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母も、わが子も
平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」という言葉
がでるほどの権勢を誇る平家も、その後それほどの
年月を経ることもなく「驕る平家は久しからず」
(『平家物語』)と謳われる如くに滅びました。
前回(「平家の人々の言葉」)に登場した人の
中で、壇ノ浦の戦い後まで生き残っていた人は、
建礼門院(徳子)と後白河上皇、そして能登国に
配流された平時忠の三人だけです。
(1185年4月時点での生存者)
* 1181年没
* 平清盛
* |
* |—————————平徳子・建礼門院
* | |
* 1185年没 |
* 平時子 |
* | 1178〜1185年
* 平時忠 流罪 |——安徳天皇
* |
* 1176年没 |
* 平滋子・建春門院 |
* | |
* |—————————高倉天皇
* | 1181年没
* 後白河上皇
どちらにせよ
建礼門院(徳子)が生き残ったことについては
母の時子が安徳帝を抱いて入水したあとを追い
身を投げたものの助けられてしまったと
『平家物語』は記しています。
一方、同じ『平家物語』の別の章「大原御幸」には、
壇ノ浦で安徳帝を抱いて入水する時に、母の時子が
建礼門院(徳子)に、生き残って平家一門の
菩提を弔うよう命じたとの記述もあります。
どちらが事実なのかはわかりませんが、いずれに
せよ、自分の母(平時子)が、まだ幼い我が子・
安徳帝を抱いて入水する時に、一緒に死にたい
と思わなかったはずはないでしょう。
見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿
1185年3月24日の壇ノ浦の戦いの後、京に連れ
戻された建礼門院(徳子)は、5月に吉田の地で
出家をしましたが、2カ月後の大地震で建物が倒壊
したため、9月には大原寂光院に入ることになります。
今までの国母としての華やかな境涯から一転して、
寂れた住まいで「見忘るるさまに衰へはてたる
墨染めの姿して(見忘れるほどに衰えた尼姿で)」
(『平家物語』)3.4人のお付の者と暮らす日々。
そんな大原に後白河法皇が訪れてきた出来事を
お能では『大原御幸(または小原御幸)』
という演目にしています。
後白河法皇の養女として入内
壇ノ浦の戦い後、生存していた3人のうち平時忠は
能登に配流され、4年後に亡くなりましたが、
残った二人、建礼門院(徳子)と後白河法皇は
複雑な縁で絡み合った間柄ともいえるでしょう。
(1190年時点での生存者)
* 1181年没
* 平清盛
* |
* |————————平徳子・建礼門院
* | |
* 平時子 |
* 1185年没 |
* | 1178〜1185年
* 平時忠 1189年没 |——安徳天皇
* |
* 1176年没 |
* 平滋子・建春門院 |
* | |
* |——————— 高倉天皇
* | 1181年没
* 後白河上皇
徳子が、17歳で高倉天皇のもとに入内する時に
父の平清盛が武士だったため、後白河法皇の
養女というかたちをとって入内しました。
まだ12歳だった高倉天皇との間には、1178年に
憲仁親王(安徳天皇)が生まれすが、その時には
実父の清盛と、形式上の父であり舅でもあった
後白河法皇の間には暗雲が垂れ込めていたようです。
清盛は、高倉天皇を上皇にして院政を始めるように
と、わずか3歳の憲仁親王を安徳天皇にしましたが
それからほどなく高倉天皇は亡くなってしまいます。
後白河法皇の妃には……
高倉天皇の崩御のすぐあとで清盛も亡くなっています
ので、そのわずかな間、ということは高倉天皇が
亡くなった直後のことでしょう、建礼門院(時子)
を後白河法皇の妃に、という話が持ち上がります。
険悪な仲となっていた清盛と後白河法皇の間を
取り持つ策として考え出されたものとはいえ、
高倉天皇の死後、その父親である後白河法皇の妃
になるなど、建礼門院(徳子)にはあり得ないこと。
大人しい建礼門院(徳子)は、この時は
色をなして怒り拒否しましたが清盛と時子、
後白河法皇もこの話には乗り気だったそうです。
大原御幸
そして平家が滅亡した後に後白河法皇は、大原に
わび住まいをしている建礼門院(徳子)の元を訪れます。
建礼門院(徳子)にとって後白河法皇は
自分の実家一門と我が子を亡き者にした張本人。
時代が時代とはいえ、胸には複雑な思いが
よぎったことでしょう。
後白河法皇に問われて語った建礼門院の
言葉に、彼は涙して言います。
「あなたは六道を見たのですね」
十界
六道とは、六道輪廻という言葉も使われる
ことがありますが仏教用語です。
この世の全てのものはその境涯に従って、十界に
分類することができ、十界の中の人間界である私達
の内にもまた十界が存在するということをいいます。
*1 2 3 4
仏界 菩薩界 縁覚界 声聞界
* 5 6 7 8 9 10
天上界 人間界 修羅界 畜生界 餓鬼界 地獄界
|________ 六道 __________|
仏界からはほど遠い人間界の私たちは
5の天上界から、10の地獄界までを
輪廻しているというのが「六道輪廻」です。
建礼門院(徳子)はこの六道を全て体験するが如くの
壮絶な経験をしたと後白河法皇に語るのです。
「六道の巷に迷ひしなり」
「まず一門、西海の波に浮き沈み、よるべも
知らぬ舟の上、海に臨めども、潮(うしお)
なれば飲水せず、餓鬼道のごとくなり。
汀の波の荒磯に、うち返すかの心地して、
舟こぞりつつ泣き叫ぶ、声は叫喚(きょうかん)の、
罪人もかくやあさましや。(地獄界)
陸(くが)の争ひある時は、これぞまことに
目の前の修羅道の戦、あら恐ろしや数数の、
駒の蹄(ひずめ)の音聞けば、畜生道の有様を、
見聞くも同じ人道の、苦しみとなり果つる、
憂き身の果ぞ悲しき。
少し前は雲上人として「天上界」の暮らしを
続けていた我が身はたちまちのうちに
「六道の巷(ちまた)に、迷ひしなり」と。
壇ノ浦の戦いから30年間
建礼門院(徳子)の没年は正確にはわからない
ようですが、1213年とする説が多く、そうなりますと
60歳位まで生存したことになります。
6歳4カ月の安徳帝と死に別れてからの30年間は
建礼門院にとってどのような日々だったのでしょう。
上の系図から3年後、生き残っているのは
建礼門院(徳子)ただ一人となっています。
(1193年当時の生存者)
* 1181年没
* 平清盛
* |
* |———————— 平徳子・建礼門院
* | |
* 1185年没 |
* 平時子 |
* |
* 1189年没 | 1178〜1185年
* 平時忠 |——安徳天皇
* |
* 1176年没 |
* 平滋子・建春門院 |
* | |
* |———————— 高倉天皇
* | 1181年没
* 1192年没
* 後白河法皇
*:*白河法皇
子方の足袋
そんな事を考えていましたら、安徳帝が亡くなった年と
同じ位の年齢で亡くなった男の子を思い出しました。
20年以上も前になりますが、お能を
観に行った時のことです。
お能は、お芝居でいう「子役」のことを
「子方(こかた)」といいますが、お能の
興味深いところは、子どもの役だから
子どもが演じる、とは限らないことです。
能の装束(写真)
例えば、成人している源義経を、あえて子方が
演じたりもするのですが、今日はそれが主では
ありませんのでこれ位にして話を戻しましょう。
その日は可愛い子方が舞台に登場していました。
演目は何だったか忘れてしまったのですが、
舞台に子方が登場した時に、私の隣りに
座っていた女性が言いました。
私の隣りの席には二人ずれの60代前後と思われる女性。
私のすぐ隣りの人が、連れの人に小声で囁いたのです。
「見て! ちっちゃな足袋!」と。
美しく愛らしい小さな足袋
小声とはいえ、そのささやきが耳に入っていた
私は条件反射的に、思わずその子方の足袋に
目をやっていました。
それは本当に清らかで、美しく
可愛いらしい足もとでした。
足と一体になったかに見える足袋は
まるで木目込み人形の足のようです。
丁寧に誂えられた小ちゃな足袋が
その主の小さな足を包んでいました。
ただそれだけのことなのですが、私はお隣の
女性が感に堪えたように言い放った言葉に
心の中で激しく同意したものです。
ちっちゃくて、本当に可愛らしい足袋でしたが
勿論、体に比べて突出して足が小さいわけではなく
全てが小さいなかで足袋もそれに合わせて小さい、
というだけのことなのですが。
それが、どうしてこんなにも可愛く見えるのか、
不思議でならないほどの可愛さでした。
「ありがとうございました」
能舞台は客席から見て左側に、歌舞伎でいう
花道のような細長い通路があり、それを
「橋懸かり(はしがかり)」と呼びます。
舞台左が橋懸かり「喜多六平太記念能楽堂」
(東京都品川区)
そこから登場し、そして退場して行った子方は
幕の内側で正座をして待っていたのでしょう。
主役(シテ方)が橋懸かりから幕の内側に
消えた瞬間、男の子の声が響きました。
「ありがとうございました」
という元気な可愛い声でした。
このような声が客席にまで聞こえた経験は
私にはこの時、一度きりです。
「ありがとうございました」という声に
また客席があたたかな微笑みに包まれた
ことはいうまでもありません。
絶句
それからしばらく後、私はお稽古友だちの
S子ちゃんから、子方を務めていた男の子が
亡くなったことを知らされました。
しかも母親が運転する車が、バックを
した時に轢かれたとのことでした。
言葉がないというのはこのことです。
いつ思い出しても、私は言葉を失います。
今、グーグルでお能を検索してみましたら、何百枚
という写真が並んでいたので、いくつかをクリック
してみると、偶然にも、それは全て同じサイトでした。
そのサイトで、主に文章を書いていると思われる方は
亡くなった子方の父親である能楽師でした。
生きていたならとっくに成人し、ひょっとしたら結婚
をしていてもおかしくないほどの年月が過ぎています。
私はその男の子の名前は、もう覚えていません。
それでもあのちっちゃな可愛らしい足袋と
「ありがとうございました」の声、亡くなったことを
聞いた瞬間、それらを忘れることはないでしょう。
一睡の夢
それだけではありませんでした。
その男の子のことを考えていた私は、何となく本当に
何となく私は宗家の名前を検索してみました。
すると……、驚きました。
ちょうど一カ月前の2月21日、喜多流の十六世
・喜多六平太宗家がお亡くなりになっていたのです。
六平太先生の弟子でもあり、現在はイギリスにいる
S子ちゃんに、思わず私はメールをしていました。
もう既に知っているかもと思いつつも
書かずにはいられませんでした。
今年の1月に、彼女と六平太先生の話を
したばかりだったのですが……。
「とても此の身は徒(いたずら)に
*山野の土となるべし。
*惜しむとも惜しみとぐべからず。
*人久しといえども百年には過ぎず。
*其の間の事は但一睡の夢ぞかし」
(「松野殿御返事」『日蓮大聖人御書全集』)