶工の手によって作られるようになった
肥前磁器は、色絵を作ることができなかったのです。
「染付」作りの工程
ここで少しだけ磁器の作り方を説明しますと
呉須を使って藍色の模様を描く「染付」の場合は
以下のような工程で作られます。
*1 粘土で形を作る
* ↓
*2 素焼きをする
* ↓
*3 呉須で絵を描く
* ↓
*4 透明な釉薬を掛ける
* ↓
*5 本焼きをする(1300度)
「釉薬(ゆうやく、うわぐすり)」とは、
灰や土などを水に溶いたもので、これを器に掛けて
焼くと、表面がガラス状のもので覆われます。
「色絵蓮池翡翠文皿」 江戸時代 17世紀中期
径36.4㎝(写真/「日本民藝館」)
「色絵」作りの工程
それに対して色絵の場合は、5までは一緒
ですが、それ以降に色を使って絵を描いて
もう一度焼く工程が加わります。
*6 様々な色で模様を描く
* ↓
*7 上絵焼成(800度前後)
というように、色絵を描いた後にもう一度、
焼成するのですが、本焼きの1300度とは
違って800度ほどの低火度。
低温で焼き付けることにより顔料が美しく発色します。
1646年に色絵が完成
1644年に中国磁器が日本に入らなくなり
鍋島焼を作るために、鍋島藩が自ら
藩窯を作ったのが1650年代とされています。
そのような中で1646(正保3)年、日本の色絵磁器
作りに初めて成功したのが初代・酒井田柿右衛門です。
伊万里の陶器商人だった東嶋徳左衛門(とうじま
とくざえもん)が長崎の中国人から色絵の秘術を
教えてもらい有田の柿右衛門に伝えました。
当時、年木山(としきやま)にいた初代・柿右衛門
の酒井田喜三右衛門(さかいだきざえもん)は
教えてもらった色絵を試してみたのの、最初は
ななかなか思うようにいかなかったようです。
呉須権兵衛(ごすごんべえ)と共に工夫を重ねて
中国から技術を導入した後、柿右衛門は
1646(正保3)年に色絵を完成。
色絵(赤絵)の技術は急速に有田と
その近辺に広まっていきました。
「色絵荒磯文鉢」金襴手 江戸時代 18世紀
根津美術館蔵(写真/「根津美術館」)
柿右衛門様式
中国の輸出禁止により景徳鎮の磁器が手に
入らなくなったヨーロッパへ、それにかわる
ものとして、有田の磁器がオランダ東インド
会社により輸出されるようになります。
中でも柿右衛門の色絵(赤絵)は
大人気で、1670年から1690年代にかけて
「柿右衛門様式」は大流行しました。
赤や金色を多用した豪華な色絵は、中国の
明の時代に「金襴手(きんらんで)」と呼ば
れた様式をお手本としたもので、現在は「
古伊万里様式」と呼ばれているものです。
18世紀になるとヨーロッパ各地の窯が「柿右衛門
様式」を真似た焼物をつくるようになりました。
オランダのデルフト、ドイツのマイセン、
フランスのシャンティーなどの
「柿右衛門写し」は有名です。
将軍の「鍋島」、王侯貴族の「柿右衛門」
肥前藩鍋島家を始め国内の大名家からも
注文を受けていたとはいえ、柿右衛門は
やはりヨーロッパで絶大な人気を誇った磁器。
鍋島と柿右衛門について
大橋康二氏は次のように述べています。
「日本の磁器で最も昇華された双璧が
*鍋島と柿右衛門である。
*鍋島が将軍のために作られた磁器であるのに対して、
*柿右衛門は欧州王侯の求めでできたともいえる。
*つまり、鍋島は将軍献上を主奥的とした
*日本人の美意識に基づくのに対し、柿右衛門様式は
*欧州王侯の求めで出来上がったために、ヨーロッパ人
*の美意識が強く反映されたものと考えられる。」
* (大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」雄山閣)