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以前は高橋是清邸
これは「高橋是清翁記念公園」にある高橋是清の像です。
現在、プルデンシャルタワーの建っている場所にあった
「幸楽」は「二・二六事件」の時に一躍注目を集めた建物だ
ということは、以前お話ししましたね。
その「二・二六事件」で暗殺された人
のうちの一人が高橋是清です。
この公園は当時、高橋是清の自宅でした。
76年前の今日、高橋是清は自宅の2階で暗殺されました。
正面の白い建物がプルデンシャルタワー
想像のできないほどの貧困の中で
たとえ何があろうと暴力、暗殺などは
許されることではありません。
しかし、この事件の背景には、現在の私たちでは
とても想像できないようなことが起こっていたのも事実です。
大凶作や天候等の影響で、農村は
筆舌に尽くし難い貧困に喘いでいました。
稗(ひえ)や粟(あわ)さえもなく、鶏のエサである小麦の皮の
ふすまや稗のぬか食べるしかない状態で、子どもを売る人も数知れず。
田舎からの手紙を深夜に読み、泣いている多数の下士官……。
プルデンシャルタワーが建つ前にあった料亭「幸楽」
年少の兵士によせる吉川英治の思い
高橋是清邸の近くに、当時の花形小説家である
吉川英治の家もあったそうです。
『赤坂物語』のなかで河端淑子はこんなことを書いています。
「吉川氏は暗殺された高橋氏に深く同情するとともに、
何もわからないまま決起部隊に動員されて、
叛乱軍の烙印を押されつつある年少の兵士を不憫に思われ、
首相官邸に閉じこもった決起部隊にキャラメルを慰問品
として幾箱も送り届けた」と。
現在は、江戸東京たてもの園に移築
この写真は、高橋是清翁公園の一部です。
高橋邸の敷地は、2千坪近くあったそうです。
現在はその敷地の一部が、公園になっていて
「二・二六事件」後に、高橋家から東京市に寄贈されました。
建物の一部は現在、江戸東京たてもの園
(東京都小金井市)に移築されて公開されています。
波瀾万丈の人生
私が高橋是清を意識するようになったのは、
2009年4月18日の朝日新聞に載った小さな記事がきっかけです。
磯田道史さんが書かれたものでした。
幕府の御用絵師、川村庄右衛門の家に行儀見習いの
奉公に行き、その主人に妊娠させられた15歳の少女。
彼女が高橋是清の実母でした。
彼は生まれてすぐ仙台藩の足軽・高橋家の養子になり
サンフランシスコに行くも、わからない英語でしてしまった
サインにより、高橋是清は奴隷に売られてしまいます。
その後いろいろなことを経て彼は、日銀総裁、
大蔵大臣、総理大臣に就任するまでになりました。
波瀾万丈を絵に描いたような一生だったようです。
生涯実母に会うことのなかった高橋是清
高橋是清は恰幅が良い人でした。
毎朝体重計に乗り、体重が少しでも増えていると
御機嫌だったといいます。
生後3、4日で実母と別れた高橋是清は
2歳の時に一度、母に会ったきりだそうです。
彼が9歳で母親を探し当てた時には、
既に母親は24歳で他界したあとでした。
この写真の旧高橋邸のお庭の木々を通して
向こうの敷地にある、白い建物が御覧になれるでしょうか?
カナダ大使館です。
そのうちにそちらも紹介しましょうね。