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中国磁器の輸入がストップ
17世紀半ば頃、中国国内の内乱により佐賀藩鍋島家の
将軍家への献上品として重要な位置を占めていた
中国磁器が、手に入らなくなってしまいました。
その当時、磁器を世界で最も多く生産していた
のは中国で、特に景徳鎮のものが最高とされ
ましたが、内乱の中国を統一した清(しん)は
1656(明暦2)年、海外貿易を禁じます。
ヨーロッパの王族や貴族たちの間では、中国磁器
や東洋の美術工芸品の収集が大人気でしたが
佐賀藩鍋島家にとっては趣味の範疇では
終わらない、いわば死活問題でもありました。
日本の磁器作りの始まり
日本で最初の磁器が焼かれたのは肥前国
(ひぜんのくにー現在の佐賀県全域と
長崎県の大部分)だといわれています。
豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した際に、優れた陶工を日本
に連れて帰ったことから日本の磁器作り始まりました。
この朝鮮出兵には鍋島直茂も参加しています。
日本に連れてこられた陶工の中で最も有名なのは
金ヶ江三兵衛(かねがえさんべえ)、朝鮮名・李参平
(りさんぺい)で、彼等を連れてきたのが鍋島軍でした。
有田町周辺で磁器原料の陶石を発見した
陶工達は、1610年頃に磁器焼成に成功した
ことが、発掘調査からわかっています。
1580代から焼かれていた「唐津焼」
一方、磁器ではなく陶器の方は、すでに
1580年代に唐津焼が作られていました。
こちらの陶器作りもやはり朝鮮人陶工に
よるものだそうです。
秀吉の朝鮮出兵の前、松浦党(まつらとう)
の有力豪族・波多氏が朝鮮半島との間で倭寇
(わこう)として活動していた関係で
陶工を日本に連れてきたと考えられています。
これらの肥前陶器窯は、波多氏が朝鮮出兵時に秀吉の
不興を買って改易されたことから離散してしまいました。
日本古来の陶器窯
このように近世、中国や朝鮮から渡来した製陶技術に
よる陶磁器や唐津焼、萩焼、有田焼、薩摩焼等とは
異なり中世から日本で作られていた焼物もありました。
平安末期から鎌倉時代にかけて作られ、かつ現在も作り
続けられている窯を指して「日本六古窯」と呼んでいます。
「信楽(しがらき)焼」、「備前(びぜん)焼」、
「越前(えちぜん)焼」、「丹波(たんば)焼」、
「瀬戸(せと)焼」、「常滑(とこなめ)焼」の六つ。
「有田」で焼かれ、「伊万里」から運ばれた
鍋島群が朝鮮出兵の折、日本に連れてきた金ヶ江三兵衛
(李参平)を中心とする朝鮮陶工たちによって、有田の
周辺で作られるようになった磁器の話に戻りますと、
これらの有田の磁器は、伊万里津(津とは港の意味)に
運ばれ船で積み出されたために「伊万里」あるいは
「伊万里焼」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の文献には「伊万里」ではなく
「今利」や「今里」とも書かれていますが、
「有田焼」と「伊万里焼」というのは同じ焼物のこと。
「初期伊万里」
最初に焼かれた磁器製品は、釉薬をかけて焼くと青色に
発色する呉須(ごす)とばれる顔料だけを使って中国風
の絵を描く染付のほか、青磁なども作られていました。
「染付山水図大鉢( そめつけさんすいずおおばち」
初期伊万里 高 12.5cm 口径 44.8cm 底径 12.9cm
重要文化財(写真/「文化遺産オンライン」)
1637(寛永14)年、佐賀鍋島藩が伊万里や
有田の窯場を整理、統合し有田皿山
(ありたさらやま)に生産拠点を築きます。
この頃までの伊万里を「初期伊万里」と呼びます。
そして冒頭でお話ししたように1644年に中国磁器の
海外輸出が途絶えたことから、中国磁器に代わって
伊万里焼がヨーロッパに輸出されるようになりました。
その最盛期は、1670〜1680年代といわれています。
佐賀藩の御用窯設立
一方、民間の窯で焼かれて日本や海外にも広まっていた
伊万里焼とは異なり、佐賀藩鍋島家が販売目的はなく
藩窯(はんよう)で焼いていたのが鍋島焼です。
将軍家への献上を始め、幕府の要人や大名への
贈答品のために、莫大なお金をかけて最高の
技術で焼いた高級焼物が鍋島焼でした。
佐賀鍋島藩は、1652〜1654年(承応年間)に
有田の岩谷河内(いわやごうち)に御用窯を作り、
1661〜1672年(寛文年間)に伊万里の
大川内山(おおかわちやま)に移転。
将軍家献上を目的とした藩窯の鍋島焼が完成します。
1651(慶安4)年6月、家光の内覧を受けた結果(年末
か翌年から)正式に献上されることになりました。
1673〜1681年(延宝年間)に鍋島藩窯が確立し
1690〜1726年に最盛期を迎えます。
真ん中より少し上に横書きで
「鍋島藩窯公園」と書いてあります
技術の漏洩を恐れて厳重なチェック
鍋島藩の御用窯に入るには一般の人はもちろんのこと、
陶工でさえも鍋島焼の技術が漏れることを恐れて
自由に出入りすることは許されませんでした。
また藩窯以外の窯場で、優れた技術を持った陶工が
いると入れ替えるというように、常に最高の技術を
確保するための注意も欠かしません。
このようの選び抜かれた藩窯の陶工たちは
武士と同じ身分が与えられていたということです。
「色絵宝尽文皿 」鍋島焼
ロサンジェルス・カウンティ美術館(写真/Wikipedia)
「鍋島焼」の名称が生まれたのは大正以降
とこのように今まで私は「鍋島焼」と書いていますが
実は、当時はこの焼物が何と呼ばれていた
かは、正確にはわかっていないのだとか。
江戸時代の肥前では、陶磁器を作る窯場を
「○○山」と呼んで、藩の御用品を焼いて
いる窯場を「御道具山」と呼んでいました。
鍋島焼は、藩内では「大河内焼(おおかわちやき)」
「大河内御磁器」といわれていたといいます。
現在の私たちが使っている「鍋島焼」と
いう呼び名は、大正時代以降に使われる
ようになったと呼び方だということです。
鍋島焼「青磁染付桃文皿」
口径14.7cm 高3.7cm 高台径7.4cm
元禄(1688-1704年)
なお鍋島焼の窯場は、近世の藩窯としてはもっとも
組織が整い、生産量も多かったと考えられていて
幕末の記録では、陶工などは31人を数え、
生産数は年間5031個と記されています。