唐津焼「中里太郎衛門」

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唐津市北波多で生まれた唐津焼

肥前鍋島藩の鍋島軍が朝鮮出兵の際に
連れてきた朝鮮陶工により、日本初の磁器
が作られるようになる少し前に、やはり
朝鮮陶工の手によって唐津焼が作られていました。

 

こちらの唐津焼は、朝鮮出兵以前に岸岳
(きしだけ)城主の波多氏が朝鮮から連れてきた
陶工によって焼かれるようになったもので
有田焼のような磁器ではなく陶器。

 

岸岳を治めていた波多氏の、17代当主・波多親
(ちかし)は豊臣秀吉の不興を買いましたが、佐賀
鍋島藩の鍋島直茂の取りなしにより事なきを得ました。

 

しかし1594(文禄3)年、所領を没収の上、常陸に配流。
平安時代末期より戦国時代まで500年以上にわたって
活躍した波多氏は改易されることになってしまったのです。

 

 

 

 

 

金ケ江三兵衛が磁器の原料を発見

これにより岸岳古唐津の陶工たちは、秀吉の
朝鮮出兵時に連れてこられた陶工たちと一緒に
仕事をすることになり、松浦古唐津、多久(たく)
古唐津、武雄(たけお)古唐津、平戸(ひらど)
古唐津を形成してゆきました。

 

朝鮮からの陶工の中心的存在であった
金ケ江三兵衛(李参平・りさんぺい)は多久
古唐津を焼成していましたが、1616年(元和2)年、
有田泉山で磁鉱石を発見します。

 

これをきっかけに金ケ江三兵衛は磁器の有田焼を
作るようになり、多久古唐津と平戸古唐津は消滅。

 

そして、松浦古唐津は唐津藩の御用窯として、
武雄古唐津の方は日常雑器を焼く民窯となりました。

 

 

「染付山水図大鉢( そめつけさんすいずおおばち」
初期伊万里 高  12.5cm 口径  44.8cm 底径  12.9cm
重要文化財(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

「一楽、二萩、三唐津」

その後、唐津焼は全国に流通して西日本を
代表する焼物となり、西日本では焼物を
「からつもの」と呼ぶほどまでになりました。

 

日常雑器としては勿論のこと、茶陶として古来から
茶人に愛された器でもあり、また楽焼や萩焼と並んで
「日本三大茶陶器」の一つにも数えられています。

 

お茶の世界では抹茶茶碗の格付けとして
「一楽、二萩、三唐津」という言葉があります。
「一井戸、二萩、三唐津」ともいうようですが
いずれにせよ唐津焼は抹茶茶碗としては
王道のお茶碗なのですね。

 

ろくろ、たたき、たたら、押し型等の技法で
作られた唐津焼は、掘り、刷毛目、象嵌(ぞうがん)、
搔(か)き落としの装飾が施され
釉薬をかけて約1300度の高温で焼かれます。

 

土の味わいに描かれた野趣に富む模様の唐津焼。
現在、唐津焼の窯は唐津市内に70ほどあるということです。

 

 

 「赤樂茶碗 銘熟柿」17世紀前半 本阿弥光悦
(写真/「サントリー美術館」)

 

 

 

中里太郎衛門家

唐津焼の正確な歴史はわかっていないようです。
かなり前のことになりますが、私は唐津焼の
中里太郎衛門の窯を訪れたことがありました。

 

(中里太郎衛門窯
 〒847-8171 佐賀県唐津市津田3-6-29
 tel:0955-72-8171 fax:0955-73-3284
 mail:tarouemon@nifty.com)

 

唐津焼の中里太郎衛門の家は、江戸初期に
中里又七が作陶を始めて以来、唐津焼を
作り続けている家系で、現在は14代目。

 

 

 

 

 

御用焼物師 中里家の歴史

初代の中里又七は生没年が不明ですが
肥前国唐津藩の御用焼物師でした。

 

5代目・中里喜平次が記した古文書によりますと
又七は同じ高麗人の矢作や彦右衛門達と文禄年間
(1592〜1596)に伊万里市に田代窯を作った後、
大川源窯に移ったといわれています。

 

又七達が唐津藩主・寺沢志摩守広高の御用窯に
任じられたのは1615(元和元)年のこと。
又七は椎ノ峰窯へ移って御用焼物師となりました。

 

 

「叩き唐津南蛮耳付壷」13代・中里太郎衛門

 

 

初代・又七     生没不詳
2代・太郎衛門 生没不詳
3代・甚右衛門 生年は不詳、1703(元禄16)年に没。
4代・太郎衛門 生年不詳で、1744(延享元)年に没。
5代・喜平次   1691(元禄4)年〜1757(宝暦7)年
6代・太郎衛門  生年不詳〜1786(天明6)年
7代・陶司    生年不詳〜1823(文政6)年
8代・尚徳    生年不詳〜1827(文政10)年
9代・太郎衛門  生年不詳〜1872(明治5)年
10代・一陶     生年不詳〜1879(明治12)年
11代・太郎衛門 1854(安政元)年〜1924(大正13)年
12代・太郎衛門 1895(明治28)年〜1985(昭和60)年
13代・太郎衛門 1923(大正12)年〜2009(平成21)年

 

 

 

 

 

古唐津の技法の復活

12代・太郎衛門、本名重雄が生まれたのは、唐津藩の
御用窯としての庇護を失い衰退していた時代でした。

 

そのような中、古唐津の技法を復活させる
ことに成功し、唐津焼は勢いを取り戻します。

 

1976(昭和51)年、12代・中里太郎衛門は
重要無形文化財「唐津焼」の保持者
(人間国宝)に認定されました。

 

 

 「斑唐津茶碗」12代・中里太郎衛門

 

 

 

14代・中里太郎衛門

当代の14代・中里太郎衛門は、1957(昭和32)年に
13代・太郎衛門の長男として佐賀に生まれました。
本名は忠寛。

 

1979(昭和54)年に武蔵野美術大学造形学部彫刻学科を
卒業、1981(昭和56)年、同大学院を卒業しました。

 

1983(昭和58)年に、多治見陶磁器意匠研究所釉薬科、
国立名古屋工業技術試験所釉薬科を修了後に
13代・中里太郎衛門陶房で作陶に入り、

 

1990(平成2)年の日展での特選を受賞を
はじめ数々の賞を受賞しています。
2002(平成14)年、14代・中里太郎衛門を襲名。

 

また、12代・太郎衛門の三男の中里重利(1930〜2015)、
同じく12代・太郎衛門の五男の中里隆(1937〜)、
中里重利の長男である中里嘉孝(1958〜)という
一族の方が陶芸家として活躍していらっしゃいます。

 

 

「唐津藍紋様二彩掻落し 馬上杯」14代・中里太郎衛門

 

 

 

生まれた時からの宿命

幼い頃から粘土遊びなどに親しんで、
「陶芸家になることは、生まれたときからの宿命でした」
と語る14代・中里太郎衛門さんですが、この「宿命」とは
逃れがたい重い定めという意味ではないそうです。

 

14代を継ぐというプレッシャーは「全然ありません」、
「作陶をやっていて、つらいと感じたことはない。
むしろ楽しいことばかりです」と続けます。

 

中国で焼物と限らずに絵画、彫刻などの素晴らしい作品に
触れた時の感想を、このように伝えてくれました。
「技術とかではなく、見る者に訴える力が画然と違う」
「昔の物に負けるものかという意気込みがわきます」
              (技見聞録「佐賀新聞」)

 

「松図襖」狩野尚信 17世紀 佐賀藩鍋島家・徴古館

 

 

 

「窯もの」と「作家もの」

ところで、私が中里太郎衛門陶房に行った時のことですが、
残念ながら作品は一つも手にすることができませんでした。

 

陶房には何人もの職人さんたちが器を作っていますが、
それらは「中里太郎衛門窯のもの」と呼びます。
器の裏には中里太郎衛門窯で作られたという窯印
である「三ツ星」の商標がついています。

 

それに対して太郎衛門さんご自身の作品は「作家もの」
と呼んで区別していますが、欲しかった「作家もの」
のお抹茶茶碗にはとても手が届きませんでした。

 

 

「銹絵染付松樹文茶碗」18世紀前半 尾形乾山
(写真/「サントリー美術館」)

 

 

 

中里太郎衛門陶房で頂いた大きなお土産

ただ品物としては1つも手にすることはできません
でしたが、実は大きなお土産をいただきました。
それは、陶房の庭の様子です。

 

私が訪れたのは数十年前のことですので
現在はまた違っているのかもしれませんが
その当時は、一般の私たちが入れるお庭には
松の木が植えられていました。

 

松の木もではなく、松の木だけが植えられて
いるその潔い美しさに私は心を奪われました。

 

もし自分の庭を持つことが叶うならば、大好きな松に梅に
桜にクチナシ……、と夢と妄想は果てし無く膨らみます。

 

ですが、中里太郎衛門陶房のお庭を拝見して
私も松だけの庭にする、と心に決めました。

 

 

 

 

 

「花のほかには 松ばかり」

能楽の「道成寺」の「花のほかには松(待つ)ばかり」
という謡を思い出します。
「器のほかには松ばかり、器の庭には松ばかり」

 

もちろんこの決意(?)は誰にも告げたことはありません。
何十年もの月日が過ぎた今、自分に突っ込んでみましょう。

 

「固い決意をしたって意味なかったじゃない!
お庭持てなかったのだから」と。

 

でもあの美しさは今でも目と心に残っているからいいかな。
夢は実現せずに、松(待つ)ばかり……。

 

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