中国・日本・ヨーロッパで初めて磁器が作られた時

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磁器はどこで、いつできたのか?

人類は粘土などを用いて焼成するやきものを
紀元前2万年以上前から作っていました。

 

中国南部の遺跡から発掘されたものが
現在のところ最古のものといわれていますが
生活上必要なやきものは、各地で様々に
工夫を重ねて作られたに違いありません。

 

なかでも特に人気の高かったのが白い磁器です。
白磁が中国、日本、ヨーロッパのどこで、
いつ作られ、また輸出されるようになった
のかを簡単に表にまとめてみました。

 

 

 

 

 

〜中国〜

_______________________
紀元前7000年頃  陶磁器の製造が始まる
_______________________
2100   夏
_______________________
1600   殷
_______________________
1027   周
_______________________
770 春秋時代
_______________________
403 戦国時代
_______________________
221  秦      始皇帝の兵馬俑


______________________
202 漢(前漢)   磁器が作られ始める
これ以降、A.D.
______________________
8     新
______________________
23   後漢         景徳鎮で陶磁器の生産が始まる
______________________
220 三国時代
______________________
255  普(西普)
______________________
304〜 五胡十六国時代
______________________
439  南北朝時代
______________________
589  随        華北地方で白磁生産
______________________
618  唐      南部は青磁、北部は白磁
         唐三彩が作られる

唐三彩「馬」京都国立博物館所蔵

_______________________
907  五代十国時代
_______________________
980  宋(北宋) 「昌南鎮」を「景徳鎮」と改める
_______________________
1115  金
_______________________
1234 蒙古
_______________________
1279 元        景徳鎮で「青花」技法誕生

「青花蓮池魚藻文壺(せいか
れんちぎょそうもんつぼ)
大阪市立東洋陶磁美術館所

_______________________
1368 明
_______________________
1644 清        景徳鎮で「粉彩」技法誕生

「粉彩梅樹文皿(ふんさい
ばいじゅもんさら)」
京都国立博物館所蔵

       内乱のため景徳鎮の磁器の輸出が禁止
               ↓
          1684年、磁器の輸出再開
_______________________

 

 

 

〜日本〜

_______________________
1610年     豊臣秀吉の朝鮮出兵時に鍋島軍に
       連れてこられた陶工・李参平に
       より時期が作られる

**      景徳鎮のものより分厚い
       この頃のものを「初期伊万里」
       と呼ぶ

「染付山水図大鉢(そめつけ
さんすいずおおばち)」

______________________
1630年代       青磁完成

鍋島焼「青磁染付桃文皿
(せいじそめつけもももんざら)」

______________________
1646年     柿右衛門が色絵「赤絵」を完成

「色絵花鳥文八角共蓋壺 」
出光美術館所蔵

_______________________
1650年     有田焼の輸出が始まる
_______________________
1652〜54年   鍋島藩窯を有田・岩谷河内に作る
_______________________
1661〜72年    〃  伊万里・大川内山に移転

鍋島焼「色絵宝尽文皿(いろえ
たからづくしもんざら)」
ロサンジェルス・カウンティ美術館所蔵

_______________________
1670年    「柿右衛門様式」 欧州に大量輸出
*|         中国・明時代の「金蘭手」を
1680年     お手本に赤や金色を多用した
       豪華な色絵「古伊万里様式」

柿右衛門様式「色絵花鳥文皿
(いろえかちょうもんざら)」

______________________
       (1684年に景徳鎮、輸出を再開)
1715年       磁器の海外輸出終了
______________________

 

 

 

〜ヨーロッパ 〜

______________________
1709年   マイセンでベトガーが白磁を完成

初期のマイセンの工場が
あったアルブレヒト城
(写真/Ostkreuz Berlin )

______________________
1719年   ウェーンでも完成
______________________
     これ以降、ヨーロッパ各地の
     窯が磁器を焼成
______________________

 

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中国磁器の歴史「景徳鎮」

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「青花蓮池魚藻文壺(せいかれんちぎょそうもんつぼ)」
景徳鎮窯 元時代 14世紀  重要文化財
大阪市立東洋陶磁美術館所蔵

 

 

磁器を初めて完成させた中国

陶磁器のことを英語で「China」「 Chaina  ware」と
呼びますが、これは陶磁器の製造が紀元前7000年頃
(新石器時代)の中国から始まっていることによります。

 

現存する最古の例としては、裴李崗(はいりこう)と
磁山(じざん)の遺跡から出土した紀元前
6000〜5000年を超える土器とされていました。

 

最近は、紀元前8000年を超える蘇生土器の例が、
江西省の仙人洞(せんにんどう)や、河北省の南荘頭
(なんそうとう)遺跡で発見されています。

 

(青屋昌興『川辺町風土記』南方新社 2006年では
河北省の南荘頭遺跡は1万800年前を記しています)

 

素材の陶土としては主に沈殿土が使われ、
強度や耐火性を高めるために砂粒や石灰粒、
雲母や籾殻、麦藁なども混ぜられていました。

 

成形技法は手捏ねが主なものでしたが、細くした
粘土を巻き上げたり輪積みをしたり、叩きや型作り等
で紀元前3000年頃には轆轤(ろくろ)のような
回転台もありました。

 

最初は、窯を使わずに野外に積み上げて焼く
「野積み」でしたが、半地下で焼く「横穴式」や
「縦穴式」も登場し、焼成温度は800度から
1000度くらいと考えられています。

 

作られたものは鉢や壺に盆、杯、碗、
釜等々多岐に渡ります。
また鳥をなど象ったり、線彫りや押印、透し彫りを
施したりというように装飾も加えられています。

 

 

彩文土器(彩陶)

 

 

 

彩文土器(彩陶)

紀元前5000年末から2000年の間には、
造形的に精巧で美しい、中国で「彩陶」と呼ばれる
「彩文(さいもん)土器」が発達しました。

 

器胎は赤い色をしていて、模様は赤や黒に
発色する酸化鉄の顔料が使われていて
成形に轆轤(ろくろ)は使用されていません。

 

 

卵殻陶(黒陶)の高柄杯
山東龍山文化の出土品

 

 

 

「黒陶」

彩文土器に続いて作られるようになったのが「黒陶」と
呼ばれるもので、酸化焔による赤い色の陶器に対して
還元焔でいぶして炭素粒子を付着させる褐色の土器。

 

紀元前2300年から500年にかけての代表的な土器で、
この時期に轆轤(ろくろ)による成形と、縦穴式の
窯が普及して量産が可能になりました。

 

と同時に技術的にも進歩して、三つの袋足を持つ
器など、多様な形が作られるようになります。
また器胎の厚みが、0.5〜1ミリほどの卵殻陶と呼ば
れる艶のある精巧かつ優美な土器も誕生しています。

 

 

三足土器

 

 

 

すでにカオリンを使用し「白陶」を作成

驚くべきことは「黒陶」と同じ時期に
「白陶」ができていること。
のちに磁器の材料となるカオリン(高嶺)土を、すでに
紀元前3000年〜2000年頃に使い白陶ができていました。

 

ただしこれは一般の生活に用いられたものではなく
人々が普段使うものは「灰陶」と呼ばれる土器です。
還元焔で作られる、紅い陶器よりも堅く実用的なもの。

 

紀元前1〜2世紀、中国の後漢の頃に
磁器が作られ始め、紀元6世紀にはほ現在の
磁器と同じものができるようになりました。

 

また磁器ではなく陶器ではありますが、秦の始皇帝の
兵馬俑(へいばよう)が作られたのが紀元前200年頃
ですので、やはり中国は驚くべき国ですね。

 

 

1974年に中国・陝西省で発見された兵馬俑
現在は8000体ほど発掘されていますがまだ発掘中
人形の精巧さはも凄いが、この制作に携わった3千人
もの人を別の穴に閉じ込めて殺したというのも……
( 参照/「World Travel」)

 

 

 

白磁と青磁

唐代に発達して宋代に最盛期を迎えた「白磁」と
「青磁」は、あわせて「宋磁」とも呼ばれています。

 

青磁は、鉄分を含む灰釉(木の灰を燃やして作る
うわぐすりのこと)をかけて焼成した磁器で
高熱で焼成されるもの。

 

明るい青緑色が一般的ですが、含まれる鉄の量により
黄色がかった緑から青まで様々色があります。

 

 

「青磁 瓶」龍泉窯 元時代(14世紀)  高27.6㎝
玉壺春(ぎょっこしゅん)と通称する下ぶくれの形の瓶
緑味を帯びた青磁釉がかかっている  芸州浅野家旧蔵。

 

 

 

世界が憧れた白磁

白磁は、6世紀後半から華北地方で焼き始められ
隋時代に生産が盛んになりました。

 

唐の時代は「南青北白」と呼ばれ、南部には青磁、
北部には白磁を焼く窯が多かったようです。

 

白磁は、鉄分の少ないカオリンと呼ばれる白い素地に、
不純物の少ない灰釉をかけ、高火度で焼成します。

 

灰釉は1000度以上の焼成で溶け、
ガラス質の皮膜となって表面を覆い、
耐水性や耐久性を高める役目を果たします。

 

 

「唐三彩馬俑(とうさんさいばよう)」
唐時代(8世紀) 高さ  71.2cm 長さ 82.5cm
(写真/「京都国立博物館」

 

 

 

唐三彩

唐代に作られた低火度で焼成する焼き物です。
陶質の素地に白化粧あるいは透明釉を掛けてから
緑色や褐色の鉛釉を加えて焼成します。

 

三色が混じり合って独特の文様を醸し出します。
8世紀前半に、主に副葬品として作られたため人物や馬、
ラクダ、家屋などをかたどったものが多く作られました。

 

三彩俑だけではなく、他の色や
金彩を施したものもあります。
王陵墓では1000体を越す俑が服装されたようですが
唐代後半になると俑の副葬は少なくなります。

 

 

景徳鎮(地図/「google 」)

 

 

 

景徳鎮 「良い土」と「薪」

11世紀の宋代に、景徳鎮で1300度の高温焼成による
美しい白磁が完成したといわれていますが、中でも有名
なのは千年の歴史を持つ「磁都」とも称される景徳鎮。

 

紀元1世紀の後漢時代から陶磁器の生産を始め、南北朝
の陳朝時代に大きく栄え、宋代には最盛期を迎えます。

 

鉄分の含有量が少なく、粘性や耐火度が高い「高嶺土」は
白磁作りに最適な原料ですが、景徳鎮は郊外に高品質な
「高嶺土」が算出される高嶺(カオリン)山がありました。

 

(後に、高嶺(カオリン)山の名前そのものが
高級磁器素材を示す「カオリン」になったほどです)

 

それに加えて、燃料用の薪(松材)にも
恵まれていた景徳鎮は、漢の時代から
磁器作りの町として栄えてきました。

 

 

 

 

 

「昌南鎮」→「景徳鎮」

江西省を流れる昌江の南に位置することから、当初は
「景徳鎮」ではなく「昌南鎮」と呼ばれていました。

 

宋代の景徳年間に宮廷献上用の陶磁器が生産され、
皇帝の真宗趙恒がこの磁器を気に入り
「景徳年製」と記すことを命じたことから
景徳鎮と呼ばれることになります。

 

景徳とは、真宗趙恒の治世で2番目につけられた年号で
西暦でいうと1004年 〜 1007年にあたります。

 

 

「青花蓮池魚藻文壺(せいかれんちぎょそうもんつぼ)」
景徳鎮窯 元時代 14世紀  重要文化財
大阪市立東洋陶磁美術館所蔵

 

 

「青花」「粉彩」

景徳鎮の絵付けの代表的なものとして「青花」と呼ばれる
技法がありますが、これは日本でいう「染付」のことです。
14世紀前半、元代後期に完成された技法。

 

白磁の素地にコバルトを含む原料で文様を描き、
透明な釉薬をかけて焼く、白いお皿に青で模様が
描かれている私たちにも最もおなじみのものです。

 

「粉彩(ふんさい)」と呼ばれる技法は、ヨーロッパの
無線七宝を技術を導入したもので、清代の康熙年間
(1662〜1722)に開発された上絵付けの技法です。

 

これにより色数が飛躍的に増加し,濃淡のぼかし
を生かした細密な描写が可能になりました。
上の「粉彩梅樹文皿」は宮廷用の特別のものです。

 

景徳鎮官窯で焼成した最も優れた白磁の皿を
北京に納め、これを紫禁城内の工房で選ばれた名工が
絵付けをし、低温で焼き付け完成したものだそうです。

 

 

「粉彩梅樹文皿(ふんさいばいじゅもんさら)」
景徳鎮窯 高さ44cm 口径 17.3cm 底径 10.8cm
清時代 雍正年間(1723-35年) 重要文化財
東京国立博物館所蔵(写真/「夜咄骨董談義」)

 

 

 

官民一体で世界の景徳鎮

景徳鎮には、元、明、清代には宮廷御用達の官窯が
おかれている一方、一般市場向けに日用雑器などを
作る民窯もありこれらも世界各地へ輸出されていました。

 

その需要はとどまることを知らず生産が追いつかない
状態になり、官民合同で製作をするようになります。

 

このことが、良い磁器原料と優れた技術を
民窯にもたらすことになり、結果として
景徳鎮自体の底上げがなされ世界でトップ
レベルの地位を確立して行くことになりました。

 

 

タイ王朝から景徳鎮に注文された特注品
「ベンジャロン」タイから景徳鎮に絵師を派遣して
景徳鎮で焼成したもの(写真/「壺謎」)

 

 

宋代に世界的に有名になっていった景徳鎮は
元代、明代にはその輸出先をペルシャ、トルコ、
アフリカ東海岸、日本へと広げていきます。

 

オランダやイギリスの東洋進出が始まると、西洋人
による輸入や注文が出されるようになって、相互の
技法やデザインの交流もみられるようになりました。

 

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マイセンが白磁作りに成功するまで

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マルコポーロが紹介した磁器

ヨーロッパに初めて磁器をもたらしたのは
イタリアの商人であり冒険家だった
マルコポーロだといわれています。

 

中国磁器の製作の様子が13世紀末に編纂
された『東方見聞録』に記載されています。

 

「磁器」を「ポーセリン(porcelain)」と呼ぶように
なったのもこの頃だそうで、タカラガイという意味の
「ポルチェラ(porcella)」からきているのだそう。

 

 

デルフト焼きの陶器のお皿
「ロイヤルデルフト」オランダ
(写真/「Holland + Flanders」)

 

 

 

白磁作りに挑戦

景徳鎮の磁器が中国の内乱により輸出禁止になった
1644年以降、それに代わるものとして日本の伊万里焼
(有田焼)がヨーロッパに輸出されるようになりました。

 

分厚い陶器しかなかったその頃のヨーロッパでは
白磁は「白い金」といわれるほどの人気を博し
王侯貴族は競うようにして求めたといいます。

 

しかし彼らとて「白い金」を愛で収集し
ただ眺めていただけではありません。
自ら作ってみようと思っていたのです。

 

 

柿右衛門様式「色絵花鳥文皿」

 

 

 

芸術好きの怪力王

磁器の有名な収集家に、ドイツのザクセン選帝侯
アウグスト強王(1670〜1733年)がいます。

 

「強王」という面白い名前は、彼が驚異的な
怪力の持ち主であったことからつけられ、
この他に「強健王(Mocny)」「ザクセンの
ヘラクレス」「鉄腕王」ともよばれました。

 

これらの異称を説明するために、素手で蹄鉄を
へし折るのを好んだといいますから、並の力で
ないのは事実のようですが、彼はまた芸術と
建築のパトロンとしても名を残しています。

 

東洋磁器の収集に熱心だったアウグスト強王は
アウグスト軍に属する兵士600人と、
プロイセン王所有の中国の壺 151 個と
交換したという逸話が残っているほど。

 

 

「色絵花鳥文八角共蓋壺 」沈香壺(じんこうつぼ)
柿右衛門  江戸時代前期  総高61.5cm
出光コレクション – 出光美術館

 

 

 

傾いた財政を立て直すための磁器工場

当時、ザクセンは財政難で喘いでいました。
アウグスト強王は、財政を立て直すために
磁器工場を作ることを計画し、ヨハン・
フリードリッヒ・ベトガー(1682〜1719年)
に磁器製作の研究を命じました。

 

ベトガーは、プロシア王のフリードリッヒから
金を作るよう命じられてできずに逃亡。

 

1701年にはザクセンのアウグスト強王からも
同じ命令を受けますが成功せずに投獄されます。
1703年にボヘミアまで逃亡するも
再逮捕されザクセンに送還。

 

その後、以前から磁器開発に取り組んでいた
エーレンフリート・ヴァルター・フォン・
チルンハウス(Ehrenfried Walthervon
Tschirnhaus  1651〜1708年)と共に1605年
磁器製造の研究を始めることになりました。

 

(チルンハウスは1675年からパリで白土を使用して
磁器焼成に成功していたという説もあります)

 

 

「ベトガー拓器(せっき)」
キャンディー入れ マイセン
(写真/「ユーロクライシス」)

 

 

 

ベトガー拓器(せっき)

白い磁器はなかなか完成しませんでした。
1707年に作られたのは、上の写真のような
赤茶色をしたストーンウェア「ベトガー拓器
(せっき)」とよばれるもの。

 

(もっともこのような赤色拓器は、すでに1677年に
デルフトのA・デ・ミルデが完成させています)

 

高さが 9.5 センチのキャンディー入れですが
これはベトガー時代のものを再現した製品です。
オリジナルは1711年に作られた茶入れだったそう。

 

これ以外にも、犬やウサギや馬などの動物の像、
メダル、お茶碗と茶托のような製品が
現在もマイセンで作られているようです。

 

 

マイセンのベトガーせっ器(拓器)「野うさぎ」
オリジナルは1933年、PAUL WALTHER

 

 

 

白磁の完成

鉱山資源に恵まれていたザクセン公国の
ベトガーの実験室には、あらゆる鉱物が
運び込まれ、実験が繰り返されました。
そして1709年、ついに白磁の焼成に成功。

 

マイセンの近くの良質な磁土、カオリン粘土7〜9
に対し、雪花石膏 1 で調合したものを1400度の高温
で焼成するという白磁の製法を見つけ出したのです。

 

(本当の東洋の白磁が完成したのは、雪花石膏媒溶剤
から長石と石英に至った1724年といわれています)

 

しかし念願の白磁完成のちょうどその頃、ベトガー
と共に製作に携わっていた、というよりベトガー
の30年も前から磁器製造の研究をしていた
チルンハウスが病で亡くなってしまいます。

 

 

マイセン(Meiβen)にある
アルブレヒト城(Albrechtsburg )

 

 

 

要塞のようなお城に工場を作る

白磁の完成という知らせを聞いたアウグスト強王
は喜びと同時に大きな不安に襲われました。
製造方法の秘密が外に漏れることを恐れたのです。

 

アウグスト強王は城のあるドレスデンから20キロほど
離れたマイセンの小高い丘に建つ、現在は主のいない
アルブレヒト城に磁器工場を作ることにしました。

 

15世紀末に建造された後期ゴシック様式
の重厚なアルブレヒト城は、自然の要塞
ともいえる堅牢なお城でした。

 

以後、150年間ここは、時期製造工場
として使用されることになります。

 

 

アルブレヒト城のベトガーの部屋

 

 

 

秘密の漏洩を防ぐための幽閉生活

ベトガーは1717年には染付磁器の焼成にも成功。
しかし、その技術が他に知られることを恐れた
アウグスト強王は、1719年にベトガーを
アルブレヒト城に軟禁してしまいます。

 

金属から金が作り出せなかったということで
牢獄に入れられ、磁器作りに成功したと
いっては秘密が漏れることを恐れて軟禁される
とは、あまりといえばあまり。

 

いくらお城の中とはいえ、軟禁状態ですので
いわば座敷牢のようなものですよね。

 

監視つきの実験室で、外部との接触を禁じられた
日々をおくるベトガーの心身は、次第に
アルコール依存症に蝕まれていきます。

 

ヨーロッパで初めて美しい白磁を作り出した人、
ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーは
わずか37歳という若さでこの世を去りました。

 

  (参照/「MEISSEN」「キリンビール大学」
           「ユーロクライシス」)

 

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