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大名の江戸藩邸
今日は江戸切絵図に、マークのように
記された「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」
についてのお話を少々。
各大名がこのようなお屋敷を江戸に置くよう
になったのは、徳川3代将軍・家光によって
参勤交代が制度化されてからのことです。
それらのお屋敷は幕府から命を受ける、いわば
事務所のような役目ももち、また人質として
大名の妻子を住まわせるための家でもありました。
大きい藩になりますと、上屋敷、中屋敷、下屋敷
以外にも別邸をもっていたり、抱屋敷(かかえ
やしき)、蔵屋敷(くらやしき)などが、それぞれ
の必要に応じて用意されたようです。
上屋敷(かみやしき)
江戸切絵図では「家紋」+「大名の名」で表示
江戸切絵図で「家紋 + 大名の名」が書いてある
ものは、その大名家の「上屋敷」ということで
家紋の上がその屋敷の表門の位置になります。
本宅にあたる一番重要なお屋敷で、藩主が
江戸滞在中に正妻などと暮らす場所であり
公式な行事をする場所でもありました。
敷地は各大名の地位、譜代、外様の別、石高
などを考慮して、場所や大きさが決められた
ものを各大名が幕府から拝領しました。
江戸城に登城する際に便利なように、上屋敷は
比較的江戸城に近い場所にあることが特徴です。
御三家をはじめ大きな藩ですと、一つの
お屋敷だけでは事足りず中屋敷、下屋敷等
が作られるようになっていきます。
「長府藩毛利家上屋敷」—— 六本木ヒルズ
上の写真は六本木ヒルズ( 港区六本木
6丁目11-1)の毛利庭園ですが、こちら
は長府藩毛利家の上屋敷でした。
TV朝日の報道ステーションの
天気予報でもお馴染みですね。
近くの東京ミッドタウンも毛利家の
お屋敷でしたが、あちらは長州藩の
毛利家で、こちらはその支藩になります。
長州藩毛利家上屋敷の侍屋敷では、明治時代の
陸軍大将となった乃木希典が、乃木稀次の三男
として1849(嘉永12)年に生まれています。
またこれは仙台藩の『江戸御屋敷定』に
記されていることですので、他の藩も同じか
はわかりませんが、上屋敷の大手門近くの
長屋に住む藩士は、小唄、三味線、謡、鼓、
太鼓、笛などの演奏を禁じられていたそうです。
* (「江戸に仙台を見る」)
一方、他の長屋では謡、鼓、太鼓、笛は許され
ていたということですので、やはり上屋敷は
公的な要素が大きいための制約なのでしょうか。
それにしても「小唄、三味線」は禁じられて、
「謡、鼓、太鼓、笛」は可ということは
歌舞伎はだめで、能楽はOKということですか?
そういえば昔、お能の先生に
「江戸時代は謡を習うことは、共通語を
知ることでもあった」という冗談が本当か
わからないことを聞いたこともありましたが。
中屋敷(なかやしき)
江戸切絵図では「 ■ 」+「大名の名 」で表示
中屋敷は嫡子や隠居、側室などが住む家です。
大藩の大名は中屋敷をもっていましたが
中屋敷をもたずに上屋敷と下屋敷のみを
江戸藩邸としていた大名も数多くいます。
ここで「江戸藩邸」と書きましたが
藩邸という言葉は当時使わなかったようです。
それぞれの屋敷は、◯◯藩として幕府から
拝領するのではなく「あくまでもその時点で
◯◯藩主である△△家に対して与えられる」
ものだからです。
ですから△△家が、◯◯藩から××藩へと
転封(領地替え)をした場合でも、江戸屋敷
がかわることはありませんでした。
「広島藩浅野家中屋敷」—— 赤坂サカス
広島藩浅野家(松平安芸守)の上屋敷は
霞ヶ関の国土交通省庁舎のあるあたりに
ありましたが、中屋敷は2つありました。
国会議事堂がある場所と、赤坂サカス
( 港区赤坂5丁目3-6)の2つです。
下屋敷は表参道ヒルズのあたり。
前回、松平姓を賜った外様大名の中に
広島藩浅野家の名前がありましたが、中屋敷
を2つもつ大藩であったことがわかります。
下屋敷(しもやしき)
江戸切絵図では「 ● 」+「 大名の名」で表示
下屋敷は、別荘や別邸ともいうべき
お屋敷で、立派な庭園が造られたり
側室の住まいにもなったようです。
江戸は火事が多かったので、その際の
避難所としても使われました。
また不運にも上屋敷が焼失したような場合
は、一時的に中屋敷、あるいは下屋敷が
上屋敷の代わりの役目も果たしました。
前にお話ししたように明暦の大火(振袖火事)
では、多くの屋敷が焼失しましたが、それを
機に他の場所に移った大名家もあります。
浅野内匠頭の赤穂浅野家は、最初は外桜田門
に上屋敷がありましたが、明暦の大火後は
鉄砲洲に土地を賜っています。
「長州藩毛利家下屋敷」——東京ミッドタウン
先ほどの六本木ヒルズの長府藩毛利家の
本家にあたるのが、東京ミッドタウン
(港区赤坂9丁目7−1)に下屋敷を構え
ていた長州藩毛利家です。
長州藩毛利家の上屋敷は、日比谷御門外
にあり、青山にあった中屋敷は後に
外桜田へと移りました。
下屋敷はこの東京ミッドタウン以外に
渋谷にもありましたので、下屋敷は
2つあったことになります。
東京ミッドタウンの下屋敷は「麻布屋敷」
とも、檜の木が多かったことから「檜屋敷」
ともいわれ、2000人もの人が暮らしていた
といいます
江戸の屋敷は参勤交代があるため出入りも
多く、正確な人数はわからなかったようですが
それだけではなく江戸藩邸内というのは、幕府
の統治外であったため、正確な数が出なかった
ともいわれます。
万一、藩邸内に犯罪者が逃げ込んだとしても
幕府は捜査をすることはできなかったそうです。
土地の交換「相対替え」
これらの屋敷は、幕府の命令によって変え
られることもあり、また幕府の許可を得た
上であれば、大名同士で屋敷を交換する
(相対替え)ことも可能でした。
有栖川公園の時に書きましたが、赤坂6丁目
にあった赤穂藩・浅野家下屋敷と、有栖川公園
にあった盛岡藩・南部家下屋敷は、相対替え
をしています。
その両方の場所付近には「南部坂」という
名前の坂があり現在でも残っています。
これはフィクションではありますが
忠臣蔵の南部坂雪の別れとしても有名。
「抱屋敷(かかえやしき)」
今まで見てきた土地は、すべて幕府から拝領した
「拝領屋敷」でしたが、それとは別に大名が必要
に応じて土地を購入し、屋敷をつくったものを
「抱屋敷(かかえやしき)」といいました。
購入資金はもちろんのことですが、土地に
かかる年貢なども大名の負担となり、下屋敷
やその他の用途に使われたということです。
抱屋敷を下屋敷と呼んでいる家もあるようです
ので、一口に下屋敷といっても、拝領屋敷と
抱屋敷の両方があるということになりますね。
「蔵屋敷(くらやしき)」
その他には、江戸よりも大坂に多かった
というのが、年貢米や領内の特産物を
しまっておく倉庫のような役目をした蔵屋敷。
荷を船で運搬するために、江戸湾や
隅田川沿岸部に建てられました。
豊臣秀吉の時代からあったという蔵屋敷は
有力な商人たちがいた大坂・堺にありましたが
江戸幕府の成立により、政治は江戸に移っても
商業は依然として大坂が中心であり
蔵屋敷は増える一方だったとか。
儒教思想の影響からか商売を厭う大名は
自分の蔵屋敷を表向き「有力商人のものを
借り受けている」と装っていたといいます。
大坂では多い時には600を数えたという蔵屋敷です
が、それを所有していると公言したのは、安濃津藩
(あのつはん、三重県津市)と、前回登場した
伊代松山藩(桜井松平家)の2つだけだったそうです。
南麻布に下屋敷のあった仙台藩伊達家の蔵屋敷は
大坂と深川(江東区清澄1丁目)にありました。
仙台から送られてきた米等を貯蔵し
また江戸で暮らす仙台藩士の食用のため
のお米もここで保存されていたそうです。