「上野凮月堂」「東京凮月堂」「神戸凮月堂」

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「凮月堂」はいくつある?

前回、ミルフイユを御紹介していて初めて知った
のですが、千疋屋には「千疋屋総本店」「銀座千疋屋」
「京橋千疋屋」と3つの千疋屋があるということでした。

 

そういえば一昨年、「神戸凮月堂」の
ミニゴーフルを御紹介した時にも、複数の
凮月堂があると知って驚いたものでしたが。

 

失礼な話なのですが、その時まで私は
「神戸凮月堂」というお店の名を知らずに
「凮月堂」といえば上野だと思い込んでいたのです。

 

 

140830hugetudoミニゴーフル「神戸凮月堂」

 

 

初代の凮月堂からの流れを汲むお店は
「上野凮月堂」のみだそうですが、その他にも
のれん分けをした凮月堂もあります。

 

なかには全く関係がないのに凮月堂を
名乗るお店もあるそうですが。

 

 

 

「凮月堂総本店」

「凮月堂総本店」の創業は1747年(延享4年)と
いうことですので、今から260年以上も
前のことになります。
時は江戸時代、第9代・徳川家重の治世。

 

後に大住喜右衛門と改名する小倉喜右衛門が、
江戸には上方にあるようなおいしいお菓子が
少ない、江戸で美味しいお菓子作りたい、
との志をもって大坂から江戸にやってきます。

 

その思いをお店の名前に込めたのでしょうか、
宝暦年間に江戸は京橋に開いたお店の名前は
「大坂屋」でした。

 

 

hiroshigekyobashi歌川広重「京橋竹がし」

 

 

 

養女・恂は水野忠邦の生母

「大坂屋」の初代・喜右衛門は子どもに恵まれ
なかったため、姪の恂(じゅん)を養女にします。

 

恂は喜右衛門の家から、唐津藩主水野家に
奉公に上がり当主、水野忠光の側室となり
1794年に男子を出産。

 

その子が後の老中水野忠邦ですが、彼は18歳の
時に、家督を相続し肥後唐津藩主となります。

 

その後、宿下がりとなった母・恂は養父、
喜右衛門の家にもどり婿を迎えて「大坂屋」
のお店をもりたてていきました。

 

 

           2代目・喜右衛門
小倉喜右衛門       |
  |_ _ _ _ _ _ _ _ _ _    恂(養女)
  |          |———水野忠邦
  妻        水野忠光

 

 

 

水野忠邦の縁から松平定信に屋号を賜る

肥後唐津藩主となった水野忠邦は
生母である恂の夫・二代目喜右衛門を
お出入り菓子商人として引き立てます。

 

評判を呼ぶようになった大坂屋は、諸大名家への
出入りも許されるようになっていきました。

 

当時、筆頭老中を引退していた松平定信は
喜右衛門の誠実な人柄を愛で 、

 

「汝の心事の清白なるを愛する。
これをもって屋号とせよ」
と「凮月堂清白」の五文字を賜ります。

 

 

hugetudorogo

 

 

「凮月堂清白」とは、蘇東坡(1036~1101年)の
「後の赤壁の賦」の中にある「月白風清」の語。
その上「凮月」というのは松平定信の
雅号でもあったのです。

 

これを喜んだ水野忠邦は、名書家・市河米庵に
「凮月堂」と、巨大な白布に揮毫させ店頭に掲げる
ようにと伝えたことから、「大坂屋」は「凮月堂」
となり、小倉姓も大住姓に改めました。

 

「凮月堂」の名を与えた松平定信は
1829年に亡くなります。

 

「上野凮月堂」は大恩人である松平定信
の命日には今でも、ゆかりのお菓子
「かぼちゃ菊」をお供えしているそうです。

 

 

all-270x200松平定信の命日に献納する「かぼちゃ菊」
中にあんが入った落雁

 

 

 

五代目の三子により「上野凮月堂」が誕生

「凮月堂総本店」の流れをくむ「上野凮月堂」
は、1905年五代目喜右衛門の三子である
大住省三郎が開きました。

 

(「株式会社 上野凮月堂」
東京都台東区上野1丁目20-10 tel.03-3831-1111
代表取締役社長 大住祐介 )

 

現社長名からもおわかりの通り、大住喜右衛門からの
「凮月堂総本店」の歴史を継承するのは現在では
この「上野凮月堂」のみということ。

 

一方、「凮月堂総本店」は代を重ねるうちに
跡継ぎの夭折が続き九代目・喜右衛門を最後に
11950年代から休業になっています。

 

 

140830hugetudosabureミニゴーフル「神戸凮月堂」

 

 

 

「米津凮月堂」がのれんわけ

1872年(明治6)には当時の番頭であった米津松造が
「凮月堂総本店」からのれんを分けてもらったのが
「米津凮月堂」です。

 

また「凮月堂総本店」の承認のもと「米津凮月堂」
からも、「神戸凮月堂」「長野凮月堂」
「甲府凮月堂」がのれん分けをされています。

 

以前、御紹介したミニゴーフルの「神戸凮月堂」は
「米津凮月堂」からののれん分けだったのですね。

 

 

140830sabureミニゴーフル「神戸凮月堂」

 

 

 

「米津風月堂」→「東京凮月堂」

「米津凮月堂」の米津松造は、二男に西洋料理店を
銀座に出店させましたが、次の代の米津修二で
経営権を失ってしまいます。

 

その銀座のお店の新たな経営者が
現在の「銀座凮月堂」となっています。

 

戦後、米津修二は再び銀座のみゆき通りに
出店するも経営破綻。
これを受け継いだ経営者が
現在の「東京凮月堂」ということです。

 

 

         1905年 上野凮月堂
*         
凮月堂総本店—————————————1950年代休業
    |
  (のれんわけ)
 1872年 米津凮月堂 → 東京凮月堂
      |     (経営破綻により)——
    (のれんわけ)
    神戸凮月堂、長野凮月堂、甲府凮月堂———

 

(「株式会社 東京凮月堂」
東京都中央区日本橋2丁目2-8 tel.03-3542-3281
代表取締役社長 高瀬晃裕

 

「株式会社 神戸凮月堂」
神戸市中央区元町通3丁目3-10 tel.078-321-5555
代表取締役社長 下村治生           )

 

 

160503hugetudooguramatya小倉抹茶ケーキ「東京凮月堂」

 

 

 

恂と2つの家

「凮月堂」のもととなったお店「大坂屋」初代の
養女である恂が水野忠光の側室となり生んだ子が
後の藩主・水野忠邦でした。

 

「上野凮月堂」のサイトには、
自分の子が家督相続をして藩主となったのを
見届けた後に、恂は「当時の習わしとして
宿下がりをした」との記述があります。

 

将軍家ですと、次の代の将軍を生んだ側室は
「御生母様」、「御腹様」として大奥で権勢を
振るうようですが、大名家では、また少し
様子が違うのかもしれませんね。

 

恂さんは、水野家の跡取りを生んだ後に家に帰り
今度は、家業の二代目となるべく婿を迎える
というように、2つの家の存続のために
大活躍をした女性だったようです。

 

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