特攻隊 7 生還した隊員が軟禁された「振武寮」

『許されなかった帰還 〜福岡・陸軍振武寮〜』

NHK「ETV特集」2016年2月25日放送
(放送日は正確にはわかりません)

福岡市薬院(やくいん)4丁目14番地に
陸軍が存在を秘密にしていた施設「振武寮」
がありました。
ここは生き残った特攻隊員たちを収容する施設。

 

大貫健一郎さんは、昭和20年4月、特攻隊の基地である
鹿児島知覧飛行場から飛び立ったものの、米戦闘機と
遭遇、徳之島に不時着し、振武寮に2週間隔離されます。

 

その半年前、昭和19年10月に大貫さんは同期生と共に
上官から呼び出され、特攻隊の話を聞き、「熱望する」
「希望する」「希望しない」から選ぶよう言われます。

 

戦局はそこまで切羽詰まっているのかと思った大貫さん。
「希望しない」といえば、命が惜しいのか、軍人
のくせに卑怯者と言われるのはわかっていました。
「希望する」もいやいやという感じです。
大貫さんは「熱望する」を選びました。

 

 

 

「軍神 絶対に帰還してはならない」

特攻隊員は司令官から、
「お前田たちはすでに神様だ、絶対帰還しては
ならん」と言われていました。

 

太平洋戦争末期、特攻作戦に参加して亡くなった
4000人を超えるパイロットは軍神と呼ばれました。

 

特攻隊を指揮した倉沢参謀は、出撃する隊員を
美談にまとめ、大本営は特攻隊による戦果を連日、
新聞やラジオで報じ続けます。

 

実際は、戦果を確認する飛行機さえ飛ばせない状況
の中、圧倒的な劣勢に立たされていた日本軍は
飛行機が不足し、練習機までが使われる始末でした。

 

機体の不良などから突撃せずに引き返してきた
パイロットも数多くいましたが、死んだはずの
軍神が生きていてはおかしいということから
軍は人目につかないよう振武寮に隔離。

 

 

 

軍人のクズ、国賊

昭和20年5月に大貫さんが振武寮に軟禁された
時、すでに20人ほどの特攻隊員がいました。
実質的な管理者は、第6航空軍司令部の
航空参謀であった倉澤清忠少佐。

 

朝ごはんを食べていると、
「お前ら軍人のグズが、よく飯食えるな。
お前たち命が惜しくて帰ってきたんだろう、
そんなに死ぬのが嫌か、卑怯者。
死んだ連中に申し訳ないと思わないか、
軍人のクズ、人間のクズ」
と倉澤参謀に言われます。

 

毎日、生きて帰ってきたことを責め、
倉沢参謀の「ひたすら国のために死ね」
という厳しい仕打ちが続きました。
振武寮には、帰還兵に再び死を覚悟させ、
特攻に赴かせる目的があったのです。

 

沖縄作戦に参加した特攻隊員12人のうち、半分
は死亡、残りの半分が振武寮に入れられました。
その中の一人、現在83歳で歯科医をしている
島津等さんはこう言われたといいます。

 

「お前一人帰ってきたために、何人ものアメリカ
兵隊が助かっている、なんで死んで来なかったんだ。
理由の如何を問わず、お前ら国賊だ」と。

 

 

 

「法律等を知る前に洗脳しちゃう」

数十年後、作家の林えいだいさんの取材を受けた
倉澤参謀のこのような言葉が録音されています。

 

「我々素人を、特攻隊用に大学から引っ張って、
話が、筋が違うという態度が、露骨には言わない
けれど消えなかった……」

 

「法律とか政治を知っちゃって 人の命は地球よりも
重いなんてことを知っちゃうと、死ぬのが怖くなる
んですよ」

 

「それを世間常識のないうちから、徹底的にマインド
コントロール、洗脳すればね、自然にそういう人間に
なっちゃうんですよ」

 

振武寮の隊員たちは、不条理な死に疑問を
持ちながら、死に勝る屈辱に耐えます。
20年6月23日、振武寮は沖縄戦の組織的戦闘
の終結とともにその目的を終えました。

 

 

 

「今度は、決して生きて帰らない!」

特攻作戦を止めようとしない軍は、特攻隊を解除せず、
今度は彼らに本土決戦に死もって戦うことを求め、
厚木へ行こうがどこへ行こうが、特攻隊で死なな
ければいけなかったのです。

 

三重県の飛行場に配置された大貫さんは、
「今度出たら、海の中にでも突っ込んで、二度と
帰るまい、帰ってまた振武寮みたいな所に入れられて
朝から晩まで痛めつけられて……。
今度は出たら、伊勢湾に突っ込もうが、自爆しようが、
絶対に生きて基地に戻るまいと決めていた」
との思いを胸に抱いていましたが、8月15日、終戦。

 

 

 

一行の記述も残されていない「振武寮」

大貫さんは、自分が特攻隊員だったことを長い間、
話すことができずにいました。

 

「生き残ったことが彼らに申し訳ない、
言い尽くすことはできない。
特攻なんで勇ましいものでもなんでもない。
今の若者と変わらない。
特攻なんて無茶な作戦は二度とごめんだ、
死んでいった者も残った者も同じ思いだと思います」

 

林えいだいさんの取材を受けた2週間後、
倉澤参謀は86歳で逝去しています。
倉澤参謀は戦後、元特攻隊員たちを恐れ弾を込めた
ピストルを肌身離さず携帯していたと語っています。
万一のことを考えて(「やられると思って」)、
80歳になるまで軍刀も持っていたそうですが、彼も
特攻隊のことを家族に話すことはありませんでした。

 

福岡市に1か月半だけ存在、80人の特攻隊員が
収容された振武寮について、陸軍関係の歴史書
には一行の記述もないということです。

 

 

 

ツイッター

「ヒカル猫 2019年8月19日

私の祖父は知覧から特攻しました。
エンジンの不良で引き返しましたが、非国民
呼ばわりされた。
その後そのまま終戦になりましたが、祖父が
戦争に関して語ることはなかった。
ただ生き残ってしまったと焼酎飲みながら
泣いていた。
絶対に戦争なんか駄目だ。
祖父の記憶がその証拠です」

 

「sallysmilly from NZ 2019年8月18日

今見終わって、ショックで動けないでいます。
振武寮があった場所は、以前働いていた職場の
すぐ側で…あそこにこんな物が存在してその存在
が全く持って記録に残されてすらいない、なかった
ものとされている現実。
倉沢参謀の一言一言を特攻遺族や生き残った
特攻隊員はどんな思いで聞いているでしょう」

 

「kenちゃん 2019年8月19日

有名な、池田高校蔦監督も特攻からの生き残りでした。
蔦さんは、選手に言ってましたよ。
『生きて生きて生き残ることや。人間、死んだらあかんのや』
特攻で多くの仲間を失った蔦さんだから出た言葉ですね。
戦争は悲劇以外の何物でもありません。
私達の責任は重大です」

 

「yn 2019年8月18日

戦った国民の多くは、旧憲法下の徴兵制度に基づく召集
令状や学徒出陣に起因しており、そもそも志願兵ではない。
職業軍人としての下士官連中も自分達の戦死は殆ど想定
していなかった筈。
特攻隊は国家による国民の殺戮と位置付けるのが自然で
あり、当時のこの国の異常性が際立っていたと考えるべき」

 

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