「古九谷」 前田家と鍋島家の繋がり

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次郎左衛門雛 加賀藩前田家「成巽閣」

 

 

 

古九谷と鍋島家の関係

今回は、前回の古九谷論争に関して
触れられなかった部分をご紹介します。
「古九谷論争『古九谷の真実に迫る』から」

 

九谷焼は、加賀藩とその支藩である
大聖寺藩の二つの前田家なくして語る
ことはできませんが、実はそれに加えて
もう一つの家が関わっていました。

 

それは日本初の磁器、有田焼をつくり
だしたともいうべき佐賀(肥前)藩の
「鍋島家」です。

 

 

 

伊万里焼「色絵蓮池翡翠文皿」
江戸時代 17世紀中葉 径36.4㎝ 日本民藝館

 

 

 

「鍋島焼」「伊万里焼」「有田焼」

この3つの名称について、混乱があると
いけませんので、最初に言葉の説明を
簡単にしてみましょう。

 

九州の有田で焼かれているものは
有田焼と呼ばれます。

 

江戸時代、有田焼は伊万里津(港のこと)
から出荷されたので「伊万里焼」とも
いうようになりました。
ということで「有田焼」=「伊万里焼」ですね。

 

また有田焼の中でも、鍋島藩が商品として
ではなく将軍家へ献上等のために、藩窯で
独自に焼かせたものを指して「鍋島焼」と
いいます。

 

(ただし「鍋島焼」の名称は大正時代以降に
できたもので当時、鍋島藩内では「大河内焼
(おおかわちやき)」「大河内御磁器」
といわれていたといいます)

 

現在は鍋島藩窯はありませんが
鍋島焼という名称は残り焼かれています。
今回のお話は勿論、鍋島藩窯の鍋島焼のこと。

 

 

 

鍋島焼「色絵宝尽文皿 」
ロサンジェルス・カウンティ美術館

 

 

 

磁器づくりのきっかけは鍋島直茂から

日本で初めて焼かれた磁器の有田焼は
鍋島直茂が1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵
の際に、捕虜として連れてきた朝鮮人陶工
・李参平(鐘ケ江三平)がつくりました。

 

佐賀藩の鍋島藩窯は、1652〜1654年
(承応年間)に有田の岩谷河内(いわや
ごうち)に御用窯を作り、1661〜1672年
(寛文年間)に伊万里の大川内山(おお
かわちやま)に移転しています。

 

1651(慶安4)年6月に、徳川家光の内覧
を受けた後、鍋島焼が正式に献上されて
いますので、その時点ではもう実質
鍋島藩窯はできていたことになります。

 

 

 

鍋島焼「青磁染付桃文皿」
元禄(1688-1704年)
口径14.7cm 高3.7cm 高台径7.4cm

 

 

 

佐賀藩 初代・勝茂、2代・光茂

朝鮮出兵の際に朝鮮人陶工を連れ帰った
鍋島直茂は、肥前佐賀の領主として鍋島家
の基礎を築いた「藩祖」とされており
初代藩主は、直茂の子・勝茂。

 

勝茂の正室は秀吉の養女で
側室は家康の養女です。

 

勝茂の子・忠直は20代の前半に亡くなった
ことから、2代藩主は、忠直の子・光茂が
継ぎました。
光茂の正室は米沢藩2代藩主
・上杉定勝娘の虎姫。

 

鍋島直茂(1538-1618) 朝鮮人陶工を連れてきた
1勝茂(1580-1657) 鍋島藩窯を作った
* 忠直(1613-1635)
2光茂(1632-1700)

 

 


鍋島焼「色絵野菜文皿」
江戸時代前期 出光美術館蔵

 

 

 

初代・勝茂の娘の子「虎」が、2代藩主・光茂の妻

佐賀藩初代藩主・勝茂の娘「市」は
出羽米沢藩・2代藩主の上杉定勝に嫁ぎ
「徳」と「虎」という娘をもうけます。

 

また定勝には、市が母親ではない
「亀」という娘もいました。

 

 

鍋島直茂(1538-1618)
   |
1勝茂(1580-1657)
   |
    _______
   |      |   米沢藩2代藩主
 忠直(1613-1635) 市ーーーー上杉定勝ーー◯
   |         | |     |
   |               
   |
   |
2光茂(1632-1700)ーー
           |
           |
      3綱茂(1652-1707)

 

 

市の娘「虎」は、2代藩主となった光茂
とはいとこにあたりますが、光茂に
嫁いでいます。

 

鍋島家からきた母の実家へ
戻ったかたちになりますね。

 

ここまででは前田家は登場していませんが
虎の姉・徳と、妹・亀の二人が
前田家に輿入れをしているのです。

 

しかも、大聖寺藩の初代と2代藩主という
兄弟に、徳と亀の姉妹が嫁いだという
ことになります。
それでは次に、前田家をみてみましょう。

 

 

九谷焼「百合図平鉢」
石川県九谷焼美術館蔵

 

 

 

九谷焼の窯を作った前田家

加賀藩前田家の4代藩主までの系図は以下の
通りで、前田利家の子・利長が2代藩主です。

 

3代藩主は2代藩主の弟・利常が継いでいます。
別の弟の利孝は、支藩の七日市藩の初代藩主。

 

加賀藩3代藩主の子、光高が4代で、
その弟・利次が、支藩である富山藩初代、
別の弟・利治も、支藩の大聖寺藩の初代
となっています。

 

 

      1前田利家加賀
          |
          |
  ________________________________________________ 
* |   |   |    |   |   |
2利長  利政  知好  3利常  1利孝 利貞
加賀)          (加賀) 七日市
             |
             |
      _______________
     |    |    |    |
    4光高  1利次  1利治  2利明
     (加賀)    富山  (大聖寺)(大聖寺
                    |
                   3利直
                  (大聖寺

 

 

濃いブルーで表示をした、「利治」が藩主の
大聖寺藩が、古九谷を焼いた窯を作りました。

 

この大聖寺藩は、1871(明治4)年の
廃藩置県で大聖寺県となるまで(後に
金沢県に編入され、石川県と改称)
14代にわたり前田家が治めています。

 

上の図から、七日市藩と富山藩を除いて、
九谷焼に関わる大聖寺藩と加賀藩のみ
を抜き出してみると下のようになります。

 

 

     1前田利家
       |
     ___________________
   |       |
   2利長    3利常 
           |
       __________
     |    |    |
    4光高  1利治  2利明
               |
              3利直

 

 

加賀藩の3代藩主・利常の子・利治が大聖寺藩
の初代となり、利治に子どもがなかったこと
から2代は、利治の弟・利明が継ぎました。

 

 

 

九谷焼「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm
石川県九谷美術館蔵

 

 

 

加賀藩・利常の支援により大聖寺藩がつくった九谷焼

九谷焼の初期の作品、現在「古九谷」と
呼ばれているものが焼かれていたのは
大聖寺藩の初代・利治と、2代・利明の
兄弟の時代にあたります。

 

父である加賀3代藩主・利常の支援によって
利治、利明兄弟が関わったことになりますが
50年後に突然、窯は閉鎖。

 

その理由は不明ですが、大聖寺藩・2代藩主
の利明の死が影響したともいわれるほどで
加賀藩主の父と、子の大聖寺藩主の利治、
利明の強い関わりが伺えます。

 

 

 

「雛人形」次郎左衛門雛 佐賀藩鍋島家「徴古館」

 

 

 

「鍋島家」の二人の孫娘は「前田家」へ

古九谷の窯をつくった大聖寺藩の二人の
藩主に嫁いだのが、上杉定勝の娘でした。

 

初代藩主・利治の妻には「徳」、
2代藩主・利明には「亀」と。

 

家系図というのは、なんとも分かりづらいもの
ではありますが、前田家と鍋島家を並べて
書いてみました(余計、わからない?)。

 

 

 1前田利家
    |
    _______________
  * |      |
  2利長   3利常   
*        |
    ____________________________
*  |   |(大聖寺藩) |(大聖寺藩)
* 4光高  1利治ーー  2利明ーー
 

           
                          

 鍋島直茂             
  |                 
 1勝茂              
  |               
  忠直ーーー 市ーーーーーー上杉定勝ーー◯
  |         |  |       |
  |                  
** 
  |         
 2光茂ーー虎    

 

 

 


「雛人形」次郎左衛門雛  預玄院所縁(よげんいん)「成巽閣」
上の写真は「鍋島家」の、こちらは「前田家」のお雛様です

 

 

 

3姉妹の2人は「前田家」、1人は「鍋島家」へ

これを上杉定勝からみてみますと、娘の
徳の夫が、前田利治(大聖寺藩・初代藩主)
虎の夫が、鍋島光茂(佐賀藩・2代藩主)
亀の夫が、前田利明(大聖寺藩・2代藩主)
となります。

 

 

鍋島勝茂の娘
 市ーーーーーーーー上杉定勝ーーーーーー◯
  |      |      |
  徳ー前田利治 虎ー鍋島光茂 亀ー前田利明

 

 

鍋島光茂からいいますと
前田利治(大聖寺藩・初代藩主)
は、妻の姉の夫、
前田利明(大聖寺藩・2代藩主)
は、妻の妹の夫、ということ。

 

上杉家を間に挟んで、鍋島家と前田家の
深い繋がりが生まれることになったのです。

 

 

佐賀藩鍋島家の家紋「杏葉」

 

 

 

鍋島家と前田家と、それぞれの焼物

もっとも両家の親しい関係は、この婚姻
によって生じたというよりは、それ以前
からの近い関係がこれらの婚姻を成り立た
せたという方が正確かもしれません。

 

加賀藩・2代藩主の利長の後を、利常が
継ぎ、徳川秀忠の娘・珠姫を迎える際
にも、前田利長は慶事に必要な唐物を
鍋島勝茂に依頼しています。

 

前田利長とその子・利常が、鍋島勝茂
と親交があった事実に加え、複数の婚姻
によって結ばれた両家の繋がり。

 

それは、それぞれの焼物にも影響を与えた
と考える方が、むしろ自然に思えます。

 

 

 

古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

 

スタートについた「古九谷論争」

これについて中矢進一(石川県九谷焼美術館
副館長)氏は「古九谷の真実に迫る」の中で
このように述べています。
多くの方も同じお考えと思われますので
これをご紹介して終わりましょう。

 

「それぞれを領する大名同士が姻戚関係に
 あったという歴史的事実、背景といった
 ものを踏まえた上での論考というものが
 必ずこれから以降は必要になってくるん
 だろうというふうに考えております」

「この問題は短兵急に結論を出す問題では
 なくして両産地の、いわゆる交流のもと
 にそういったものが生まれたんではない
 か、そしてこの加賀前田家という加賀文
 化を育んだ前だけを抜きにして、最高級
 品である古九谷の百花手だとかは(略)
 生まれてこなかったのではないかという
 指摘もされております。
 真の意味での古九谷、それは一体何か、
 これを探る作業が色々スタートしたんだ
 というふうにいえるのではないでしょうか」

 

     (参考 /「古九谷の真実に迫る」)

 

 

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九谷焼の歴史(古九谷〜再興九谷)

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吉田屋窯「百合図平鉢」
石川県九谷焼美術館所蔵

 

 

 

九谷焼の歴史

九谷焼の始まりから現在までの流れを、

1「江戸時代初期〜中期」と
2 一時中断後の「復活」、
3 そして「大聖寺藩がなくなった明治時代以後」

の三つに分け江戸時代を中心にまとめてみました。

 

 

 

      1前田利家加賀
          |
          |
  ________________________________________________ 
* |   |   |    |   |   |
2利長  利政  知好  3利常  利孝  利貞
加賀)          (加賀
             |
             |
       _______________
       |   |    |    |
      4光高  利次  1利治  2利明
      (加賀)    (大聖寺)(大聖寺
                     |
                    3利直
                   (大聖寺

 

* (なお、利家の子・利孝は七日市支藩の初代藩主に、
*  利常の子・利次は富山支藩の初代藩主になって
*  いますが、煩雑なりますので記載していません)

 

 

 

1 1655(明暦元)年頃〜1710(宝永7)年頃

九谷焼は、加賀藩の支藩である大聖寺藩領内の九谷村で
磁器の原料である陶石が発見されたことから始まります。

 

加賀藩前田家の支援のもとに、大聖寺藩の初代
藩主・前田利治(としはる)、2代藩主・利明が
焼かせたものですが、築窯に際し、大聖寺藩士
を有田に修行に出します。

 

九谷金山の鋳金師だった後藤才次郎が、肥前磁器
(有田焼、伊万里焼)の産地で技術を習得後、
加賀国江沼郡九谷村(現在の石川県江沼郡山中町
九谷)の藩窯で焼き始めたことから「九谷焼」
と呼ばれるようになりました。

 

 

 

古九谷「青手桜花散文平鉢」石川県立美術館所蔵

 

 

 

1655(明暦元)年から1657(明暦3)年頃に
始まった九谷焼ですが、50年ほど経ったあとに
突然、作られなくなってしまいます。

 

理由としては、大聖寺藩の財政の問題とか
藩政の混乱、幕府の干渉などが挙げられて
いますが、正確なことはわからずに
現在に至るまで謎に満ちたまま。

 

この時期に作られたものは九谷焼の中でも
「古九谷」と呼ばれ珍重されていますが
ニセモノも多いといいます。

 

100年後に吉田屋窯で九谷焼が復活しますが
その少し前に、九谷ではなく金沢で加賀藩窯の
「春日山(かすがやま)窯」が1807(文化4)年
開かれ、京都から青木木米を招き赤絵、
金襴手を
作りましたがほどなくして閉窯。

 

 

 

古九谷(青手)
「青手土坡に牡丹図大平鉢
(あおてどはにぼたんずおおひらばち)」
口径 43.5cm 底径 17.8cm 高さ 10.2cm
(写真/「石川県九谷焼美術館」)

 

 

 

2 江戸時代後期に復活

「吉田屋窯」→「宮本屋窯」→「松山窯」→「九谷本窯」

⑴「吉田屋窯」1824(文政7)年〜1831(天保2)年

一時期途絶えていた九谷焼が
100年の時を経て復活します。

 

1824(文政7)年に窯を作ったのは、大聖寺の城下町
に住む豪商の豊田家(屋号 吉田屋)の4代・吉田屋
伝右衛門(よしだやでんえもん)です。

 

古九谷に魅せられた伝右衛門は、その再興を願って
私財を投じて九谷古窯跡の隣に窯を作ります。
その時、伝右衛門は72歳。

 

窯の完成の2年後には、山代村の越中谷に窯を移し
ますが、名称はそのまま「九谷焼」と称されました。

 

 

 

吉田屋窯「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)』
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm
(写真/「石川県九谷焼美術館」)

 

 

採算を度外視し、高品質の焼物を追求していた
「吉田屋窯」の作品は好評を博しましたが
巨額の投資は吉田屋の経営を圧迫して行きます。

 

4代・伝右衛門の死去もあり窯は7年でその歴史
を閉じていますが、吉田屋伝右衛門なくしては
現在の九谷焼はないといわれるほど。

 

吉田屋窯の作品の特徴としては緑、黄、紫、
紺青の四彩を用いて器の全面を塗りつめる
色絵が多く、赤を用いずに青い印象を受ける
ところから「青九谷」と称されます。

 

 

 

 

 

 


⑵「宮本屋窯」1832(天保3)年〜1859(安政6)年

「吉田屋窯」の現場の支配人だった宮本屋宇右衛門
(みやもとやうえもん)が、吉田屋窯を
「宮本屋窯」として再開することになりました。

 

最初は吉田屋風の青手も作っていましたが、加賀藩の
影響や絵付け職人の飯田屋八郎右衛門(いいだや
はちろうえもん)が赤絵の緻密な描写を得意としたこと
から、次第に赤絵の作品が多く作られるようになります。

 

しかし天保大飢饉や天保の改革などから、経営状態が
厳しくなっていた宮本屋窯は、宮本屋宇右衛門の死後
に跡を継いだ弟の理右衛門も亡くなり閉じられました。

 

 

 

松山窯(青手)
「双馬図平鉢(そうまずひらばち)」
口径 36.0cm 底径 19.0cm 高さ 6.5cm
石川県九谷焼美術館所蔵

 

 

 

⑶「松山窯」1848(嘉永元)年〜1872(明治5)年頃

大聖寺藩が江沼郡松山村で山本彦左衛門に
命じて、藩窯「松山窯」を作らせます。

 

九谷原石に吸坂村の陶土等を混ぜて作った素地が
灰色がかっていたことから鼠素地と称されました。

 

青手古九谷や吉田屋窯の様式を踏襲した、赤を用いない
九谷四彩の作品を作り、紺青は花紺青といわれる不透明
な水色をしているものが多く、黄緑色も使用しています。

 

大聖寺藩は衰退した宮本屋窯を九谷本窯とする
ことに決定したため、松山窯は次第に衰退。
最後は民窯として日常雑器を焼いていたということです。

 

 

 

九谷焼(赤絵)
「赤地金襴手花唐草文鉢」
永樂和全作 明治4年(1871)

 

 

 

⑷「九谷本窯」1860(万延元)年頃〜1879(明治12)年

大聖寺藩は経営困難に陥っている宮本屋窯を
藩窯とすることとし、藩士の塚谷竹軒、
浅井一毫を起用しますが、技術面で行き詰まり
京焼の名工・永楽和全を京より招聘。

 

しかし明治4年の廃藩置県で大聖寺藩がなくなった
ことにより。九谷本窯は消滅し、民窯へと
形を変えて行くことになりました。

 

なお、九谷本窯でどのような作品が作られて
いたかについては、不思議なことに、
現在のところ定かではないようです。

 

 

 

 

 

 

3 明治時代から現代

明治時代になると藩からの支援が得られなくなった職人
たちは、それぞれ作家として自立をすることになります。

 

九谷焼の輸出産業が盛んになった時期でもあり、彼らは
美術工芸品作家にふさわしい技術を磨いて行きました。

 

竹内吟秋(たけうちぎんしゅう)、
浅井一毫(あさいいちもう)兄弟や
初代・須田青華(すだせいか)、
九谷庄三(くたにしょうざ)、
北出塔次郎・不二雄(きたでとうじろう・ふじお)、
三代・徳田八十吉(とくだやそきち)、
吉田美統(よしだみのり)
などが有名な作家です。

 

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古九谷(九谷焼)

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

古九谷「青手土坡に牡丹図大平鉢」石川県九谷美術館所蔵

 

 

 

柿右衛門の最初の赤絵を購入したのも御買物師

加賀藩の3代藩主・前田利常は、1637(寛永14)年
から長崎に「御買物師」と呼ばれる役人を常駐させて
海外からの輸入品を買い求めたり、また海外へ
発注もしていました。
「前田家が東インド会社を通して
注文したデルフト焼」

 

御買物師が購入したのは海外のものに限りません。
1646(正保3)年に酒井田柿右衛門が初めて完成した
色絵磁器(赤絵)を売ったのも前田家の御買物師です。

 

酒井田柿右衛門家に残る「覚」には、1647(正保4)年
6月の初め、赤絵を長崎に持参し前田家の御買物師・
塙市郎兵衛(はなわいちろうべえ)に売った
との記載があります。

 

 

 

 

 

 

 

突然現れる「九谷焼」の文字

前田家は入手したデルフト焼や肥前磁器を
研究して九谷焼へ応用したといわれています。

 

そういえ以前、肥前磁器の様式の変遷を
以下のような図で示したことがありました。
「『柿右衛門』と『柿右衛門様式』の違い」

 

唐津焼という陶器から、初めて磁器が焼かれる
ようになり、最初の頃の伊万里焼を「初期伊万里」
と呼び、その後多彩な色や金彩が加えられる様子を
表したものです。

 

 

          唐津焼(陶器)

1600年 ____________________
          初期伊万里

         初期色絵(古九谷)

1650年 ____________________

 大河内山  南川原山  内山・外山  武雄市など
  鍋島  柿右衛門    |      |
  |     |     |      |
  |      古 伊 万 里 金 蘭 手
1700年 ____________________

  ⇩           ⇩      ⇩

 

 

この図の中で不思議に思ったのは、1650年の前に
書かれている「初期色絵(古九谷)」という部分です。

 

肥前磁器(有田焼・伊万里焼)の初期色絵のところに
なぜ突然、九谷焼という言葉が現れるのでしょうか?

 

 

前田家がデルフトに発注した
「和蘭陀白雁香合
(おらんだはくがんこうごう)」
江戸初期 石川県立美術館

 

 

 

幻の「古九谷」

実はこれには古九谷の謎が絡んでいるのです。
九谷焼は、有田焼と並ぶ日本を代表する焼物ですが
まだわからないことも多く、日本陶芸史最大の謎
ともいわれています。

 

九谷焼は、加賀藩前田家の全面的支援のもと
加賀藩の支藩である大聖寺の加賀国江沼郡九谷村
(現在の石川県江沼郡山中町九谷)にある藩窯で
焼かれ始めました。

 

江戸初期から始まって中期ごろに一時途絶え
幕末に復活。

この途絶える前に焼かれてい九谷焼を「古九谷」
と呼びますが、これがいつ誰によりどのように
作り始められたのかについて様々な説がありますが
正確なことはわかっていないのです。

 

 江戸初期〜中期頃  古九谷
幕末に復活     九谷焼

 

復活して以来、現在まで焼き続けられている九谷焼
としては中村梅山や須田精華をご紹介したことが
ありますが、様々な謎があるのは古九谷の方です。

 

 

中村梅山

 

 

 

利家も朝鮮人陶工を連れ帰った?

伊万里焼は、1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に
捕虜として連れてこられた朝鮮人陶工の一人、
李参平が1616年に有田泉山で白磁鉱を
発見したことにより始まりました。

 

(現在でも鍋島藩窯公園には、捕虜として
連れてこられた陶工のたくさんの
供養塔が建っているということです)

 

この朝鮮出兵には秀吉の片腕として前田家初代
藩主・利家も出陣していましたので、鍋島直茂
だけではなく、利家も朝鮮人陶工を加賀に連れ
帰ったかもしれないと推測する方もいます。
  (大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」)

 

 

 

「色絵菊文輪花大皿」青手
有田焼(伊万里焼)1650年代

 

 

 

有田焼(伊万里焼)から派生した九谷焼

加賀藩の支藩である大聖寺藩は、磁器づくりを習得
するために、後藤才次郎を有田に修行に出しました。
現在、残された文献から推測されることは、

 

1655年から1657年頃に、大聖寺初代藩主・前田利治
(としつぐ、利常の三男)が後藤才次郎を伊万里焼
の窯元へ修行に行かせ、1655年頃から焼かせた

 

ということですので、九谷焼は伊万里焼から
発生したことは間違いないと思われています。

 

 

 

古伊万里「色絵荒磯文鉢」金襴手
江戸時代 18世紀 根津美術館蔵

 

 

 

有田と古九谷の窯跡発掘調査

1960年頃から肥前有田焼(伊万里焼)の古窯の発掘
調査が行われると、そこで古九谷に酷似した染付模様
の破片や、全く同じ模様のものが有田の山辺田
(やんべた)古窯などからたくさん発掘されました。

 

1970年頃には古九谷の窯跡の発掘も行われています。
窯の所在地は、現在の加賀温泉郷の山中温泉となって
いる場所から大聖寺川を14キロほど上流の場所。

 

そこで発掘された破片は、有田焼の模様と酷似して
いるものもある一方、古九谷の初期作品に共通する
目跡や染付輪線、槍梅文を持たず、有田焼ではなく
京焼に酷似していました。

 

これらのことから推測されるのは以下の2点です。

1 後藤才次郎は有田焼を学んだのちに戻って
 古九谷を焼きますが、高い焼成温度を必要と
 する磁器を焼くことができず、1670年頃に
 窯の使用を中止した可能性が高い。

 

2 古九谷初期作品の特徴的模様が有田の古窯
* からは発見され古九谷窯からは発掘されて
* いないのは、初期古九谷は九谷窯ではなく、
* 有田で焼かれたのではないか。

 

 

 

古九谷
「青手土坡に牡丹図大平鉢
(あおてどはにぼたんずおおひらばち)」
口径 43.5cm 底径 17.8cm 高さ 10.2cm
(写真/「石川県九谷美術館)」

 

 

 

発掘調査から推測されること

かつて古九谷手として九谷で作られたと考えられて
いた作品と一致する色絵素地が、有田の山辺田窯跡
で発掘され、これらが1640〜1650年代に稼働して
いたことが判明しました。

 

また東京大学構内にある加賀前田判定跡遺跡
からも多数の古九谷様式の陶片が検出され、
それを化学分析した結果、伊万里焼と
一致していることが確認されています。

 

ということで、古九谷様式と呼ばれている
伝世品のうちの大部分のものが、有田の初期の
色絵磁器であったことが明らかになりました。

 

とはいえ九谷で全く焼かれなかったわけではなく
有田と九谷、どちらで焼かれたかについては
論争も続いているようです。
これからの研究を楽しみに待ちたいですね。

 

(参照 /
大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」雄山閣 2007
宮元健次
「加賀百万石と江戸芸術 前田家の国際交流」
                人文書院 2002
* 矢部良明監修「日本のやきもの史」
              美術出版社 1999)

 

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