「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!
「振袖坂」とは対照的な「仙台坂」
二の橋から続いている「日向坂」の別名が「振袖坂」
という名前だったことから、私は勝手に「振袖坂」の
名は「仙台にある同名の坂から来たものではないか」
との妄想を書いたことがありました。
「振袖坂(日向橋)」のほんの少し先には
「仙台坂」があります。
「仙台坂」の名前の由来は、仙台藩伊達家下屋敷
があったことから命名されたものです。
下の江戸時代の地図では、水色の「・・・」で
囲ったところが、仙台藩伊達家(松平陸奥守)
下屋敷の場所。
水色の線「———」が「仙台坂」です。
ピンク色の線が「———」が「振袖坂(日向坂)」
ですが,「仙台坂」の高低差や長さに比べて
やさしい穏やかな坂です。
「・・・」で囲んだ部分が仙台藩伊達家下屋敷
「———」が仙台坂 「———」が振袖坂
現在は韓国大使館
下の写真を撮ったのは、「仙台坂」の左端。
左端が一番高くて、右に向かって下り坂になっています。
元麻布1丁目と南麻布1丁目の間を通る
「仙台坂」は、かなり長くて傾斜もある
大藩の仙台藩に相応しい坂然とした坂。
この写真の場所から少し下った右側には
現在、韓国大使館があります。
本当は韓国大使館の写真も撮りたかったのですが
入口に警察官(警備員?)が棒を持って
立っていたので、撮りそびれてしまいました。
実はその時、財布を落としたのに気づいて
韓国大使館の前を2往復、行ったり来たりと
ウロチョロしていて不審者と間違えられないかなと。
最初の上屋敷は外桜田
ここ麻布にあった仙台藩伊達家の屋敷が、下屋敷だった
ことは間違いないようですが、実は屋敷の上中下の呼称と
数、場所は江戸時代を通して、一定ではなく変化して
いるので、とてもわかりにくいのが実情です。
仙台藩伊達家の最初の江戸屋敷は、1601(慶長6)年
に、徳川家康から外桜田に与えられたもので
1661(寛文元)年まで上屋敷として使用されていました。
江戸初期の段階では4カ所だった、仙台藩伊達家の
江戸屋敷は、幕末には7カ所に増えています。
1841(天保12)年に幕府に提出した仙台藩の記録
上屋敷 25,819坪
芝口3丁目(港区東新橋1丁目 旧JR汐留駅構内)
中屋敷 10,842坪
愛宕下(港区西新橋3丁目)
下屋敷(1) 21,293坪
麻布(港区南麻布1丁目 韓国大使館周辺)
下屋敷(2) 2,134坪と借地1,006坪
品川大井(品川区東大井4丁目)
下屋敷 (3) 16,680坪と抱地5.990坪
大崎袖ヶ崎(品川区東五反田3丁目)
蔵屋敷 5,396坪余預地50坪余
深川(江東区清澄1丁目)
*
* (「江戸に仙台を見る」)
1702(元禄15)年12月15日の早朝
1841(天保12)年の記録にある上屋敷は、最初に
賜った外桜田の屋敷とは異なり、1641(寛永18)年に
幕府から与えられ、1676(延宝4)年以降、幕末まで
上屋敷として機能した「浜屋敷」と呼ばれるものです。
この仙台藩伊達家の「浜屋敷」の表門前に
1702(元禄15)年12月15日の早朝に
赤穂義士の一団が通りかかりました。
本所の吉良邸の討ち入りを終え
主君の浅野内匠頭の墓所である
高輪泉岳寺へ向かう途中の赤穂義士たちでした。
仙台藩士は赤穂義士を呼び止め
お粥をふるまったといわれています。
この時のお米は、うるち米を蒸して乾燥させた
「干し飯(ほしいい)」と呼ばれる軍糧(ぐんりょう)
として作られていたものでした。
軍糧(ぐんりょう)とは、軍隊の食料、兵糧
(ひょうろう)のことで、仙台糧として特定の
製造所で作られていた特産品だったとか。
「干しいい」は「糒」という、見たこともない
難しい漢字ですが、「干し飯」は「ほしめし・
ほしいい」といわれたお米で作る保存食。
仙台藩士が赤穂義士に、干し飯で作られた
お粥をふるまったと聞いた時に
私は最初、不思議な気がしたものでした。
なぜわざわざ、あのような乾燥して
かたいもので作ったのだろうと。
「あのような」とはいえ、私は干し飯を実際に
見たことはないのですが、炊いた御飯を乾燥させ
カラカラにしてあるもののようですので。
などと考えていたら、思い出しました、
大昔に読んだ『伊勢物語』を。
「乾飯の上に涙おとしてほとびにけり」
「昔、男ありけり」の在原業平が京から東に
下る途中、カキツバタの花が咲いていたことから
「カキツバタ」の5文字を入れて句を詠みました。
「から衣 きつつなれにし つましあれば
* はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ」
(着慣れた唐衣のように、親しんだ妻を
都に置いてきて、カキツバタの花を見ると
はるばる来たのだなあとしみじみ思う)
という句ですが、これを聞いたその場の皆が
悲しさで涙を落とすと、食べていた乾飯
(かれいい)がふやけてしまったというお話。
「仙台藩特製 干し飯」
この時代の人はよく泣いたようですが、本当に
そんなに泣いたの?というのは今回は置いておき
乾飯(かれいい)がほとびる、柔らかくなり簡単に
柔らかく、食べられるようになるということですよね。
今の私たちが想像する以上に、お湯さえ用意すれば簡単に
お粥に変身する、インスタント食品なのかもしれません。
赤穂義士たちがお粥が出来上がるのを広間で待つ
などということはありえませんから、本当に
あっという間に用意することができたのでしょう。
つまり長期保存が可能で、かつすぐに
食べられる食品ということなのでしょう。
仙台市の『東京に残る正宗公ゆかりの地』に
よりますと、「仙台糧として特定の製造所で
作られていた仙台藩の特産品」なのだとか。
自慢の特産品であり、現代だったならばさしずめ
特許取得の「仙台藩特製 干し飯」、
防災バックの必需品だったかもしれませんね。
表高62万56石4升4合、実高は支藩であった
一関藩を含めて、18世紀初頭には100万石を超えていた
という、さすが諸藩のなかで、第3位の石高を
誇る仙台藩伊達家だけあります。
真冬の早朝に思いもかけない、温かいお粥を
用意してくれた、仙台藩士のあたたかな心遣い。
赤穂義士たちには、これ以上ない美味
に感じられたのではないでしょうか。