「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!
ニュー山王ホテルの前の「狸橋」
前回は、麻布には大使館に限らず各国の施設が
多く存在していることの一つの例として
ニュー山王ホテルを御覧いただきました。
といってももちろん外見だけですが。
中には入れませんので。
ニュー山王ホテルは、明治通りに面している
建物ですが、その明治通り沿いには
港区唯一の川である古川が流れています。
古川に架かっている橋の一つが
ニュー山王ホテルのすぐ前にあります。
その橋の名前は「狸橋(たぬきばし)」。
この写真の手前側、ニュー山王ホテルや明治
通りがあるのは、港区南麻布4丁目13番で
「狸橋」を渡った先は港区白金5丁目1番。
長さは17,1メートルで、幅は4,7メートルです。
白金の方には、北里大学や北里大学
研究所病院などがあります。
「天現橋」
そのあたりの地図を拡大してみました。
(未だに地図に日本語を書き込むことができないので
アルフェベットでごめんなさい。
全く自己流でGIMPを使っているもので……)
Aが「天現寺箸」、Bが「狸橋」(地図/googlemapに加筆)
中央に「THE NEW SANNO」と書いて
あるのがニュー山王ホテル、
その右の「FRENCH EMBASSY」はフランス大使館。
そしてニュー山王ホテルの前に見える(B)
が「狸橋」です。
「狸橋」のある場所から、明治通りをもう少し西
(地図では左)に行きますと、上下(北南)に
走っている外苑西通りと交差します。
そこで古川に架かっている橋(A)は、「天現橋」
という名前で、交差点は天現寺交差点と呼ばれています。
「天現寺橋」から西(左)は渋谷区広尾
古川に架かっている橋としては以前、ヒュースケンが
暗殺された「中の橋」と、東京タワーのそばにある
「赤羽橋」の御紹介をしたことがありましたね。
「中の橋’(r)」や「赤羽橋(s)」が
あるのは、麻布の東端にあたり、住所は東麻布です。
古川はそこから港区芝に入り、芝公園や浜離宮
恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)の
側を通り浜松町で東京湾に注いでいます。
渋谷|〜〜〜〜〜〜 ↑ 南麻布 〜〜〜〜〜|↑ 古川から上のみ東麻布
今日の「天現寺橋」や「狸橋」は、それら
とは反対側の端、南麻布にある橋ですが
天現寺交差点から先(左)は広尾です。
「赤羽橋」の隣りの芝は同じ港区でしたが
今日の「天現寺橋」のお隣は、渋谷区広尾
ですので、区の端でもあるのですね。
「渋谷川(渋谷区)」→「古川(港区)」
「天現寺橋」を越すと住所は港区南麻布4丁目
から、渋谷区広尾5丁目へと移ります。
ただし正確にいいますと、「天現寺橋」
を境にという言い方は間違っていて
「天現寺橋」があるのは渋谷区。
「天現寺橋」と「狸橋」の間に
渋谷区と港区の境界があるからです。
住所が変わるとともに「古川」という川の名前
自体も変わり、「天現寺橋」から上流では
「渋谷川」と呼ばれています。
渋谷川は東京都渋谷区の宮益橋から「天現寺橋」までの
2.6キロメートル、古川は「天現寺橋」から浜崎橋先の
河口までの4.4キロメートルを流れる川で、共に二級河川。
1653年、玉川上水が完成
古くからあったので古川という名前で
呼ばれ、水源は新宿御苑の湧水でしたが
さほど水量の多い川ではなかったといいます。
1653年に玉川上水が完成し、現在の新宿御苑を経て
渋谷川へ流れるようになると、水量が増えて
水車を掛けることができるようになりました。
その様子を描いたのが葛飾北斎の
富岳三十六景『隠田の水車』。
「隠田」とは現在の渋谷区神宮前付近
の古い地名のことだそうです。
今から150年ほど前に描かれたということですが
200年足らずで、風景というのは
こんなにも変わってしまうものなのですね。
そういえば、これより少し時代は後になりますが
福沢諭吉も「狸橋」の近くに水車をもっていた
そうですよ。
葛飾北斎 富岳三十六景『隠田の水車』
(「写真が語る沿線」)
童謡『森の水車』の舞台
北斎の絵は『隠田の水車』ですが
『森の水車』という童謡があります。
♬「コトコトコットン コトコトコットン」
という水車の廻る音が、特徴的に
リズミカルに使われているあの歌です。
「緑の森の 彼方から
*陽気な唄が 聞こえましょう
*あれは水車の 廻る音
*耳を澄まして お聞きなさい
*コトコトコットン コトコトコットン
*ファミレドシドレミファ
*コトコトコットン コトコトコットン
*仕事に励みましょう
*コトコトコットン コトコトコットン
*いつの日か 楽しい春がやってくる」
* (作詞 清水みのる 作曲 米山正夫)
この童謡は、1941(昭和16)年につくられましたが
この童謡の舞台となったのが渋谷川の水車だったそう。
小学校唱歌『春の小川』も?
それだけではなく、有名な小学校唱歌『春の小川』
の舞台も、渋谷川と宇田川が合流する地点の
代々木だといわれています。
一方、作詞をした高野辰之の故郷である長野県説
もあるようですので、「故郷の長野を想いながら
代々木で作った」というのはどうでしょう?
こちらは1912年に発表され、作詞は高野辰之、
作曲は岡野貞一ということですが
発表当時は作者の名は伏せられていました。
どこが舞台かは別として驚いたのは、私たちの
知っている歌詞が、発表された当時とは
違っていたことです。
『春の小川』の歌詞は3パターンあった!
上の段が発表当時の1912年の歌詞で、真ん中は1942年度版、
そして下の段は1947年版ですが、異なる部分をピンク色で表示。
*〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
春の小川はさらさら流る 岸のすみれやれんげの花に
春の小川はさらさら行くよ 岸のすみれやれんげの花に
春の小川はさらさら行くよ 岸のすみれやれんげの花に
にほひめでたく色うつくしく
* 咲けよ咲けよとささやく如く(1912)
すがたやさしく色うつくしく
* 咲いてゐるねとささやきながら(1942)
すがたやさしく色うつくしく
* 咲けよ咲けよとささやきながら(1947)
*〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
最初の歌詞は、当時では普通の言葉だった
のかもしれませんが、現代から見ますと
格調高く感じられて素敵ですね。
渋谷川の名前が港区に入ると古川に変わるように
『春の小川』の歌詞も変わっているようです。
麻布七不思議の一つから命名?
渋谷川でちょっと寄り道をしてしまい
ましたので古川に戻りましょう。
「狸橋」(B)は、1978(昭和53)年9月に出来た橋
ということなのですが、かなり新しく感じられます。
色も形も古川に架かっている他の橋に比べて
シンプルでモダン、そして一番新しく
出来たような気もするほどですが。
渋谷川(渋谷区)から古川(港区)
になって最初の橋が「狸橋」
「狸橋」という名前の由来が
橋のたもとの碑に書いてありました。
「むかし、橋の東西にそば屋があって
子どもを背負い手ぬぐいをかぶった
おかみさんにそばを売ると、そのお金が、
翌朝は木の葉になったといいます。
麻布七ふしぎの一つで、狸そばと呼んだのが、
地名から橋の名になりました。
ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚が
あったからともいっています。」
たぬきも福沢諭吉も大好き「狸蕎麦」
明治になりますと、この狸蕎麦にしばしば顔を見せる
ようになったのが、福沢諭吉で、彼はこの地を
愛で「狸橋」の南側一帯の土地を購入。
それが現在の北里研究所や慶応義塾
幼稚舎に繋がっています。
ところで先ほどの「狸橋」の名前の由来ですが
「子どもを背負い手ぬぐいをかぶったおかみさん」
というあたりが、私には何ともおもしろく感じられます。
もし現代にたぬきが「子どもを背負って
手ぬぐいをかぶったおかみさん」に化けて
きたら。かなり目だってしまうでしょう。
その当時はそれが、子どもを育てている
女の人の普通の姿だったということが
何ともやさしく美しく感じられます。
今だったらたぬきは、どんな格好で現れるのかな?