将軍家への献上 2 様々な献上品

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献上といえば博多献上

江戸時代に諸国266藩の各大名家から将軍家へ様々な
品物が「献上」されましたが、「献上」という言葉を
聞いて私がまず真っ先に思い浮かぶのは博多織の献上の帯。

 

日本舞踊のお稽古をしていたこともあり、「献上」という
漢字も知らない幼稚園児の頃から、この帯を「けんじょう」
と呼び、この言葉を日常会話で使っていた記憶があります。

 

中央に独鈷(どっこ)という独特の模様が織り出してある
のが博多献上の特徴で、私のけんじょうは白地に赤の独鈷
で、おそらく、半幅よりもう少し幅の狭い子ども用の帯。

 

後にこれが、福岡藩(筑前藩)黒田家が
献上物としていた帯地であることから
献上と呼ばれるようになったことを知りました。

 

 

道路左側が福岡藩黒田家のあった場所(現在は外務省庁舎)

 

 

 

福岡藩黒田家の献上品

福岡藩黒田家の江戸上屋屋敷は、現在は外務省庁舎が
ある(千代田区霞ヶ関2丁目2)霞ヶ関にありました。

 

中屋敷は赤坂2丁目にあり、赤坂の「南部坂」
(麻布の「南部坂」ではなく)に接していて、福岡藩
黒田家には、郊外に御鷹屋敷や下屋敷もありました。

 

日本各地からの献上品はかなりの数だったと
思われますが、中でも博多帯だけが
「献上」と呼ばれているのも不思議です。

 

他にもかつて献上品だったということから
現在でも「献上」という名前で呼ばれて
いるものはあるのでしょうか?

 

 

「南部坂」の左側が福岡藩黒田家の中屋敷でした

 

 

 

紀州徳川家 忍冬酒

博多藩黒田家の献上帯の他に、各大名家がどのような
ものを献上していたかといいますと、紀州徳川家は
「みかん」や「忍冬酒(にんとうしゅ、にんどうしゅ)」
を献上していました。

 

紀州徳川家がみかんというのは頷けますが、「忍冬酒」と
いうのはスイカズラの葉と茎を焼酎に漬け込んだお酒だと
いうことで、デトックス効果があるとされています。

 

家康が長寿を全うしたのも、「忍冬酒」を飲んでいた
のが一因だったともいわれていますので、徳川家に
とってはお馴染みのお酒だったのかもしれません。

 

 

 

 

 

薩摩藩島津家 琉球泡盛

お酒の献上品では薩摩藩島津家の「琉球泡盛」も有名。
琉球で作っていた泡盛を薩摩藩でも作るようになり1671年
に将軍家へ献上された時に「泡盛」の名がつけられました。

 

当時の琉球泡盛は薬でもあったようで、江戸時代の
1672年の『和漢三才図会』には「琉球及び薩摩の泡盛酒
は、みなこの国の焼酎で、気味ははなはだ辛烈にして、
痞(つかえ)を消し、積聚(しゃくじゅ)を抑えて、
よく湿を防ぐ」とあります。

 

何に効果があるのかについては、現代人にはちょっと
わかりづらい表現ですが、「痞(つかえ)」とは胸の
つかえのことで、「積聚(しゃくじゅ)」はお腹の
かたまりで胃痙攣や差し込みなどの腹部の急な痛みを、
「湿」とは湿り気や疥癬といったことのようです。

 

その他、刀傷の消毒にもよいということで、徳川家康は
娘の嫁入りに泡盛の壺を持たせたともいわれています。

 

 

 

 

 

高遠藩と諏訪藩 お蕎麦

お蕎麦は、現在でも蕎麦の名産地とされて
いる9藩から献上されていました。

 

夏用の土用そばとしては、信濃国伊那郡の高遠藩
(保科家→鳥居家→内藤家)と、同じく信濃国諏訪郡
の諏訪藩(日野原家→諏訪家)の2藩が献上。

 

たかがお蕎麦と侮ることなかれ、
お蕎麦とはいえ当時としては、高い技術を
要したかなりの高級品だったということです。

 

 

 

 

 

一年の月日が作り出す味

秋に収穫したそばの実を袋に入れて、寒中、大寒から
立春にいたるまでの極寒期に冷たい清流に浸した後、
引き上げて戸外の天日と寒風にさらして
約1ヶ月間乾燥させ、夏まで熟成させる、

 

といった時間をかけてゆっくり熟成させたお蕎麦。
この蕎麦の実の、中心の部分を取り出して打つ
お蕎麦は、アクも抜けてすごぶる舌触りがよく
甘みさえ感じるといいます。

 

また色も普通のお蕎麦の色ではなく純白で、
これは茹でても変わることはありません。
コシのある食感を含めて、特別なお蕎麦といえそうです。

 

 

 

 

 

会津若松藩 氷餅

このように寒さを利用して作るものには
会津松平藩(保科家)から献上された「氷餅」と
呼ばれるものがありますが、これはお餅を水に浸して
凍らせたものを、寒風に晒し乾燥させた保存食。

 

「干し餅」、「凍み餅(しみもち)」、
「凍み氷(しみごおり)」ともいうそうですが
これもやはり寒冷地の水と風を利用しているのですね。

 

会津藩松平家(保科家)の献上品はこの他に
「蝋燭(ロウソク)」、「マツタケ」があります。

 

 

 

 

 

加賀前田藩 氷献上

氷餅ではなく、実際の「氷」の献上品もありました。
これは加賀前田藩からのもので、領地で取れた雪を
江戸に運び、駒込の江戸屋敷に大きな穴を掘って
蓄えておき献上したそうです。

 

献上氷は、加賀藩3代藩主・前田利常の頃から始められ、
14代将軍・家茂の幕末に至るまで続けられました。

 

前田家は加賀の犀川上流や場内に氷室を持ち、天然の氷を
筵と笹の葉で何重にも包み、かつそれを二重の桐でできた
長持ちに納めて、昼夜休むことなく江戸屋敷まで運搬。

 

献上日は毎年6月1日、といってもこれは旧暦ですので、
現在では7月上旬から中旬にあたり本当に暑い時期です。
この「御雪おゆき献上」という行事を江戸庶民も楽しみに
していたそうですが、その気持ちわかりますね。

 

 

 

 

 

処分をした献上の帯

ところで最初に書いた、小学校に上がる前から
使っている私の献上の帯ですが、なんとも物持ちが
いいことに、実は今でも使用しています。

 

もう数十年の月日が経っていますので、帯の白地の部分は
とうの昔に黄ばんでしまい、処分しようと思っていました。

 

これを書いていて思い出しましたが、お稽古用にしていた
帯は、白地に赤の献上だけではなく、オレンジ色と黄緑色
の帯と、全部で3つの献上の帯がありました。

 

同じ時期に、母は博多献上の名古屋帯を浴衣などに
締めていて、質としては母のものが一番よかった
のでしょうが、その帯とオレンジ色と黄緑色の
ものは処分してしまい、今はありません。

 

 

 

 

 

今も手元に残る献上の帯

オレンジ色と黄緑色の献上は、半幅帯ではありましたが
白の献上とは異なり、大人用の普通のサイズでした。

 

ですから考えてみれば、変色をしてしまった白の献上帯が、
サイズ、色ともに一番不要な品ではあるはずですが
おかしいことに実際はそれだけが現在も手元にあります。

 

白の地の部分の黄ばみがあまりにも酷いので脱色をして、
その後に桃色に染め、今でも普段着に時々締めています。

 

なぜこの帯だけは処分できなかったのか、
我ながら何とも不思議な気がします。

 

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