加賀藩3代藩主・前田利常(2/3) 「肥後殿のおどけ」  

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

    前回の続きです(「加賀藩3代藩主・前田利常」

 

 

再び謀反の嫌疑

利常の代にも前田家は、家光から謀反の嫌疑をかけらます。
幕府の許可なく金沢城の修復をしたり、
軍船を多数買い入れたりした等のことがその理由。

 

家光に弁明を願い出るも拒否された利常は、加賀藩で最も
弁の立つ家老の横山康玄(やすはる)を江戸に送り、全てを
認めた上で、しかし謀反とは無関係であるとの説明をします。
驚くべきことに、これが受け入れられました。

 

お取り潰しになった他藩より、はるかに疑われても仕方
のない状況にもかかわらず受け入れられたのは、一説
には賄賂ともいわれますが、証拠はなく不明です。

 

そしてこの時も、幕府から一つの条件がつけられました。
それは利常の次の4代藩主・光高に、家光の養女・大姫
(水戸藩・徳川頼房の娘)を迎えるようにとのこと。

 

この後も、光高の子・綱紀には家光の弟・保科正之の
娘を正室にというように、歴代藩主の正室を徳川家
から迎えることが多く重ねられています。

 

 

 

 

 

「空から謡が降ってくる」といわれた金沢

加賀藩のとった文化政策も幕府の警戒心を解くため
ともいわれますが、どうであったにしろ結果として
素晴らしい工芸作品等を生み出したことは事実です。

 

2代・利長の代に作られた「御細工所(おさいくしょ)」
と呼ばれる武具管理用の藩のお抱え作業所を、利常は美術
工芸品製作所に変え、京都から優れた工芸作家を招聘。

 

手がけられたものは、絵細工、漆工、象眼、鍛冶、
各種金具など多岐にわたり、また「加賀宝生」と
いわれるように、宝生流のお能も盛んでした。

 

 

 

 

「改作法」

また塩の専売制をしいて塩の生産を高めたり、1651
(慶安4)年から1656(明暦2)年にかけて利常は
「改作法」と呼ばれる藩政改革にも取り組みました。

 

実はこの時期、藩主は5代・綱紀だったのですが
4代・光高が早世したため、利常が幼い綱紀の後見をして
いた時の施策で、後に成人した綱紀が引き継いています。

 

「改作法」は。窮乏していた百姓に、藩庫の米銀を貸し与え
他から借りることを禁じ、今まで家臣たちが行なっていた
年貢米の取り立てを、藩が直接に行うという画期的なもの。

 

こうした優れた利常の治政から、加賀藩は
「政治は一加賀、二土佐」といわれるまでになりました。

 

 

 

 

 

「鼻毛大名」「〇〇大名」

「政治一は加賀」といわれた利常ですが、当時
「もっとも奇行の激しい殿様」あるいは
「江戸城内でも常に変人扱いされていた」といいます。

 

家臣が止めるのも聞かずに鼻毛を伸ばしていることから
「鼻毛大名」と呼ばれたり、長期間下屋敷から出仕
せず、久しぶりに登城した際に、咎められた利常は

 

殿中であるにもかかわらず突如、袴をめくって
「年をとるとここの調子が悪くなって仕方ない」と言い訳
をしたことから「〇〇大名」とあだ名がついたほどでした。

 

 

 

 

 

「馬鹿殿様」を演じて

この他にも頭巾着用禁止の室内で平然をかぶっていたり、
「小用禁止、罰金を科す」と書いてあるところで
堂々と用を足した後に小判を投げるといった具合。

 

このような数限りない「馬鹿殿」ぶりは様々な文献
に記録され「肥後殿のおどけ」と呼ばれていました。

 

『微妙公直言』には、利常は常に髪の毛を乱して目を白黒
動かしながら早口で話してみせた、とも記されています。

 

 

 

 

 

「傾奇者(かぶきもの)」

しかしもちろん、これは利常の演技。
鼻毛の件を注意された時に利常はこう答えています。

 

「利巧面(りこうづら)をしていては、またどんな
無理難題をふっかけられるかもしれぬ。無能な顔をして
人々が安心するからこそ百万石は安泰なのだ」と。

 

金沢城の改築等で謀反の嫌疑をかけられた時に
幕府が得ていた情報の正確さは、加賀にスパイ
を置いていることを物語っています。

 

利常が藩主として有能であればあるほど
幕府に目をつけられるのは必定、である
ならば、いっそ悪目立ちをしてしまおうと。

 

とはいえ、いやいや馬鹿殿を演じたとも思えません。
「傾奇者(かぶきもの)」としての利常の傾(かぶ)き方
だったのではないかという気もします。

 

 

 

 

 

世が世ならば

「肥後殿のおどけ」といわれた利常は、このような
本音を、側近・藤田安勝に漏らしたりもしています。

 

「太閤時代には徳川家と前田家は同格だった。
たまたま家康が長生きして天下をとっただけだ」と。
              (『微妙公卿直言』)

 

死を間近にした家康の気がかりは、有力外様大名の
ことでしたが、秀吉のそれはまだ幼い秀頼のことでした。

 

「かえすがえす秀頼の事頼み申しそうろう」と書き残した
秀吉が、秀頼の補佐役として選んだ五大老が前田利家、
徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の有力大名。

 

 

 

「唐物茄子茶入れ  富士(からものなすちゃいれ  ふじ)」
高5.5cm 口径3.7cm 胴径7.1cm 底径3.0cm
南宋(1101〜1300) 前田育徳会所蔵

 

 

 

五大老の筆頭

中でも信頼していたのは前田利家といわれています。
秀吉は死の前年に、信長から伝えられた「富士茄子」
と呼ばれる茶入れを利家に贈っています。

 

足利将軍・義輝所持していたと伝えられる大名物で
曲直瀬道三(1507〜1595)、織田信長(1534〜1582)、
を経て秀吉(1536〜1598)のもとにあった、この天下人
から天下人へ伝えられた「富士茄子」を渡した相手は利家。

 

秀吉が、1598年8月に死去した翌年の元旦、
伏見城には秀吉の後継である秀頼への
新年の挨拶のために、諸大名が集まりました。

 

病をおして出席した利家が、6歳の秀頼を抱いて
現れ、秀頼の後見としてともに着席したさまは、

 

「諸大名はまさに利家に拝謁しているようであった」
と『関ヶ原集』には記されています。

 

 

 

 

 

 

たまたま徳川の世になり、たまたま藩主となった利常。
好むと好まざるとにかかわらず、利常が藩主と
なった前田家は、たまたま大大名だったのです。

 

利常は現世で巡り合わせた、このたまたまの
必然を、全力で駆け抜けたように思えます。

 

時には忍辱の衣を着て、また別の時は
おどけた変人の傾奇者(かぶきもの)として。
そのどちらも紛れもない利常だったのではないしょうか。

 

 また長くなってしまったので次回に続きます。
 ごめんなさい、次回で最後です。

 

スポンサードリンク




加賀藩3代藩主・前田利常(1/3)

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ

 

 

 

関ヶ原の戦いの数年前に生まれた前田利家の四男

加賀藩3代藩主の前田利常は、息子の大聖寺藩・初代藩主の
前田利治に九谷焼の窯を築窯させ、長崎にお買物師を常駐させ
オランダのデルフト焼を日本で初めて注文した大名です。

 

注文は4代藩主の光高の名で行われましたが、実際のところは
顧問を務めていた利常の指図のもとで行われ、利常は手に入れ
たデルフト焼の意匠を九谷焼の参考にしたともいわれます。

 

利常が前田利家の四男として、利家の正妻・まつ(芳春院)
の侍女だった千代(寿福院)から生まれた時、将来
利常が藩主になろうとは、誰一人思いませんでした。

 

 

まつ(芳春院)

|ーーー利長(長男) 2代藩主

|ーーー利政(二男) 七尾城主

|ーーー幸姫(長女) 前田長種に嫁ぐ

|ーーー蕭姫(二女) 中川光重に嫁ぐ

|ーーー摩阿姫(三女 )秀吉の側室、後に
|           万里小路充房に嫁ぐ

|ーーー豪姫(四女) 秀吉の養女となり
|          宇喜多秀家に嫁ぐ

|ーーー与免(五女) 浅野幸長と婚約するも
|          若くして亡くなる

|ーーー千代姫(六女) 細川忠隆に嫁ぎ、
|           後に村井長次に嫁ぐ

—————————————————–
*前 田 利 家(1537〜1599)1538、39年生説も
—————————————————–
 |     |     |     |
 |ー知好  |ー利家  |ー利孝  |ー利貞
 |(三男) |(四男) |(五男) |(六男)
 |     |     |     |
金晴院   寿福院   明運院   逞正院

 

 

利常が生まれた時に父・利家は56歳。
誕生のしばらく後、まつ(芳春院)の長女・幸姫と夫・
前田長種のいる越中守山で養育されることになりました。

 

父と初めて会ったのは、長種のもとにいた
1598(慶長3)年、利常が5歳の時。
その翌年に、利家は亡くなりなっています。

 

 

 

利常がオランダのデルフトに注文したといわれる
「和蘭陀白雁香合(おらんだはくがんこうごう)」
石川県立美術館

 

 

 

前田利常(まえだとしつね 1593〜1658)

幼名は「猿千代」、初名は「利光」。
1605(慶長10)年、2代・利長が隠居し、利常が藩主に。

 

1623(元和9)年に、3代将軍・家光が就任後、
1626(寛永3)年、「光」の字が名前の下になるのは無礼
ということから、諱(いみな)を「利常」に改めます。
同年、従三位権中納言。

 

1639(寛永16)年に隠居をして、小松城。

 

1645年(正保2)年に、4代・光高が急死。
5代・綱紀が3歳だったことから、家光の命令で後見人に。
綱紀の正室に家光の弟である保科正之の娘・摩須姫を迎える。

 

1658(万治元)年、66歳で死去。
法号は微妙院。

 

 

 

 

謀反の嫌疑をかけられ、まつは人質に

1599(慶長4)年の利家の死後、半年ほど経った頃のこと
2代藩主となっていた利長が家康の暗殺を企てている、
との密告により、家康は前田家征伐の意思を表明します。

 

これに驚いた利長は、嫌疑を晴らすために使者を家康
のもとに送り、母のまつを人質として家康のいる江戸へ
送るということで解決をみました。(『前田家雑録』)

 

まつは翌1600(慶長5)年に
「侍は家を立てることが第一。されば我を捨てよ」
              (『加賀藩史料』)
と言い残して江戸にたち15年間の人質生活を過ごします。

 

金沢にまつが戻ったのは、1614(慶長19)年、68歳の時。
1615(元和元)年に豊臣氏が滅亡し、その2年後の1617
(元和3)年に秀頼の妻に会った後、71歳で亡くなりました。

 

 

 

 

 

利常は丹羽長重の人質に

1600(慶長5)年9月、関ヶ原の戦い直前に起きた
前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の浅井畷の戦いの後、
敗北した長重は東軍との講和を望んだだめ、利常は人質
として長重の元に送られることとなりました。

 

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、利長は東軍につき、
弟の利政は西軍でしたが、利長が東軍についたことを重く
みた家康は、32万石から120万石へと前田家を加増。

 

家康はその際、利長に条件をつけたといいます。
「利長は隠居し、家督は利常に譲る」ことと、
「利常は家康の孫娘を正室とする」ことを。

 

 

 

 

 

家康の孫娘との婚姻、3代藩主になる

1601(慶長6)年、利常は兄・利長の嗣子となり名を
「利光」と改め、家康の孫娘である秀忠の娘を迎えます。
その時、利常は7歳、珠姫にいたってはわずか3歳でした。

 

そして4年後の1605(慶長10)年6月、利長は10歳を過ぎた
利常に家督を譲り、自らは20万石の富山城主として隠居。

 

大坂冬の陣の前年にあたる1614(慶長19)年、
利長は豊臣方に味方につくよう説得されます。

 

 

 

 

その時、利長は「自分は味方するが、利常は徳川の婿に
あたるので味方できない」と繰り返し答えたといいます。

 

徳川から正室を迎えた藩主の立場を配慮する利長は、幕府から
再び謀反の嫌疑をかけられるのを恐れて、20万石も自ら返上。

 

また冬の陣の直前には、らい病で身動きすらできない体
をおして、自らの身柄を京都所司代に預けようとした利長は
冬の陣の直前、1614(慶長19)年5月に亡くなりました。

 

 

 

 

 

家康の気がかりは有力外様大名

1614(慶長19)年の大坂冬の陣、翌1615(元和元)年
の夏の陣により豊臣家は滅亡します。

 

1616年には天下統一を果たした家康が、死を迎える際
に気がかりだったのは、有力な外様大名のこと。
利常を臨終の床に呼び寄せた家康はこういったといいます。

 

「お前をなんども殺してやろうと思ったが、利常に嫁いだ
珠姫の父・秀忠が反対するので助けてやったのである。
これを恩義に思って秀忠に使えるように」と。
                 (『拾纂名言記』)

 

 

 

 

この時に利常と同じ豊臣の家臣であった外様大名の
肥後藩主・加藤忠弘と、安芸藩主・福島正則も
家康に呼ばれて同様の言葉を伝えられています。

 

二代将軍の秀忠の時代に、52万石の加藤忠弘が、
三代将軍の家光の代には、50万石の福島正則が
それぞれ改易されていますので、120万石の前田家が心穏やか
ならぬ日々を過ごしていたのは想像にかたくありません。

 

そして案の定といいますか、三代・家光の代に
再び前田家に謀反の嫌疑がかけられてしまうのですが
長くなりましたので、それは次回にお話ししましょうね。

 

   (参考/宮元健次「加賀百万石と江戸芸術
     前田家の国際交流」人文書院 2002
    磯田道史『殿様の通信簿」新潮社2006)

 

スポンサードリンク




「古九谷」 前田家と鍋島家の繋がり

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

次郎左衛門雛 加賀藩前田家「成巽閣」

 

 

 

古九谷と鍋島家の関係

今回は、前回の古九谷論争に関して
触れられなかった部分をご紹介します。
「古九谷論争『古九谷の真実に迫る』から」

 

九谷焼は、加賀藩とその支藩である大聖寺藩の
二つの前田家なくして語ることはできませんが、
実はそれに加えてもう一つの家が関わっていました。

 

それは日本初の磁器、有田焼をつくりだした
ともいうべき佐賀(肥前)藩の「鍋島家」です。

 

 

 

伊万里焼「色絵蓮池翡翠文皿」
江戸時代 17世紀中葉 径36.4㎝ 日本民藝館

 

 

 

「鍋島焼」「伊万里焼」「有田焼」

この3つの名称について、混乱があるといけません
ので、最初に言葉の説明を簡単にしてみましょう。
九州の有田で焼かれているものは有田焼と呼ばれます。

 

江戸時代、有田焼は伊万里津(港のこと)から出荷
されたので「伊万里焼」ともいうようになりました。
ということで「有田焼」=「伊万里焼」ですね。

 

また有田焼の中でも、鍋島藩が商品としてではなく
将軍家へ献上等のために、藩窯で独自に焼かせた
ものを指して「鍋島焼」といいます。

 

(ただし「鍋島焼」の名称は大正時代以降にできたもの
で当時、鍋島藩内では「大河内焼(おおかわちやき)」
「大河内御磁器」といわれていたといいます)

 

現在は鍋島藩窯はありませんが
鍋島焼という名称は残り焼かれています。
今回のお話は勿論、鍋島藩窯の鍋島焼のこと。

 

 

 

鍋島焼「色絵宝尽文皿 」
ロサンジェルス・カウンティ美術館

 

 

 

磁器づくりのきっかけは鍋島直茂から

日本で初めて焼かれた磁器の有田焼は、鍋島直茂が1592年
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、捕虜として連れてきた
朝鮮人陶工・李参平(鐘ケ江三平)がつくりました。

 

佐賀藩の鍋島藩窯は、1652〜1654年(承応年間)に
有田の岩谷河内(いわやごうち)に御用窯を作り、
1661〜1672年(寛文年間)に伊万里の
大川内山(おおかわちやま)に移転しています。

 

1651(慶安4)年6月に、徳川家光の内覧を受けた後、
鍋島焼が正式に献上されていますので、その時点では
もう実質、鍋島藩窯はできていたことになります。

 

 

 

鍋島焼「青磁染付桃文皿」
元禄(1688-1704年)
口径14.7cm 高3.7cm 高台径7.4cm

 

 

 

佐賀藩 初代・勝茂、2代・光茂

朝鮮出兵の際に朝鮮人陶工を連れ帰った鍋島直茂は
肥前佐賀の領主として鍋島家の基礎を築いた「藩祖」
とされており、初代藩主は、直茂の子・勝茂。
勝茂の正室は秀吉の養女で、側室は家康の養女です。

 

勝茂の子・忠直は20代の前半に亡くなったこと
から、2代藩主は、忠直の子・光茂が継ぎました。
光茂の正室は米沢藩2代藩主・上杉定勝娘の虎姫。

 

鍋島直茂(1538-1618) 朝鮮人陶工を連れてきた
1勝茂(1580-1657) 鍋島藩窯を作った
* 忠直(1613-1635)
2光茂(1632-1700)

 

 


鍋島焼「色絵野菜文皿」
江戸時代前期 出光美術館蔵

 

 

 

初代・勝茂の娘の子「虎」が、2代藩主・光茂の妻

佐賀藩初代藩主・勝茂の娘「市」は、出羽米沢藩・2代藩主
の上杉定勝に嫁ぎ、「徳」と「虎」という娘をもうけます。
定勝には、市が母親ではない「亀」という娘もいました。

 

 

 鍋島直茂(1538-1618)
     |
 1勝茂(1580-1657)
     |
      _______
     |      |   米沢藩2代藩主
  忠直(1613-1635) 市ーーーー上杉定勝ーー◯
     |        | |     |
     |              
     |
     |
 2光茂(1632-1700)ーー
            |
            |
       3綱茂(1652-1707)

 

 

市の娘「虎」は、2代藩主となった光茂とは
いとこにあたりますが、光茂に嫁いでいます。
鍋島家からきた母の実家へ戻ったかたちになりますね。

 

ここまででは前田家は登場していませんが、虎の姉・徳
と、妹・亀の二人が前田家に輿入れをしているのです。

 

しかも、大聖寺藩の初代と2代藩主という兄弟に、
徳と亀の姉妹が嫁いだということになります。
それでは次に、前田家をみてみましょう。

 

 

九谷焼「百合図平鉢」
石川県九谷焼美術館蔵

 

 

 

九谷焼の窯を作った前田家

加賀藩前田家の4代藩主までの系図は以下の
通りで、前田利家の子・利長が2代藩主です。

 

3代藩主は2代藩主の弟・利常が継いでいます。
別の弟の利孝は、支藩の七日市藩の初代藩主。

 

加賀藩3代藩主の子、光高が4代で、
その弟・利次が、支藩である富山藩初代、
別の弟・利治も、支藩の大聖寺藩の初代となっています。

 

 

      1前田利家加賀
          |
          |
  ________________________________________________ 
* |   |   |    |   |   |
2利長  利政  知好  3利常  1利孝 利貞
加賀)          (加賀) 七日市
             |
             |
      _______________
     |    |    |    |
    4光高  1利次  1利治  2利明
     (加賀)    富山  (大聖寺)(大聖寺
                    |
                   3利直
                  (大聖寺

 

 

濃いブルーで表示をした、「利治」が藩主の
大聖寺藩が、古九谷を焼いた窯を作りました。

 

この大聖寺藩は、1871(明治4)年の廃藩置県で
大聖寺県となるまで(後に金沢県に編入され、
石川県と改称)14代にわたり前田家が治めています。

 

上の図から、七日市藩と富山藩を除いて、
九谷焼に関わる大聖寺藩と加賀藩のみ
を抜き出してみると下のようになります。

 

 

     1前田利家
       |
     ___________________
   |       |
   2利長    3利常 
           |
       __________
     |    |    |
    4光高  1利治  2利明
               |
              3利直

 

 

加賀藩の3代藩主・利常の子・利治が大聖寺藩の
初代となり、利治に子どもがなかったことから
2代は、利治の弟・利明が継ぎました。

 

 

 

九谷焼「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm
石川県九谷美術館蔵

 

 

 

加賀藩・利常の支援により大聖寺藩がつくった九谷焼

九谷焼の初期の作品、現在「古九谷」と呼ばれ
ているものが焼かれていたのは、大聖寺藩の
初代・利治と、2代・利明の兄弟の時代にあたります。

 

父である加賀3代藩主・利常の支援によって
利治、利明兄弟が関わったことになりますが
50年後に突然、窯は閉鎖。

 

その理由は不明ですが、大聖寺藩・2代藩主の利明の
死が影響したともいわれるほどで、加賀藩主の父と、
子の大聖寺藩主の利治、利明の強い関わりが伺えます。

 

 

 

「雛人形」次郎左衛門雛 佐賀藩鍋島家「徴古館」

 

 

 

「鍋島家」の二人の孫娘は「前田家」へ

古九谷の窯をつくった大聖寺藩の二人の
藩主に嫁いだのが、上杉定勝の娘でした。

 

初代藩主・利治の妻には「徳」、
2代藩主・利明には「亀」と。

 

家系図というのは、なんとも分かりづらいもの
ではありますが、前田家と鍋島家を並べて
書いてみました(余計、わからない?)。

 

 

 1前田利家
    |
    _______________
  * |      |
  2利長   3利常   
*        |
    ____________________________
*  |   |(大聖寺藩) |(大聖寺藩)
* 4光高  1利治ーー  2利明ーー
 

           
                          

 鍋島直茂             
  |                 
 1勝茂              
  |               
  忠直ーーー 市ーーーーーー上杉定勝ーー◯
  |         |  |       |
  |                  
** 
  |         
 2光茂ーー虎    

 

 

 


「雛人形」次郎左衛門雛  預玄院所縁(よげんいん)「成巽閣」
上の写真は「鍋島家」の、こちらは「前田家」のお雛様です

 

 

 

3姉妹の2人は「前田家」、1人は「鍋島家」へ

これを上杉定勝からみてみますと、娘の
徳の夫が、前田利治(大聖寺藩・初代藩主)
虎の夫が、鍋島光茂(佐賀藩・2代藩主)
亀の夫が、前田利明(大聖寺藩・2代藩主)となります。

 

 

* 鍋島勝茂の娘
  市ーーーーーーーー上杉定勝ーーーーーー◯
   |      |      |
   徳ー前田利治 虎ー鍋島光茂 亀ー前田利明

 

 

鍋島光茂からいいますと
前田利治(大聖寺藩・初代藩主)は、妻の姉の夫、
前田利明(大聖寺藩・2代藩主)は、妻の妹の夫、
ということ。

 

上杉家を間に挟んで、鍋島家と前田家の
深い繋がりが生まれることになったのです。

 

 

佐賀藩鍋島家の家紋「杏葉」

 

 

 

鍋島家と前田家と、それぞれの焼物

もっとも両家の親しい関係は、この婚姻によって
生じたというよりは、それ以前からの近い関係がこれら
の婚姻を成り立たせたという方が正確かもしれません。

 

加賀藩・2代藩主の利長の後を、利常が継ぎ
徳川秀忠の娘・珠姫を迎える際にも、前田利長は
慶事に必要な唐物を、鍋島勝茂に依頼しています。

 

前田利長とその子・利常が、鍋島勝茂と親交があった
事実に加え、複数の婚姻によって結ばれた両家の繋がり。
それは、それぞれの焼物にも影響を与えたと
考える方が、むしろ自然に思えます。

 

 

 

古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

 

スタートについた「古九谷論争」

これについて中矢進一(石川県九谷焼美術館副館長)氏
は「古九谷の真実に迫る」の中でこのように述べています。
多くの方も同じお考えと思われますので
これをご紹介して終わりましょう。

 

「それぞれを領する大名同士が姻戚関係にあった
 という歴史的事実、背景といったものを踏まえた
 上での論考というものが、必ずこれから以降は
 必要になってくるんだろうというふうに
 考えております」

「この問題は短兵急に結論を出す問題ではなくして
 両産地の、いわゆる交流のもとにそういった
 ものが生まれたんではないか、そしてこの加賀
 前田家という加賀文化を育んだ前田家を抜きに
 して、最高級品である古九谷の百花手だとかは
 (略)生まれてこなかったのではないかという
 指摘もされております。
 真の意味での古九谷、それは一体何か、
 これを探る作業が色々スタートしたんだ
 というふうにいえるのではないでしょうか」

 

     (参考 /「古九谷の真実に迫る」

 

スポンサードリンク