酒井田柿右衛門 「濁手(にごしで)」 の中断と復活

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透き通った人の肌のような「濁手」

有田の南川原山(なんがわらやま)で、1650年頃
から作られ始めた酒井田柿右衛門の作品の特徴
といえば、まず挙げられるのが「濁手」ですね。

 

「濁手」は、「濁し手」とも書きますが
読み方は「にごしで」で、柿右衛門作品の全体を
覆っている白い素地のことを指す言葉です。

 

柿右衛門以外にも、もちろん白い磁器はありますが
それらが青みを帯びた白であるのに対して、柿右衛門の
濁手は温かみを感じさせる乳白色をしているのが特徴。

 

「濁手」の「濁(にごし)」とは、佐賀県の方言で
お米のとぎ汁のことをいうそうですが、とぎ汁と聞くと
その「白」の感じが何となくつかめますね。

 

 

 

 

 

「素地」対「文様」

柿右衛門以前に作られていたという初期の色絵磁器は
青や緑、黄色といった寒色系の絵の具を、ほぼ全体に
隙間なくびっしりと描き込むものが多かったようです。

 

一方、柿右衛門はそれとは対照的に余白を充分にとり
明るい絵の具を使って模様を描きあげますので
生地の白い色が重要なことはいうまでもありません。

 

繊細な文様がいきるのも、それを浮かび上がらせる
美しい白地があればこそで、素地はそこに描かれた文様に
勝るとも劣らないほど大事な働きをしているといえます。

 

 

有田の初期の色絵磁器「色絵菊文輪花大皿」(青手)

 

 

 

「濁手」の誕生

初代の酒井田柿右衛門となった喜三右衛門
《1596(文禄5)年〜1666(寛文6)年》は
1646(正保3)年に赤絵磁器を完成させました。

 

その赤絵を最も美しく見せることができる
素地「濁手」ができたのは1670年代頃の
ことで、4代・柿右衛門が製法を完成。

 

「濁手」は素地を素焼きした後にかける釉薬は他の磁器
とは異なって、青みを取り除いた釉楽を薄くかけます。

 

また本焼きの時は、焼成時の降灰や傷を防ぐ
ために1つずつサヤと呼ばれる容器に入れて
保護するなど手間がかかるものです。

 

 

 

 

 

初期柿右衛門(初代〜4代)

2代・柿右衛門の生没年は
1620(元和6)年〜1661(寛文元)年。
3代は、2代の弟ということで2代とは2歳違いの
1622(元和8)年〜1672(寛文11)年。

 

初代が「赤絵磁器」を製作した時に、2代、3代は
すでに大人ですので作陶に充分に関われる年齢です。

 

没年を見ますと、2代が1661(寛文元)年で
初代が1666(寛文6)年ですので、子どもである
2代の方が先に亡くなったことになります。

 

初代から3代までは製作時期も重なって
いて作風が似ているだけではなく、
ともに極めて高い力量を持っていました。

 

この初代から3代に、3代の子どもである4代
《1641(寛文18)年〜1679(延宝7)年》を
加えて「初期柿右衛門」と称されます。

 

 

「色絵花鳥文八角共蓋壺 」 柿右衛門
江戸時代後期 出光コレクション – 出光美術館

 

 

 

中期柿右衛門(5代〜7代)

次の5代から7代までが「中期柿右衛門」です。
5代《1660(万治3)年〜1691(元禄4)年》は、

 

技量があまり芳しくなかったようで、1685(貞享2)年
鍋島藩からの発注を差し止められる仕儀に至ります。
(なおこの年は、最初の「生類憐みの令」が出された年)

 

「後継者」として生まれついた方は、御自分の
立場をどのように考えていらっしゃるのでしょう。

 

もし他に一生をかけて成し遂げたいことがあったと
したら、後継者という特権は重荷以外の何物でも
ないのでは、そんな思いがふっと頭をよぎります。

 

 

 

 

 

「中興の祖」といわれる6代

そして6代《1690(元禄3)年〜1735(享保20)年》と
続きますが、6代は「中興の祖」といわれた柿右衛門。

 

6代は、5代が亡くなる一年前に生まれていますので
当然のことながら5代の指導は受けてはいないと思われます。

 

しかし叔父の渋右衛門に助けてもらい
優れた製品を次々と生み出し「中興の祖」
と呼ばれる存在となりました。

 

食器類以外にも、花器や香炉などの質の高い
製品を量産することに成功しています。

 

 

ドングリ模様のぐい呑 15代・柿右衛門

 

 

 

「濁手」の中断

1724(享保9)年には、藩に嘆願書を提出し、臨時
発注の一部が酒井田家に発注されることになりました。
(この年は「倹約令発布」が出された年)

 

しかし同時に、7代《1711・宝永8年〜1764・宝暦14年》
以降は、濁手の作品が作られなくなってしまいます。

 

濁手を作るには手間がかかることにくわえて
一時、中断していた中国景徳鎮も康煕年間
(1662〜1722)に磁器の輸出を再開してもいました。

 

なお、柿右衛門といえば濁手、「柿右衛門」=「濁手」
ということがあまりに有名になってしまったために
濁手でないものは柿右衛門のニセモノと思う方もいます。

 

ですが実際は、江戸時代に作られた多くの柿右衛門
作品は濁手ではなく、むしろ濁手の方が少数です。
その理由は技術的に難しかったため。

 

 

 

 

 

焼成の困難な「濁手」

原料である陶石の焼成時における収縮率の違いから
破損するものが多く、焼きあがった後に完全な作品と
呼べるものは極めて少なくなってしまうそうです。

 

お皿のような平たい作品で半分ほど、
壺のように立体的な作品になりますと
2割程度しか完全な作品はできません。

 

この効率の悪さから、濁手は一部の高級品のみに
用いられたのではないかと考えられていて、濁手が
中断してしまったのも同様の理由と思われます。

 

 

「色絵花鳥文皿」柿右衛門様式

 

 

 

後期柿右衛門(8代〜10代)

8代《1734(享保19)年〜1781(安永10)年》、
9代《1776(安永5)年〜1836(天保7)年》、
10代《1805(文化2)年〜1860(安政7)年》
は「後期柿右衛門」とされています。

 

 

近代〜現在

11代《1845(弘化2)年〜1917(大正6)年》
12代《1878(明治12)年〜1963(昭和38)年》
13代《1906(明治39)年〜1982(昭和37)年》
14代《1934(昭和9)年〜2013(平成25)年》
15代《1968(昭和43)年〜》

 

 

「錦梅鳥文香爐」13代・柿右衛門

 

 

 

 

「濁手」の技法の復元

中断していた濁手の技法の復活を
12代と13代の父子が、1947年頃から始めます。
そして1953年、復元に成功した濁手の作品を発表。

 

この濁手の技法は、1955年に国の記録政策の
措置を講ずべき無形文化財に選択されました。

 

濁手の復元に成功した12代は、復元が完成した
10年後の1963(昭和38)年に82歳で亡くなっています。

 

そして1971年、濁手は重要無形文化財に指定されました。
(保持団体として柿右衛門製陶技術技術保存会を認定)

 

 (参照/「一生一石」
  吉永陽三「佐賀県立九州陶器文化館報」より)

 

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伊万里焼(有田焼) 色絵の誕生

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「色絵野菜文皿」鍋島焼(出光美術館)

 

 

日本の磁器作りの始まり

日本初めて磁器が焼かれたのは
1610年代の肥前でした。

 

磁器を作るには磁器用の鉱石がなければ
できませんが、それを金ヶ江三兵衛が
有田泉山で発見したのです。

 

朝鮮名・李参平の金ケ江三兵衛は、豊臣秀吉
の朝鮮出兵(1592年・文禄元年、1598年・
慶長3年の文禄・慶長の役)の際に鍋島軍に
よって連れてこられた朝鮮人陶工。

 

彼が有田泉山で見つけた白磁鉱を用いて
磁器焼成に成功したのは、1616(元和2)
年頃のことといわれています。

 

 

 

 

(江戸時代は有田泉山の「泉山鉱石」で
作られていましたが、現在では熊本県
天草地方の「天草鉱石」を使用しています)

 

1644年に、中国磁器の輸入が途絶えたことに
より、藩の重要な献上品であった中国磁器が
手に入らなくなった佐賀藩鍋島家は、質の
高い磁器を作るべく藩窯を作ります。

 

ここで作られたのが、販売目的ではなく
将軍献上を主目的とする最上級の焼物である
「鍋島焼(有田焼、伊万里焼)」でした。

 

 

 

鍋島焼を作った佐賀鍋島藩窯があった大川内山

 

 

 

青磁から染付へ

それ以前の日本で最も高級な焼物とされていた
のは、江西省景徳鎮から輸入した中国磁器でし
たが、15世紀までは緑色や青の釉薬がかかった
「青磁」と呼ばれるものが主なものでした。

 

その後、呉須を使って藍色の模様を描く「染付
(中国では青花磁器)」が作られるようになり
16世紀になると、こちらの方が主流となります。

 

中国磁器は日本の大名などにも人気で、
競うようにして買い求めたであろうことが
各地の城跡からこれらの、中国磁器が
多く発掘されることからもわかります。

 

 

「色絵魚介文鮑形鉢〔天啓赤絵〕」 明時代
17世紀前半 幅27.0㎝(写真/「日本民藝館」)

 

 

また日本だけではなくヨーロッパへも
ポルトガルやオランダなどが大量の
景徳鎮の磁器を運んでいました。

 

それまで陶器しかなかったヨーロッパ
でも、磁器は魅力的に映ったのでしょう。
王侯貴族が競うように買い求めます。

 

しかし景徳鎮の高価な染付磁器を購入できるの
は、ほんの一握りの権力者に過ぎなかったため
より安価な磁器が福建省南部の青洲窯で作られ
日本にも入ってくるようになりました。

 

 

「染付山水図大鉢(そめつけさんすいずおおばち)」
初期伊万里 江戸 重要文化財
(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

肥前では色絵が焼けない…

そのような中、朝鮮人陶工の手により肥前で初めて
磁器が作られるようになったのが1610年代のこと。
この頃のものは景徳鎮の磁器に比べて厚手で
あり、「初期伊万里」と呼ばれています。

 

1630年代には青磁も作られるようになりました。
これらは1300度以上の高火度で焼く磁器
ですが、まだ赤や緑、黄色などの多彩な
色絵はありませんでした。

 

景徳鎮の中で最も価値のある磁器とされて
いた色絵は、景徳鎮に続いて作られた
福建省南部の青洲窯でも作られるように
なり、ベトナムへも伝播していました。

 

ところが朝鮮では色絵は焼かれていなかったため
朝鮮人陶工の手によって作られるようになった
肥前磁器は、色絵を作ることができなかったのです。

 

 

「染付大根」鍋島焼 (写真/「佐賀藩鍋島家  徴古館」

 

 

 

「染付」作りの工程

ここで少しだけ磁器の作り方を説明しますと
呉須を使って藍色の模様を描く「染付」の場合は
以下のような工程で作られます。

 

1 粘土で形を作る
     ↓
2 素焼きをする
     ↓
3 呉須で絵を描く
     ↓
4 透明な釉薬を掛ける
     ↓
5 本焼きをする(1300度)

 

「釉薬(ゆうやく、うわぐすり)」とは、
灰や土などを水に溶いたもので、これを器に掛けて
焼くと、表面がガラス状のもので覆われます。

 

 

「色絵蓮池翡翠文皿」 江戸時代 17世紀中期
径36.4㎝(写真/「日本民藝館」)

 

 

 

「色絵」作りの工程

それに対して色絵の場合は、5までは一緒
ですが、それ以降に色を使って絵を描いて
もう一度焼く工程が加わります。

 

6 様々な色で模様を描く
     ↓
7 上絵焼成(800度前後)

 

というように、色絵を描いた後にもう一度、
焼成するのですが、本焼きの1300度とは
違って800度ほどの低火度。
低温で焼き付けることにより顔料が美しく発色します。

 

 

「色絵葵文皿 」鍋島焼 東京国立博物館

 

 

 

1646年に色絵が完成

1644年に中国磁器が日本に入らなくなり
鍋島焼を作るために、鍋島藩が自ら
藩窯を作ったのが1650年代とされています。

 

そのような中で1646(正保3)年、日本の色絵磁器
作りに初めて成功したのが初代・酒井田柿右衛門です。

 

伊万里の陶器商人だった東嶋徳左衛門(とうじま
とくざえもん)が長崎の中国人から色絵の秘術を
教えてもらい有田の柿右衛門に伝えました。

 

 

現在の柿右衛門窯(写真「プレミスト」)

 

 

当時、年木山(としきやま)にいた初代・柿右衛門
の酒井田喜三右衛門(さかいだきざえもん)は
教えてもらった色絵を試してみたのの、最初は
ななかなか思うようにいかなかったようです。

 

呉須権兵衛(ごすごんべえ)と共に工夫を重ねて
中国から技術を導入した後、柿右衛門は
1646(正保3)年に色絵を完成。

 

色絵(赤絵)の技術は急速に有田と
その近辺に広まっていきました。

 

 

「色絵荒磯文鉢」金襴手 江戸時代 18世紀
根津美術館蔵(写真/「根津美術館」)

 

 

 

柿右衛門様式

中国の輸出禁止により景徳鎮の磁器が手に
入らなくなったヨーロッパへ、それにかわる
ものとして、有田の磁器がオランダ東インド
会社により輸出されるようになります。

 

中でも柿右衛門の色絵(赤絵)は
大人気で、1670年から1690年代にかけて
「柿右衛門様式」は大流行しました。

 

赤や金色を多用した豪華な色絵は、中国の
明の時代に「金襴手(きんらんで)」と呼ば
れた様式をお手本としたもので、現在は「
古伊万里様式」と呼ばれているものです。

 

18世紀になるとヨーロッパ各地の窯が「柿右衛門
様式」を真似た焼物をつくるようになりました。
オランダのデルフト、ドイツのマイセン、
フランスのシャンティーなどの
「柿右衛門写し」は有名です。

 

 

壺 酒井田柿右衛門(出光美術館)

 

 

 

将軍の「鍋島」、王侯貴族の「柿右衛門」

肥前藩鍋島家を始め国内の大名家からも
注文を受けていたとはいえ、柿右衛門は
やはりヨーロッパで絶大な人気を誇った磁器。

 

鍋島と柿右衛門について
大橋康二氏は次のように述べています。

 

「日本の磁器で最も昇華された双璧が
鍋島と柿右衛門である。
鍋島が将軍のために作られた磁器であるのに対して、
柿右衛門は欧州王侯の求めでできたともいえる。
つまり、鍋島は将軍献上を主奥的とした
日本人の美意識に基づくのに対し、柿右衛門様式は
欧州王侯の求めで出来上がったために、ヨーロッパ人
の美意識が強く反映されたものと考えられる。」
   (大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」雄山閣)

 

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