「ネオリベラリズム」と「リベラリズム」

「KASUGA, Sho 2020年9月17日

ややこしいんですが、『ネオリベラリズム』と
『リベラリズム』は米国において逆のサイドを
示す概念なんですよ。
元々『リベラル』(自由主義)というのは、
『人間は絶対王政から自由だ』という主張なんですね。
王権というのは臣下の身体の自由や財産、場合に
よっては命を奪う権利を持っているわけですが、
そうではなくて、それらは本人の自由に帰するべきだ、
というのが『リベラル』の(欧州における)原義です。
それに対して、身体が自由でも、衣食住や医療が保障
されていない人生は惨めではないかということで国家は
それらも保障すべきであるという議論が生まれてきます。
こういう権利を社会権といい、これらの権利を積極的に
主張する政治勢力を Social とか Socialism とかいうわけです。
一方、アメリカではこう言った主張をする人々がなぜか
『リベラル』と呼ばれます。
原因は複合的だと思いますが、元々王権とか専制政治から
の『自由』を主張する必要がなかったので、わざわざ
『リベラリズム』という必要がなかったというのが一つ。
それと、この欧州大陸では Social と呼ばれる主張は、
英語圏では英国の思想家アイザイア・バーリンの用語で
『積極的自由』と呼んだ、というのが一つ。
専制君主からの自由が『消極的自由』、それに対して
衣食住の足りた、人間としての権利を認められた生活
をする自由が『積極的自由』という区分ですね。
なので、米国で『リベラル』と呼ばれる主張は、
欧州では『ソーシャル』と呼ばれます。
日本の知識人は長く欧州、特に独仏の哲学者の影響を
受けてきましたから、昭和の時代まではこの区分が
定着していました。
ところが、多分ここ20年ぐらいだと思いますが、
米国風の『リベラル』という呼び方が台頭してきた。
これは多分、若手の政治家に米国留学経験者が増えて
きたというのが理由なのかな、と思っていますが、
よくわかりません。
いずれにしても現在の日本では『リベラル』という
言葉は全く真逆の思想のどちらかを示す言葉になっ
ちゃってるので、使わないのが賢明です。
一方、ネオリベラルは経済学史的な事情から
使われている言葉です。
元々資本主義というのはアダム・スミスやリカード
のような古典派経済学をもとに作られていたわけです。
これは、国家はなるべく市場に介入しない方がいい
ということで『リベラル』と親和性が高い。
しかし、1930年代以降、ケインズ派の経済学が
各国で台頭します。
これは、市場それ自体ではある種の不況を解消できない
ので、国家は一定の介入が必要だということで、
マルクス主義的な経済と自由主義的な経済の中間ぐらい
のものと考えられていました。
しかし、戦後、特にサッチャーとレーガンが支持した
ことによって再び古典派の、『市場に介入すべきではない』
論が盛り返します。
これを『ネオリベラリズム』と呼んでいるわけです。
この名称は、おそらく米英両首脳に支持されたチリの
独裁者ピノチェトが、シカゴ大学の経済学者グループ
の支援を受けて実施した経済政策がそう呼ばれたこ
とに機嫌を持ちます。
なので、『リベラル』と『ネオリベラル』は(究極的な
ルーツは一緒と言えるかもしれませんが)全く別の発達
の上に使われている言葉なわけです。
もうちょっというと、Socialism の中の『衣食住が平等に
満ち足りていることが大事だ』だけを煮詰めていくと
一般に Communism と呼ばれるものになる。
ここでは、共同体の原理は個々人の衣食住、つまり
社会権を保障することが大事で、そのためには自由権は
一定の制限を加えられることになる。
それでも、それが制度的に行われるならば、気まぐれな
専制君主によって自由が奪われるよりは、党や国家に
よって奪われた方がいい、と考える人がいることは一定
の理解ができる。
日本でもかつての東北の寒村に生まれ、友達や姉妹が
売られた、みたいな経験を持つ層にこうした考え方は
支持される。
だから、現代の我々から見ると、そういった若者で
ニニ六事件に連座する極右の青年将校と、ソ連に期待
した若者との思考は割と似ているように見える。
で、『リベラル』というのは、一方では国家主義は
いけないと思っていて、貧困問題にも相応の関心は
あるけど、どちらかといえば自由な経済がそういった
貧困層の救済には近道だ、という風に考えた、
中道右派の人々を指す言葉だったわけだよね。
当時の具体例を挙げれば、尾崎行雄とか高橋是清とか。
その記憶もあるために現在『リベラル保守』みたいな
わけのわからない言葉が使えてしまう。
欧州基準で言えばリベラルは保守(から国家主義者を
抜いたもの)とほぼ同義であり、米国流の言い方を
採用するならリベラルは保守ではない。
意識しているかはわからないが、どちらの意味で
使っているのかを曖昧にするためにやっている
としか思えない。

追記。共産主義は自由を放棄するのか、ということ
だけど、現代の少なくとも西側先進国の共産党は
『暴力革命、プロレタリア独裁、民主集中制』と
いった綱領を撤回して自由と平等のバランスに
配慮するようになっている。
こういうのを(西ヨーロッパで発達したので)
『ユーロコミュニズム』と呼ぶ。
日本の共産党はこの三つで言えば、民主集中制は
撤回していないので、ユーロコミュニズムと
ソヴィエト型共産主義の中間の、ちょっとユーロより、
ぐらいの位置にいると考えればいいんじゃないかと思う」

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