マンションの通路でお葬式をする家族

「あぷりのお茶会」へようこそ!

 

 

 

今日は、幽霊の話じゃないけどね

今日でお盆も終わります。
13日がお盆の入りで今日、16日がお盆明けですね。

 

一昨年の7月のお盆には、マンションのゴミ置場で私が
会った一家は幽霊だったのかもしれないという体験を、
「私が会ったのは……、幽霊? 存在しない居住者」

 

その2年前の8月15日には小学生の時に一緒に
暮らしていたイヌのお話をさせていただきました。
「死後にお別れを言いにきたイヌ『ペリ』」)

 

こうしてみると、お盆になると何とはなしにこのような
話をしてきましたが、今日は幽霊の話ではありませんよ。
でも、生きている人のお話でもないのです。

 

 

 

 

 

お隣に越してきた一家

その出来事があったのは今よりもう少し涼しい季節
だったと思いますが、とはいえ冬の寒い時期でも
なく、春か初夏の頃だったでしょうか。

 

当時、私が住んでいたマンションは1つの階に
十数軒が暮らしている外廊下式のよくあるタイプ。

 

建物はL字型に建っていて、「L」の字の縦の棒「 I  」と
横の「 _ 」がぶつかる部分にエレベーターがありました。

 

うちは「 _ 」の部分の一番右から一つ手前、つまり
うちの右の家が建物の端の部屋ということになります。

 

 

    □| |
    □|外|
    □|廊|
    □|下|____
    □|______|
        E   □□□□□● 

 Eはエレベーター がうちで、がお隣

 

 

お隣はマンションができた当初から、女性が一人で
お住まいでしたが数年後、54歳という若さで亡くなり
持ち主が移転して半年経つか経たないかといった頃。

 

今度のお隣さんは4人家族のようでした。
最初、家族構成の内訳は両親とすでに成人している
二人の子と思っていたのですが、どうも違ったようです。

 

男女2人ずつのきょうだいか、あるいは両親と男の子に
妻の妹が同居なのか、そのあたりはわかりませんでしたが
男女2名ずつで暮らしているように思われました。

 

私は、女性の一人暮らしだった前の住人の時に
そのお宅へ何度がお邪魔をしたことがありますが、
70㎡以上ある3 LDKですので、4人暮しも可能な広さです。

 

 

 

 

 

部屋の中と外廊下を隔てているのは窓ガラス1枚

わが家の間取りは、角部屋ではなく真ん中に挟まれている
もので、マンションの間取りとしてはよくあるタイプ。

 

玄関を入ると廊下があって、突き当たりはリビング、
リビングに接するように和室が一つありました。

 

玄関からの廊下を挟んで、両側に2つの部屋がある
という間取りも多いですが、うちは部屋は一つだけ
で、もう片方は大きめの収納という造りでした。

 

図が上手に描けなくてもうしわけないのですが
こんな感じでピンク色の部分がうち、緑色はお隣です。

 

 

______________
     ●●●● 外廊下
______________
 |    |玄関| | 玄関
 |    | |   (お隣の)
 | 部屋 ||  
 |    ||    |
 |    | |    |
       ↓
     リビング等

 

 

左にピンク色で「部屋」と書かれている部分が、外廊下
に接している玄関脇のうちの部屋で、外廊下に面して
窓があり、当然のことながら外の音はよく聞こえます。

 

考えてみますと玄関脇のこの部屋の窓のそばに
立っている時に、外廊下に人がいたとしたら、
ほんの数十センチ先に人がいることになるのですね。

 

そう考えると不思議な感じもして、ちょっと怖くも
ありますが、マンションとはそのようなものでしょう。

 

 

 

 

 

外がなんだか騒がしい?

そして問題の日がやってきました。
その日はお昼頃から、うちの玄関の前で
ざわざわと何やら人の気配がしていました。

 

実はその少し前にもお隣が、お風呂の取り替えと
思われる工事をうちの前でしていたことがありました。

 

うちのお隣は端だったこともあって、お風呂場工事の
作業は、お隣の玄関のドアの前というよりは
うちの玄関のドアと、先ほどのピンク色で示した
外廊下に面した部屋の窓の前ですることになります。

 

ですから問題の日に外で物音がした時も
また何かの工事をしているのか、あるいは
家具の搬入のために、一時的に外廊下で
作業をしている物音なのかと思っていました。

 

 

 

 

 

何人もの人がいる気配

ところがその物音はなかなか終わらないのです。
前回のお風呂場の工事の時よりもはるかに
長い時間が経っていました。

 

それだけではなく人の数も多くて、大きな話し声では
ないものの、かなりの人数がいることが伺えます。

 

しばらく時間が経過した頃に、一体、何が起きている
のかと様子を見るために、私は外廊下に面している
窓をほんの少しだけ開けてみました。

 

 

 

 

 

窓の少し先には……

わずか1,2センチほど窓を静かに開けてみると
そこには10人以上の人が立っていました。

 

幸いなことに、どなたも私が窓を開けた
ことに気づいていないようです。

 

窓の先にあるものを目にした時、最初はそれが
何なのか、私は全く理解できませんでした。

 

 

わかった瞬間、アッという言葉を
飲み込みながら、急いで窓を閉めました。

 

そこには青白い人の顔が……、
私が目にしたのは、亡くなった人の顔だったのです。

 

もう一度、先ほどの図を示してみましょう。
部屋から、マンションの外廊下に面している窓を開けて
みると、そこにあったのは「棺」が(●●●●)で
示した場所にあったのです。

 

 

______________
     ●●●● 外廊下
______________
 |    |玄関| | 玄関
 |    | |   (お隣の)
 | 部屋 ||  
 |    ||    |
 |    | |    |
       ↓
     リビング等

 

 

棺には、年配の男性が横たわっていました。
左側に頭があり、私の顔のほんの少し先に亡くなった
お隣の御家族の父親と思われる人の顔があったのです。

 

今考えてみましたら、左側は南なんですよね、
反対だと北枕なので、そうだったら私と顔が合うことも
なかったのに、などと今更のことを思ったもしましたが。

 

私はすぐに窓を閉めたものの思いもしなかった
成り行きに驚き、呆気にとられていました。

 

相手は亡くなっている方ですので、目が合う、という
ことはありませんでしたが、窓を開けてわずか
数十センチほどのところに棺があったのですから。

 

その上、本当に目の前に亡くなった方の顔が
あったとは、絶句というよりほかはありません。

 

 

 

 

 

狭い通路に置かれた棺

うちはごく普通のマンションでしたので
外廊下の通路の幅は、1メートルとちょっと、
あったとしても1,5メートルはないでしょう。

 

その狭い通路に、棺の頭の方をうちの窓の隣に、
足の方はうちのドアの前あたりに置いていました。

 

お風呂場の工事と違ってことはお葬式、
もし私が知らずに外出のためにドアを
開けていたら、どうなっていたのでしょう?

 

葬儀屋さんもいるようでしたので、その人が一言、
事前に言ってくれてもよかったのではないか
という気もしないでもありませんが。

 

 

 

 

 

家でお葬式をしない理由は?

しかし、それ以前に、家の外でお葬式をするなど
今まで一度も考えたことも聞いたこともありません。
しかも、お隣は6畳一間の狭い家でお葬式が
執り行えないというわけでもないのです。

 

また、たとえ部屋が片付いていなくて棺を置く場所
がなかったとしても、2時間もかからない間、
一つの部屋に荷物を積んでおくことも可能なはず。

 

廊下の1メートル幅の通路で、お葬式をしている
スペース分の広さを、家の中で作ることが
できないとは、とても思えませんでした。

 

 

 

 

お隣の御家族のうち、一番若い方にはお目にかかった
ことはありませんが、他の3人は50代から60代と思われ
今の若い人は……、という年齢でもありません。

 

何の心の準備もないまま、数十センチ程の位置で
亡くなった方の顔を目にするという驚きに加え、
父親のお葬式を外でするという
前代未聞の家族に、私は複雑な思いでした。

 

その時はうちにはうさぎの「あぷりしゅがぁ」が
いてくれましたので、棺の中の顔が目に入った後、
すぐ窓を閉めて、私はあぷりしゅがぁと
息を飲んで顔を見合わせていました。

 

 

 

 

 

色々面白かったマンションでしたが

そういえば、あぷりしゅがぁの前にうさぎの「ももち」
がいた時は、深夜の3時頃に知らない女の人が
ドアを蹴りながら叫んでいたこともありましたっけ。

 

「『なぜ人の家に入り込んでいるんだ、警察を呼ぶ』
とドアを蹴る、深夜に現れた見知らぬ人」

 

その人は、私が説明をしても、ハイヒールで
ドアを蹴るのを一向にやめる気配がなく
仕方なく警察に来てもらいました。

 

(といいますか、その女性が
「警察を呼べ!」と息巻いていたのですが)

 

 

 

 

考えてみると、色々と不思議な、普通はあまり
体験しないことがあったマンションでした。

 

通路でのお葬式があったから、というわけでは
ないのですが、ほどなく私は18年間住んだ
場所から越すことになりました。

 

入居する時は、一生暮らすつもりで
引っ越したマンションでしたが。

 

 

 

 

でも、まあ越したからこそ、このような話も
できるわけでして、まだ隣に住んでいたら
とてもブログには書けませんし。

 

何事も形ではなく心が重要だということに
異論はありませんが、それでもやはりマンション
の通路でのお葬式とは、お隣のお父さん、
ちょっと可哀想すぎる気がしますね。

 

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ネコやイヌまでをも供出させる戦争

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「氏家法雄 ‏@ujikenorio」2015年6月7日のツイート

2年ほど前の6月7日に、氏家さんという方が
このようなツイートをしていらっしゃいました。

 

「昭和17年の夏、役場から突然
『猫を供出せよ』とのお達し…
『アッツ島を守っとる兵隊さんの
コートの裏毛になるんじゃ』

 

『女の気持ち:私の猫』毎日新聞2012年8月3日付。
タバコ吸いにリビング横切ったらタマが起きた。
俺は絶対いややで。」

 

毎日新聞に掲載されていた「私の猫」と題する
戦時中にネコを供出させらるという経験をなさった方
の投稿を、お読みになった氏家さんが呟いた言葉です。

 

「おれは絶対いややで」。
兵隊さんのコートの裏毛にするためにタマを
供出するなんて絶対に、絶対に「いややで」
と思われたのでしょう。

 

このツイートに添えられていたのが、このネコの写真。
そう思ってみるせいなのかもしれませんが、タマちゃん、
単に可愛いというだけではなく、いかにも何かを
言いたげなちょっと戸惑ったような表情にも見えます。

 

 

タマちゃん(写真/氏家法雄さんのツイッターから)

 

 

 

「毎日新聞」2012年8月3日の記事

氏家さんのツイートにタマちゃんの写真とともに
添えられていた毎日新聞の記事「私の猫」はこちらです。

 

 私の猫

「昭和17(1942)年の夏、岡山に住んでいた。
役場から突然『猫を供出せよ』とのお達しがあった。
うちの飼い猫は、私が物心ついた頃から我が家にいた。
名前はタマという。

 

学校から帰り、『タマ』と呼ぶと、『ニヤッ』と
答えるだけで、いつもかまどのそばで丸くなり
寝ている老いた猫だった。

 

「猫をどねーするん?」。
役場の人に尋ねると、
『アッツ島を守っとる兵隊さんのコートの
裏毛になるんじゃ。
アッツ島は寒うてのう。零下40度にもなるんじゃ。
お国の役に立つんじゃ、めでたい』と言った。
そして次の日の昼までに役場に連れてくるように
指示して、帰った。

 

私は母に言った。
『山に隠そうや。お墓の裏なら、誰にも
見つからんで……』。
しかし、母は首を横に振った。
『そねーなことをして見つかったら大事じゃ。
憲兵に連れて行かれる。軍のお達しじゃ、
聞かないけん』と言い返してきた。

 

私は泣きながら、近所の神社へ走った。
神社には大きな杉が6、7本あり、南側は川だった。
そこはどこからも見えないので、大声で泣いた。

 

『タマは殺されるんじゃ。
毛皮にされるんじゃ。可哀そうじゃ』。
升で量りたいほど涙が出た。
顔が腫れていた。

 

夕方、家に帰ると、タマはもういなくなっていた。
私のいない間に父が連れて行ったようだった。

 

アッツ島で日本軍は玉砕している。
私の猫はどうなったのだろう。
夏休みの時期になると思い出す。

         大阪府八尾市 主婦 79歳」

 

 

 

 

 

私の主治医の体験

何度見ても悲しすぎる毎日新聞の記事を読んで
私は同じような話を思い出しました。
かなり前に歯医者さんで聞いた話です。

 

こちらはネコではなくシェパードの
「ミラー」というイヌでした。

 

この話をしてくれた歯医者さんの父親も
歯科医で、ミラーという名前は診察の際、口の中に
入れて歯をみる鏡「ミラー」からつけたそう。

 

 

写真は本文とは関係ありません
草むらで保護されたイヌの
シーズー犬は子猫を守ってました

 

 

 

当時、5歳になったかならないかという年頃の
私の主治医は、毎日新聞に投稿していた女性より
少し年下と思われますが、今でもミラーのことが
心に大きな傷として残っているようです。

 

私自身はイヌやネコの供出の話は、その時に
初めて知って憤りや悲しみは感じましたが
それ以前に不思議な気もしました。

 

お寺の鐘などの金属類を供出させた話は
前に聞いたことがあります。

 

でもコートの裏毛のために、ペットのネコやイヌの
毛が必要なんて一瞬、信じられなかったのです。
まさか、そんなこと……、と。

 

 

 

 

 

「 NHK 北海道  NEWS  WEB」2017年8月11日

ですが残念ながらこの信じがたい酷いことは事実です。
昨日の「NHK  NEWS  WEB」にこのような
記事がありました。
「戦地に姿を変え送られた犬やネコ」(北海道 NEWS WEB)

 

この記事によりますと、イヌやネコの毛をコートの裏毛に
使用する取り組みは、北海道が全国に先駆けておこなった
ものでその後、全国に広がっていったということです。

 

北海道内では、1944(昭和19)年から人々に
供出を呼びかけ、終戦までにおよそ7万匹の
イヌやネコが処分されました。
この数は、あくまでも北海道内のみでの数字です。

 

 

 

 

そうして供出されたイヌやネコが、次にどのように
なるかを目撃した人の動画もつけられていました。
加藤光則さん、83歳の体験です。

 

当時10歳だった加藤さんは、後志の共和町に住んで
いましたが、学校からの帰り道で、皮を剥ぎ取られた
イヌやネコが積み上げられているのを目撃します。

 

「イヌやネコが雪の中に毛皮になって、丸裸になった
やつは片側にずっと分けて積み上げてある」という
加藤さんの次の言葉が最初、私には理解できませんでした。

 

 

 

 

「生きたまま血だらけで逃げたのは今でも目に
焼き付いている」という言葉なのですが、何度か
その部分を再生し、また文章を読み返すことでやっと
私は理解することができたのです。
このむごすぎる文章の意味が。

 

「毎日の生活の家庭の中に直接戦争が入り込んでくるんだと。
鉄砲の弾が飛んでくるとか爆弾が落ちるという形で入って
くるんじゃないんです」と語る加藤さん。

 

 

 

こちらは、目の見えない友達(左)を助けるイヌ

 

 

この動画には、供出の経緯について調べている
地域史研究者の西田秀子さんも出ています。

 

「撲殺されて毛皮にされて兵隊さんの防寒着になったり、
帽子になったりして戦場に姿を変えていくわけなん
ですけど、それが実際のリアルな戦争の姿ですよね。
その状況っていうのは想像してみなきゃならない。
そのために、体験者の話を実際に聞き取ってみなさんに
伝えていくことが私の仕事じゃないかと思っています」

 

と西田さんは話していました。

 

 

 

 

日常生活に戦争が入り込んでくることの恐ろしさ、
実際のリアルな戦争のむごたらしさ……。

 

それを私たちが実際に体験しないようにするには
何をしたらよいかを考える段階も過ぎて、今は
もう実際に行動する時期が来ているのかもしれません。

 

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オランダ東インド会社(V O C)

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

 

 

独立戦争後にスペインが貿易禁止命令

現在はベルギーに属するアントワープの地に、イタリア
から陶工がやってきてマジョリカ焼を広めていた時、
オランダではスペインとの独立戦争が始まりました。

 

アルプス以北における最大規模の都市だった
アントワープは、多くの外国商人が居住し、
胡椒やシナモンなどを積んだポルトガル船が
日々、荷を降ろすといった賑わいをみせていた港。

 

しかし独立戦争の騒乱を避けようとした陶工たちは
次第に他の地に移って行き、マジョリカ焼の中心地
は、アントワープからハールレム、デルフトへ
移ることになります。
「『デルフト焼』と日本の意外な関係」

 

 

A「アントワープ」→H「ハールレム」→D「デルフト」

 

 

 

戦争の結果、1581年にオランダはネーデルランド
連邦共和国となる独立宣言をしました.

 

一方、スペインは1585年、オランダとの貿易の
全面的禁止とオランダ船拿捕の命令を出します。
これはポルトガル船から拿捕されることを意味します。

 

何故ならば当時のポルトガルは、1580年から
スペインのフェリペ2世を国王とする同君王国で
事実上スペインに併合されていたからです。

 

 

 

スペインとポルトガル船からの拿捕の危機

この結果、リスボンやアントワープに入港する
ことができなくなったオランの商人たちは
アジアの香辛料を手に入れる術をなくします。

 

オランダ人が、1602年と1604年にポルトガル船を
拿捕し、積んでいた10万点あまりの中国磁器を奪った
「『デルフト焼』と日本の意外な関係」)との事実に

 

なんと手荒なことを!と驚きましたが
それはこのような理由があったから。
オランダ船は、アジアの海でボルトガル船に
対して、公然と海賊行為を行なっていたのです。

 

 

 

 

 

1596年、ジャワに到着

リスボンやアントワープに入港できず、またスペイン
とポルトガルに拿捕される危険性があったオランダ
商人は、香辛料を直接手に入れることを考えます。

 

最初は北極海を抜ける北回りでアジアに行く
ことを試みましたが、あえなく失敗。

 

1596年に、希望峰周りでアジアに向かった
4隻の船がポルトガル船に見つかることなく
ジャワに到着すると、続けとばかりアジア
貿易を目指す会社ができはじめます。

 

 

 

 

 

 

各国にあった「東インド会社」

これらの会社が統合されて「東インド会社」になるの
ですが、東インド会社と名乗るものはオランダだけでは
なく、イギリスやデンマーク、フランス等にもあります。

 

「オランダ東インド会社」「イギリス東インド会社」
「デンマーク東インド会社」「フランス東インド会社」
というように。

 

「東インド会社」は西洋がアジアと貿易をするために
作った会社で、世界初の株式会社といわれています。

 

オランダ東インド会社が主に扱ったのが香辛料で、
イギリス東インド会社は綿織物でした。

 

 

 

 

 

 

「インド」とは「アジア方面」を指す

「東インド会社」という名前が紛らわしいのですが、
これはインドが作った会社でも、インドのみを貿易
相手とする会社でもなく、「インド」という言葉が
指すのは「アジア方面」という程度の意味です。

 

南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海にある群島に
「西インド諸島」がありますが、これはコロンブス
が、そこがインドだと勘違いをしたことから名づけ
られたものですし、アメリカ大陸の人々も
「インディアン」と呼ばれましたしね。

 

というわけで東インド会社の「インド」も
コロンブスのアバウトすぎる間違えからきた
名称だと思われ、それは「地中海から東の方」
や「アジア」を意味しています。

 

 

 

シナモン(桂皮)スティック

 

 

 

「西インド会社」は「アメリカ方面」

オランダの東インド会社は、希望峰から
マゼラン海峡までの、アジア地域の
商業活動を行う特許を持っていました。

 

ちなみに「西インド会社」もありましたが
この場合の「西インド」とはアメリカ大陸のこと。
超ヨーロッパ中心主義ですね。

 

とはいえこの理由は差別意識ではなく無知からきた
もので、あとで勘違いに気づいた後も、名称として
定着していたために変更しなかったのかもしれません。

 

 

 

シナモン(桂皮)の木

 

 

 

1602年設立の「V・O・C」

当時は、アジアと貿易をしよう思っても、リスクが一杯。
嵐などの天候の問題や、海賊の心配もあります。
そして何より莫大な資金も要します。

 

そのため出資者を募って、その資金で貿易をしようと
考えましたが、同じような考えから、いくつもの会社が
しのぎを削って競争するというのもまた問題があります。

 

ということで、政府から貿易をする独占権を得ること
になり、オランダは1602年、貿易政策としていくつか
の会社を統合して「東インド会社」としました。

 

東インド会社の正式名は「連合東インド会社
(Vereenighde OostIndische Compagnie)」。
略称を「V O C」です。

 

 

 

セイロンシナモン(桂皮) スティックとパウダー

 

 

 

「17人会」

正式な本社はありませんでしたが、アムステルダム、
ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、
ゼーラントの6支社から構成され、

 

アムステルダム支社の出資額が最も多かった
ことから事実上、本社の役割を果たしました。

 

大口出資者の76名が重役となって、そのうちの
17人で取締役会を作り、会社の経営方針をを決定。

 

17人会には、条約締結や戦争の遂行、要塞の構築、
貨幣の鋳造などの権限が与えられています。

 

 

 

 

 

 

植民地経営会社

と何やら物騒な権限が並んでいますが、海賊及び他国
の妨害も考えられることから、会社とはいえ「軍隊」
も持ち、必要とあらば戦争も厭いませんでした。

 

またその際に、いちいち本国に問い合わせるのも
大変ですので「外交交渉権」をも併せ持ち
その上、現地の統治も任されています。

 

つまり東インド会社とは、貿易商社というよりは
「植民地経営会社」だったというのが実態です。

 

 

 

 

 

 

日本との貿易を独占

希望峰からマゼラン海峡までの貿易独占権を得て
1619年には現在のジャカルタであるジャワ島の
バタヴィアに東インド総督の拠点を置きました。

 

ポルトガルやイギリスを抑えて
東南アジアの香辛料貿易に成功し
台湾、スリランカ、マラッカなども占領。

 

1609年からは日本の平戸に商館を置き
生糸や銀を中心として交易も行ない
1639年以降はヨーロッパ諸国の中では唯一
日本との貿易を独占することになります。

 

 

 

「染付芙蓉手大皿」江戸時代 伊万里焼
高さ6.4cm 径39.5cm 神戸市立博物館所蔵
(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

東インド会社の注文品

上の写真は、有田の伊万里焼で作られた芙蓉手の
お皿ですが、中心に「V」と、さらにその左右に
「O」と「C」がデザインされています。

 

これはオランダ東インド会社(V O C)の注文
によって作られたものと考えられています。

 

それまで磁器生産の中心だった中国が内乱で輸出禁止に
なったことから、それに代わるものとして有田で作られ
るようになったのがこのようなお皿だということです。

 

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