「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!
赤坂で一番短い坂
ここのところ「弾正坂」「九郎九坂」「牛鳴坂」と
近い場所で隣り合っている3つの坂を御紹介しました。
ピンク色が「弾正坂(だんじょうざか)」
紫色が「九郎九坂(くろぐざか)」
そして緑色で示した部分が「牛鳴坂
(うしなきざか)」でしたね。
この緑色に示した「牛鳴坂」の終わり、3匹の
ラクダのオブジェを通り過ぎずに、写真の左
(地図でいいますと赤坂サカス方面)に
曲がって少し歩いたところにあるのが
今日、御紹介の「丹後坂」です。
「丹後坂」は赤坂の坂の中で
一番短い坂かもしれません。
地図の真ん中あたりにピンク色に
示した部分が「丹後坂」です。
黒い色で矢印をつけてみましたが
おわかりでしょうか?
米倉丹後守の御屋敷のそばの坂
住所は、赤坂4丁目2番と、4丁目5番の間 。
長さは、なんと40メートルという短さですが
高低差は10.08メートルもある坂です。
距離は短く傾斜はかなり急なために
「丹後坂」は階段になっています。
標識に記されているのは次の言葉です。
「元禄(1688~)初年に開かれたと推定される坂。
その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守
ともいう)の邸があった。」
ということは米倉家の御屋敷は、この写真で
いいますと、左側にあったということになりますね。
冒頭に付けた写真は丹後坂を下から見上げたもので、
その階段を登りきった「丹後坂」の終わり(頂上?)
から下を向けて撮ったのがこの(↑)の写真です。
600石からわずか十数年で1万5千石の譜代大名に
米倉家の祖先は甲斐武田氏の士族で
竹田家の滅亡後は徳川家に仕えています。
米倉昌尹(まさただ)が48歳で家督を
継いだ時は600石程の旗本でした。
しかし、わずか10数年後の元禄12年(1699)
には1万 5千石の譜代大名になっています。
その理由は、5代将軍・徳川綱吉に
認められた昌尹(まさただ)が
御目付 → 御側衆 → 若年寄 → 側用人
と異例の出世をしたからです。
昌尹の3代後の藩主は、柳沢吉保の六男
犬公方といわれた綱吉は「生類憐れみの令」
を発布したことで有名です。
元禄8(1684)年には江戸郊外の中野の地に
16万坪にも及ぶ野犬収容所をつくり
そこには10万匹の犬がいたといいます。
この収容所の普請惣奉行を担当して
いたのが昌尹(まさただ)でした。
犬小屋の維持、管理の業績などが
認められた昌尹は出世街道をばく進。
またそれだけではなく当時、権勢を誇っていた
柳沢吉保と米倉家とは共に甲斐出身でもあり
地縁血縁で結ばれてもいたようです。
米倉家の家督は、
昌尹(まさただ) → 昌尹の子(昌明)→ 孫(昌照)
へと受け継がれますが、共に30歳で早世したために
昌照の次は、7歳だった養子の忠仰が跡を継ぎました。
この忠仰の実の父親が柳沢吉保です。
柳沢吉保の六男だった忠仰は、5歳で米倉家と
養子縁組をしていますので、いかに両家の縁が
深かったかがわかります。(「ぶらり金沢散歩道」)
なお、江戸郊外の中野に野犬収容所が
できたのが元禄8(1684)年ですが、
「丹後坂」の標識に記載されている文章には
このようにあります。
「元禄(1688~)初年に開かれたと推定される坂」。
ということは、単に米倉家の御屋敷があった場所
というだけではなく、「丹後坂」ができたまさに
その時に昌尹(まさただ)は綱吉の命を実行する
野犬収容所の取締役(?)でもあったわけですね。
赤坂の名所・史跡、38位!
この「丹後坂」は、旅行クチコミサイトの
「フォートトラベル」によりますと
赤坂で38位の名所・史跡なのだそうです。
「名所・史跡」というのもちょっとおかしいですが
38位という微妙な数字に思わず笑みがこぼれます。
歴史に興味をお持ちで、米倉丹後守のお屋敷跡
というだけで感無量、という方は別にしますと
「丹後坂」を赤坂の名所として「どうぞ、見に来て
下さいね、とはちょっと言いがたい地味な場所。
ではありますが、何気ないようで
趣があり、懐かしさを感じさせる
「丹後坂」が私はとても好きです。