関ヶ原の戦いを挟んで揺れる佐賀藩鍋島家  

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「松図襖」(写真/「徴古館」)

 

 

お家騒動

六本木7丁目に下屋敷のあった佐賀藩鍋島家
「佐賀藩鍋島家の成立とお家騒動」)は
もとは佐賀の龍造寺家の家臣でした。

 

後に、佐賀藩鍋島家の藩祖となる鍋島直茂(1538〜
1618)は、主君の龍造寺隆信の死後、病弱だった
後継者の補佐役を務めると同時に、豊臣秀吉から大名
として所領も与えられているという不思議な立場。

 

隆信には、病弱な後継者・政家以外に実は幼いながらも
二人の子がいたのですが、直茂が出家させていました。

 

 

 

 

そのような経緯の上、政家の子・高房が妻を殺害し
自らも命を絶つという衝撃的な事件が起きたことから
巷では隆信の祟りとの噂が囁かれるようになります。

 

それどころか挙げ句の果て、話は「化け猫騒動」
にまで脚色され、歌舞伎の演目になるという有様。

 

上映される際に、佐賀藩鍋島家から強い抗議が
あったため、主人公の名前を変える等の
変更をして上演したそうです。

 

 

 

 

 

関ヶ原は、父子で東西に分かれて

1600(慶長5)年の関ヶ原では、鍋島直茂が
東軍の徳川方、子の勝茂(1580-1657、
佐賀藩鍋島家初代藩主)が西軍の豊臣方と
分かれて戦っていますが、これは家の生き残り
をかけた選択であったといわれています。

 

秀吉の死後、直茂は徳川家康に
従う方針を早々に打ちだします。

 

一方、西軍が敗れ窮地に陥った
子の勝茂は、同じく西軍の島津氏から
一緒に船で帰国することを勧められました。

 

しかし切腹を覚悟していた勝茂は
大坂に残ることを選びます。

 

家康は父・直茂の忠誠などにより
勝茂を赦し、代わりに筑後・柳川の
立花宗茂を討つことを命じました。

 

これは家康が、鍋島家に恩を与えることにより西国、
中でも九州の島津家、毛利家、立花家など豊臣系大名の
制圧に利用しようとしたためと考えられています。

 

 

 

次郎左衛門雛(写真/「徴古館」)

 

 

 

家康の養女を継室に迎える

柳川城を落とし、島津征討に参戦したことにより
1601(慶長6)年、直茂に肥前35万7千余国を
安堵する朱印状が家康より下されます。

 

直茂はすぐに、勝茂の弟である忠茂を
人質として江戸の秀忠に差し出しています。

 

1603(慶長8)年に秀吉の養女だった勝茂の前室が
亡くなると、家康の縁族の端になりたいと願い出て
1605(慶長10)年に、家康の養女を継室に迎えました。

 

 

 

「老松雲竜図鐔(おいまつうんりゅうずつば)」
江戸時代前期 河村若芝作(佐賀出身の画家)
縦横とも  7.5cm (写真/「徴古館」)

 

 

 

藩財政が窮するまでの将軍家への尽力

幕府は、1604(慶長9)年に江戸城普請計画を
発表して西国の諸大名らに手伝いを命じます。

 

徳川家康との関係修復のために勝茂は積極的に
尽力し、1606(慶長11)年から始まった
本格的な普請の際には、虎ノ門の普請を担当。

 

翌々年の1608(慶長13)年には駿河城の普請、
1609(慶長14)年、1610(慶長15)年の名古屋城、
と普請は相次ぎ、鍋島藩の財政は大きな痛手を被ります。

 

同じ頃、中国、四国、九州の大名も各々の
城普請を行い、鍋島藩も1608(慶長13)年
に、佐賀城を本格的に普請。

 

このような大名の城普請に対し、家康は好ましくない
と制し、なかでも広島城主・福島正則の新城に
対しては破却するという手荒な手段をとっています。

 

 

 

 

 

忠誠をかたちに

1614(慶長19)年の夏、勝茂は江戸で家康の腹心
である本多正信に面謁して相談をしています。

 

「(関ヶ原の戦いでは)所存に任せざる次第
を許されて、本領安堵をうけたのは新恩頂戴
同然である」などと感謝し、妻子を江戸に
引っ越させ忠誠を表したい旨を表明。

 

また、大坂冬の陣が起きる頃に、勝茂は大阪方から
勧誘の書状を受け取っていましたが、それを未開封
のまま徳川家へ差し出して、その忠誠を賞されます。

 

大坂夏の陣が起こると九州の諸大名のうち
島津氏の出陣が止められ鍋島勝茂のみが出陣を
命じられましたが、これは前年の未開封の書状を
差し出した忠誠が認められてのことでした。

 

 

 佐賀藩鍋島家の家紋「杏葉」

 

 

 

外様大名の気苦労

徳川幕府は外様大名の力を政治の中枢から除くこと
により安定したものになったといわれています。

 

外様大名は参府の時期についても
幕閣の要人である土井利勝らに内々に指示を仰いで
従っており、将軍の信頼を得ている幕閣要人との
お付き合いは重要課題でもありました。

 

このため勝茂は、1610(慶長15)年頃から
大御所家康や秀忠、家康の側室・阿茶局の他、
幕閣要人の本多正信、正純父子、大久保忠隣
などへ贈遺、つまり贈物をするようになります。

 

 

 

「井戸茶碗 銘栄城(いどぢゃわん めいえいじょう)」
李朝(朝鮮) 初代・鍋島勝茂伝来

 

 

 

2度目のお家断絶の危機

1637(寛永14)年10月に島原・天草の乱が起きる
と、勝茂は原城跡本丸一番乗りという目覚しい
活躍をしたものの、軍令違反であったため
一時は改易の上、流罪との噂が流れます。

 

幸いなことに改易にはならず、勝茂は
翌年1638(寛永15)年までの出仕停止と
江戸桜田屋敷での逼塞を命じられただけで
赦免されて事なきを得ました。

 

家康から家光までの3代将軍の間に取り潰された
(改易)数は 131家にも及んでいますので
この時期の鍋島家は、心穏やかならぬ
日々を過ごしていたことでしょう。

 

 

 

 

5年前の1632(寛永9)年には、同じ九州の54万石
熊本藩加藤家の2代藩主・加藤忠広(清正の子)が
改易され、出羽国庄内に配流されていました。

 

江戸で生まれた忠広の子を許可なく熊本に
連れ帰ったことが改易理由ともいいますが
諸説があってはっきりしていないようです。

 

ということは、お取りつぶしもやむ終えないと誰もが
納得するような決定的な理由がなかったとしても
お家断絶があり得るということにもなります。

 

鍋島家が改易にならずにすんだのは
島原の乱での功績などが考慮されたということの
ようですが、このことは関ヶ原の戦い時に次ぐ
鍋島家を襲った大きな危機でもありました。

 

 

 

黒地群蝶模様留袖(くろじぐんちょうもようとめそで)
昭和(写真/ 「徴古館」)

 

 

 

鍋島家の献上品の輸入が、突然ストップ

この後、勝茂は将軍外交に対して
細心の注意を払い、献上品などにも
今まで以上に気を遣うことになります。

 

という状況の中で、鍋島家の重要な献上品でも
あった中国磁器が輸入されなくなるという不測
の事態が発生したのは 1644年のことでした。

 

国許の家老に命じて、長崎に渡来する
唐船から、珍しい唐物を買わせることにより
鍋島家は献上品を調達していたのです。
その予算は毎年、7500万石にも上ったといいます。
           (『佐賀県資料集成』)

 

 

「染付大根文変形小皿(そめつけだいこんもんへんけいこざら)
江戸時代(元禄〜享保 1700〜1740年)鍋島藩窯(写真/「徴古館」)

 

 

 

将軍献上用の鍋島焼に力を注ぐ

7500万石といえば、旗本の中でも多い石高です。
とはいえ献上品は高価であれば良いわけではなく
また既に決まっている献上品を替えるには
幕府の許可が必要でした。

 

今まで以上にあらゆることに気を遣わなければなら
ないという時に、佐賀藩の重要な献上品であった中国
磁器が手に入らない事態は、勝茂を窮地に陥れます。

 

そこで佐賀藩は、将軍献上用の高級磁器である
鍋島焼の生産に取り組むことになりました。

 

1650年代から始まり、1690〜1726年に最盛期を迎えた
鍋島焼については、次回にお話ししましょうね。

 (参照/大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」雄山閣)

 

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将軍家への献上1 そもそも「献上」とは?

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「献上物」の読み方は「けんじょうもの」

時々、お菓子などで「これは将軍家に献上された……」
と紹介されていますが、わかっているようで今ひとつ
よくわからないのが、この「献上」という言葉。

 

まず読み方ですが、「献上品」といった時はの読み方は
「けんじょうひん」ですが、それでは「物」をつけて
「献上物」と書いた時は、何と読むと思いますか?

 

これは「けんじょうぶつ」ではなく
「けんじょうもの」と読むそうです。

 

 

 

 

 

上下関係による表現の違い

「献上」という言葉は、下位の者から上位の者に
差し上げる時に使う言葉ですので、大名から将軍に
品物を贈る時(物とは限りませんが)に使う言葉が
「献上」です。

 

反対に将軍から大名などの下の者へは「下賜(かし)」、
上下関係でない場合は「贈答」を使います。

 

同位の者同士のやりとり ( → ) 「贈答」

下位の者から上位の者へ (  ↑  ) 「献上」

上位の者から下位の者へ (  ↓  ) 「下賜」

 

将軍から大名へ下賜された場合、大名側からですと
「拝領」ということになりますが、下賜されるのは
形のあるものとは限らずに、官位や官職、
将軍の名前の一字や家紋なども含みます。

 

また献上品も各藩での特産物だけではなく
江戸で調達したものもありましたし、馬代や太刀代
というように金品で代用することもありました。
もっとも初期には実際の馬や太刀を献上したそうですよ。

 

 

 

 

 

袖の下ではない

献上は、袖の下や賄賂ではなく、江戸時代の
幕藩体制の儀礼であり、賄賂的な色彩が強いのは
お歳暮やお中元等で、老中等、時の権力者や
上役に盛んに贈られたといいます。

 

毎回、大名家から将軍家へ、決まったものを
決まった量だけ贈るという儀式は、将軍への
恭順の意を表す行為でもあり、それを続けられる
のは安定した世であるからこそのことでした。

 

将軍家としては献上は、特産品を得たいという
よりは参勤交代や御成等、諸大名の財力を
削ぐための手段だったともいうことです。

 

 

 

 

 

献上の種類

献上にはいくつかの種類がありました。
「御太刀金銀馬代(おんたちきんぎんうまだい)」
といって年始(1月1日)と、
八朔(8月1日)の日に行わるものや、

 

「御時服献上(ごじふくけんじょう)」の
端午の節句(5月5日)と、重陽の節句
(9月9日)に行われる定式のもの。

 

また「時献上(ときけんじょう)」というのは各大名家
から、毎年決まった季節に領内でとれる産物を献上する
ことをさし、年中あるいは月献上といいました。

 

 

 

 

 

献上物の変更には厳格な基準

献上する物については、大名家の格により決められ
ていて、簡単に変更することは許されませんでした。

 

ある分家大名が、本家と同じ品物を献上したいと願い
出た時に、老中が拒否したとの記録も残っています。

 

献上物自体や、その数量の変更は
家格や格式の変更を意味するものであった
ため、その変更はかなり厳格だったのです。
(山本博文『江戸お留守居役の日記   寛永期の萩藩邸』)

 

 

 

 

 

「時献上」 将軍は箱しか見ない?

「時献上」は毎月決まった日に各大名家から
たくさんの品物が江戸城に到着しますので
将軍には全てを見せることはありません。
箱だけを見せ、品物は役人や側近に下賜しました。

 

献上品は決められたものではありますが
実際に受け取る人々にとっては嬉しいものと
そうでないものがあったようです。
嬉しいものの方は、紙、織物、畳表という実用品。

 

そうでないものは、日持ちがしない魚などの生鮮食品
とのことだそうですが、これは現代でも同じですね。

 

また現在のリサイクルショップと同じような働きをして
いた「献残屋」というお店が江戸城のそばにあり
それら不要のものを買い取ってくれたそうです。

 

 

 

 

 

年始の献上 (延岡藩内藤家)

決められ献上物を定期的に江戸城に送る
「時献上」は想像しやすいものの、それ以外は
イメージが湧きませんね、と思っていたら
延岡藩の良い資料がみつかりました。

 

延岡藩は、現在の宮崎県延岡地方を領した藩で、
1692年までは「県(あがた)藩」と称していました。
藩主は、
高橋家 → 有馬家 → 三浦家 → 牧野家 → 内藤家と変遷。

 

1865(慶応元・元治2)年、内藤家8代藩主
・政拳(せいきょ)が新年に登城した際の
記録なのですが、1865年といいますから、
政拳は延岡藩の最後の藩主ということになります。

 

延岡藩内藤家の上屋敷は虎ノ門に、
下屋敷は六本木にありました。

 

江戸時代が終わる3年前のお正月とはいえ
細かな儀礼に則った新年の儀式を勤めている
穏やかなお正月の様子が伺えます。

 

 

 

 

 

献上目録を持参して6時に登城

元旦、藩主は午前4時に起床し、上屋敷で
決まり事をした後、6時には江戸城に登城。
数日前には、当日のお召し物の指定が届いています。

 

指定通りの熨斗の効いた麻の上下を着用した藩主は、
登城をする際に献上品の「御太刀目録」を
持参し、目録は家臣が奏者番に渡します。

 

「御太刀」とありますが、これは木製の飾り木刀で
当日は実物ではなく、目録のみを献上します。
大広間でご挨拶後、将軍の御流れを頂戴し
昼頃に上屋敷に帰宅。

 

 

 

 

 

上屋敷で家臣からの献上を受ける

帰宅後にシダを(書院?)お供え等
の後に儀式が始まります。
将軍と大名で行ったことを、今度は大名と家臣で行います。
まず、家来がお殿様に献上品(刀とお金)を上納します。

 

「御太刀 1腰   御馬代  銀1枚」  御家老・穂鷹内蔵進、
「御太刀 1腰   鳥目  百疋」    御中老・原小太郎、
「鳥目(ちょうもく)  百疋」   お年寄・長坂平衛門
「干鯛(ひだい)  5枚」      御用人(家来の名が続く)

 

というように役職により献上するものが異なっています。
「鳥目(ちょうもく)」とは祝儀の時にのみ使用する
お金のことで、「疋(ひき)」は金額を表します。

 

 

 

 

鳥目百疋は、銭1000文だそうで
今の金額では約2万円ほどにあたるとか。

 

下の役職のものになると「干鯛(ひだい)」を
地位に応じた枚数だけ献上するのがきまり
だといいますが、面白いですね。

 

「干鯛」は武家の祝儀では贈答品として
欠かせないもので、親類等への訪問に
際しても持参するものだったそうです。

 

この日は、先代の藩主から、先々代の藩主の
正妻に対して干鯛一枚が献上され、同様に
先々代藩主の正妻から先代藩主へも
干鯛1枚が贈られているということです。

 

 

「干鯛」がないので「鯛焼き」

 

 

 

3日にはお寺で献上、御香典

2日も藩主はやはり朝6時に登城しますが献上はなし。
帰宅後は親戚への挨拶に廻ります。

 

3日は朝8時から、種々のお寺周りをしますが、
その時、留守居が御備物、御進物を持っていきます。

 

お寺からは、白銀1枚、御馬代銀10枚が献上され、
お寺には御香典300疋を贈っています。
その後、六本木のお屋敷の先代藩主へ年始に伺います。

 

 

 

 

 

ご挨拶と献上と

こうして「幕末の延岡藩」の詳細な記録を
見せて頂きますと、様々な立場の人と献上、
お返しを繰り返しているのがわかり、わずかながら
「献上」の意味合いが身近になった気もします。

 

4日もまだご挨拶廻りは続いているようで
お殿様もホント、大変そうです。

 

私は、贈物は頂くのも差し上げるのも超苦手なのですが、
これはいいなあ、と思ったことがあります。
それは差し上げるものが立場によって決まっていること。

 

儀式化されているが故なのでしょう。
太刀や馬を、それも現金で差し上げることや、
干鯛のプレゼントなどもかなり合理的、かつ実用的。

 

でも、木製の飾り木刀だという「御太刀」を、
毎年、献上された将軍はどうしていたのでしょう?
飾り木刀では、素振りの練習に使えるとも思えませんし。

 

 

「干鯛」が食べたい……

 

 

 

意外と合理的な献上システム?

などと考えても詮ないことですが
先代藩主と、先々代藩主の正妻の間で
干鯛が行ったり来たりとは面白いことですね。
生ものが苦手な私には、干鯛が美味しそうで気になります。

 

同じものを献上したり、贈られたりというのは、結局、
必需品を贈り合う、つまりは気持ちなのでしょう。

 

ちょっと意外だったのは、経済的に上位の者へ
下位の者からお金を献上することでしたが、
それでも今回、内容を少し知ることができ
献上がかなり合理的であることに驚きもしました。

 

必要のないものは(飾り木刀は別として)献上したり
贈られたりということは、あまりしていないようです。

 

長くなってしまいましたので
時献上の紹介は、次回にしましょうね。

 

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佐賀藩鍋島家の成立とお家騒動

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宇和島伊達家のお隣の「鍋島家」

冒頭の江戸時代の切絵図で藤色の三角形に
見えるのが、宇和島潘伊達家の上屋敷が
あった場所で、そのお隣の緑色の四角で
囲った場所が佐賀藩鍋島家上屋敷です。

 

宇和島藩伊達家は地図上では
「伊達遠江守」と、佐賀藩鍋島家の方は
「鍋島甲斐守」と記載されています。

 

宇和島藩伊達家の方は現在、国立新美術館、
政策研究大学院大学、都立青山公園、米軍ヘリ
ポートなどになっていますが、佐賀藩鍋島家は
小さく分けられて沢山の建物が建っています。

 

住所でいいますと六本木7丁目の一部ですが
現在メルセデスベンツ東京コネクション
があるあたりでしょうか。

 

 

「ブルーボトルコーヒ」六本木カフェ付近も佐賀藩鍋島家の近く

 

 

 

藩主の補佐役に就任

「佐賀藩」は「肥前(ひぜん)潘」
とも、藩主の名前の鍋島家から「鍋島藩」
といわれることもある潘で、現在の
佐賀県と長崎県の一部に該当します。

 

『鍋島家系図』によりますと藩主の鍋島氏
は、かつては山代に住み「長岡」を家名として
いましたが、京都の北野に移り、後に肥前の鍋島
に住むようになってから「鍋島」を名のります。

 

鍋島氏は、元は龍造寺(りゅうぞうじ)氏
の重臣であり、鍋島直茂は、龍造寺隆信
の義弟にもあたる間柄でした。

 

1584(天正2)年、沖田畷(おきたなわて)
の戦いで龍造寺隆信が戦死すると、遺児の
政家が病弱だったこともあり、直茂は
政家の補佐役を勤めるようになります。

 

 

江戸時代の刀の鍔(つば)
老松雲竜図鐔(おいまつうんりゅうずつば)
「写真/鍋島家伝来資料博物館「徴古館」」

 

 

 

家臣でありながら所領も持つ

1590(天正18)年、豊臣秀吉は政家を
廃して、その子・高房を擁立するよう
命じて所領安堵の朱印状を与えます。

 

それと同時に秀吉は、直茂にも
4万4000石と、子の勝茂にも7000石
の所領安堵を認めているのです。

 

ということは、鍋島氏は龍造寺氏の家臣
でありながら、同時に大名として所領を
秀吉から承認されたということになります。

 

朝鮮出兵の文禄・慶長の役には、龍造寺軍
を率いて大将として参戦するという
なんとも不思議な地位にありました。

 

 

 

 

 

名目上の藩主・高房の自殺

後に徳川家康も、鍋島氏を正式な佐賀藩主
と認めますが、1607(慶長12)年、名目上
は国主であった龍造寺高房が江戸の桜田屋敷
で妻を殺害後、自殺を試みます。

 

危ういところで家臣が止めて、医師が
治療したため、死には至らなかったもの
の、傷は思いのほか深いものでした。

 

その上妻の亡霊に悩まされて精神
を病むようになっていた高房は
再び、自殺未遂の後に死去します。

 

肥前で、高房の死を知りショックを
受けた病弱の父・政家も、高房の死から
1ヶ月後も経たないうちに亡くなりました。

 

 

 

 

 

佐賀藩鍋島家の成立

高房の後継者として龍造寺の分家
である多久氏、須古氏、諫早氏などが
鍋島直茂の嫡男・勝茂を推挙します。

 

これを幕府が承認して、1613(慶長18)年
に直茂に対して、佐賀藩35万7000石の
所領安堵の朱印状が交付されました。

 

ここに正式に鍋島氏の肥前、
佐賀藩主が成立したのです。

 

無念のうちに亡くなった高房は江戸で火葬を
された後に、佐賀城下で埋葬されました。

 

 

 

 

 

お家騒動から歌舞伎の「鍋島化け猫騒動」へ

ところがその後のこと、不思議な噂が
人々の口にのぼるようになります。
高房の亡霊が馬に跨って城下を
駆け巡っているというのです。

 

そればかりか、高房の飼っていた猫が
化けて出てきて、直茂と勝茂親子に復讐を
企てたが、鍋島家の家臣により退治された
というように話は脚色されてゆきます。

 

「2代藩主・光茂が、家臣の龍造寺
又七郎と碁をしていた時に機嫌を
損ねて又七郎を惨殺してしまいます。
又七郎の母もこれを恨んで自害すると、
母の体から流れた血を舐めた飼い猫が
化け猫となり、光茂の側室を殺し、
奥女中が惨殺されたり、家臣が発狂
するなどの凶事が相次ぎましたが、
最後は忠臣が猫退治をしておさまった」

 

というような化け猫の話にまで脚色されてゆき
後に歌舞伎で上映されるに至ったのです。

 

 

 

 

しかし話の内容はいく通りもあり、碁をして
いたのが光茂ではなく直茂であったり、また
龍造寺又七郎などは架空の人物で実在しない
というように、あくまでもフィクションでした。

 

そして『花埜嵯峨猫魔稿(はなのさが
ねこまたぞうし)』と題されて、1853年に
初演する予定でしたが、これは佐賀藩の
「嘘八百を描くとは何事ぞ!」
との強い抗議により中止。

 

そこで登場人物を「直重」と「龍造寺又七郎」
ではなく、「直島大領直茂」と「高山検校」
に変え、『百猫伝手綱染分(ひやくみようでん
たづなのそめわけ)』と題して、ようやく
1864年に公演の運びとなりました。

 

これは江戸の人々には人気があった
ようで化け猫騒動として、歌舞伎だけ
ではなく講談や映画などで、その後も
しばしばとりあげられています。

 

 

 

 

 

龍造寺家の再興はならず

実は、高房が亡くなった時に、高房の
息子・龍造寺伯庵と高房の実弟である
龍造寺主膳が生存していました。

 

二人が幼かったために後継とは認められず、
伯庵は直茂により出家させられていたのです。

 

1634(寛永11)年、伯庵と主膳は幕府に
龍造寺家再興の嘆願をしましたが聞き入れられず、
伯庵は会津藩の保科正之のもとに、主膳は
大和郡山藩の元へそれぞれ預けられました。

 

その訴訟は1642(寛永19)年までも続きましたが
結局、お家再興が叶うことはありませんでした。

 

 

 

 

 

苦しみを乗り越えて

1618(元和4)年に、6月3日に
直茂は81歳で死去します。

 

長寿ではありましたが、死の間際に腫瘍の
激痛で苦しみ悶死をしたことから、高房の
亡霊の仕業と噂されたということです。

 

私事になりますが、先日、30年以上前
から知っている人が亡くなりました。

 

6年前にくも膜下出血で倒れて意識不明
の期間が長期間続いて、生存確率は
ゼロに近いという診断でした。

 

万一、命が助かっても植物状態といわれた
のが80歳の時でしたが、なんと奇跡的な
回復を遂げ、数年の時を経て、今回は
帰らぬ人となってしまったのです。

 

 

 

 

 

安らかな最期を

80代半ばのその女性は、シワも
なく美しいお顔をしていました。

 

人は全て亡くなるということは動かしがたい
事実ではありますが、できることならば
最後は苦しまずにとは誰もが望むことでしょう。

 

直茂のような最期は、たとえ
知人ではなくても辛いもの。

 

ですが、その原因が高房の亡霊のせい
であったかといえば、必ずしも
そうともいえないような気がします。

 

龍造寺高房もまた、その地位につくまで
には、時代の背景もあるのでしょうが
様々な事柄を経てきているように思えます。

 

 

 

 

今の私達には、その時に実際はどの
ようなことがあったかはわかりません。

 

また、たとえ彼らと同時代人であったと
しても、全ての場に立ち会っていない以上
は本当のことはわからないでしょう。

 

全ての人が安らかな最期を迎えることが
できるなら、もしかしたらそれは
最高の幸せなのかもしれませんね。

 

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