半藤一利さん 逝く

「東京新聞 2021年1月13日

半藤さんは、17歳の旧制高校の時に
東京裁判を傍聴した。
A級戦犯に問われた軍人らを見て
『戦争のリーダーはこんなくたびれた
老人ばかりかと驚いた。
これじゃ勝てるわけがない」

九死に一生を得た東京大空襲の体験。
そして、編集者としてかいふの急軍人ら
に直接取材した経験が原点だった。
1963年に、敗戦時に政府や軍中枢にいた人物
や、前線にいた将兵ら28人を集めた座談会を
開き、「日本のいちばん長い日」として公表。

「大事なことは全て昭和史に書いてある」と
語っていた半藤さんは、そこから学ぶべき
5つの教訓を挙げている。

1 国民的熱狂をつくってはいけない。
 そのためにも言論の自由・出版の自由
 こそが生命である。

2 最大の危機において日本人は抽象的な
 観念を好む。
 それを警戒せよ。
 すなわちリアリズムに徹せよ。

3 日本型タコツボにおけるエリート小集団
 主義(例・急日本陸軍参謀本部作戦課)
 の弊害に常に心せよ。

4 国際的常識の欠如に絶えず気を配るべし。

5 すぐに成果を求める短兵急な発想をやめよ。
 ロングレンジの物の見方を心がけよ。

半藤さんは、ノンフィクション作家の保阪正康
と共著で観光した
「そして、メディアは日本を戦争に導いた」
(東京経済新報社)で、
「(戦時中の新聞は)沈黙を余儀なくされた
のではなく、商売のために軍部と一緒になって
走った」
と厳しい目を向けている。
私たちは決して同じ轍を踏んではならない。
再び戦争をする国にしない。
それが半藤さんん志を継ぐことであると思う。
(研修局次長・瀬口晴義)」

 

 

 

「但馬問屋 2021年1月17日

#サンモニ

半藤さんに深刻な危機意識をもたらしたのは、
今の日本と戦前の日本の空気に共通するもの
を感じたこと。

『「言論」に対する制約に先ず手をつける。
「教育」というものに手をつける。
さらに「軍事同盟」という形を取る。
戦前もそっくり同じにやってきた』

“半藤一利さんのメッセージ”

『絶対に正義は勝つ、絶対に神風が吹く、
絶対に日本は負けない。

私は二度と「絶対」という言葉は使わない
と心に誓ってきました。
しかし今、「絶対」という言葉を使って
どうしても伝えたいたった一つの思いがあります。

戦争だけは絶対に始めてはいけない』」

 

 

 

「愛@Mey257 2021年1月17日

#憲法は権力者をしばるもの
#憲法改正反対
戦争体験者の言葉は重い。
戦争を体験しているからこそ分かる事があります。
半藤一利さんが残してくれたもの」

 

 

 

「FRIDAY  DIGITAL 2021年1月15日

1月12日、90歳で亡くなった半藤さんは
東大文学部を卒業後、文芸春秋に入社、
専務取締役を経て文筆家になった。
終戦の日を描いた『日本のいちばん長い日』
『ノモンハンの夏』『昭和史』『文士の遺言』
などの作品を残した。
歴史とは何か、戦争とは何かという問いに
徹底的に向き合った。

昭和5年、東京の向島に生まれ、
翌年には満州事変が勃発。

昭和15年頃になると、互助組織だった『隣組』
が監視機関になるのを目の当たりにした。
『この戦争は負ける』という父の発言を密告さ
れ、1年あまりの間に3度も警察に踏み込まれる。
軍人の学校には一切行かないと決めていた半藤
さんは、「オマエは非国民だ」とよく罵られた。

昭和20年3月10日、東京大空襲。
焼夷弾の荒れ狂う中逃げまくり、九死に一生を
得た。
空襲がおさまった後、焼け野原の中で、そこら中
にある支隊を片付けました。
防空壕の中があんな風に蒸し焼きになるなんて…
…想像を超えていました。
蒸し焼きだから黒焦げじゃないんです。
おびただしい支隊が折り重なっていてね。
それを片付けていくと、いちばん下のしたいだけ
は直接地面に接触してたんかしている。
これは、実に軽かったですね。
中学2年の私がひょいとモテちゃうくらいでした。

そうやってしたいを運び出していたら、2時間ぐ
らいで警防団の大人たちに「お前たち、もうやめろ。
これは大人の仕事だ。帰れ」
と追い払われた。
帰れと言われたって、一面焼け野原でしたがね。
ただ、もっと支隊処理を続けていたら、今でいう
トラウマになってたかもしれません。

だけどこんな話は、40代半ばぐらいまでは、
到底口にできませんでした。
話し始めたのは、自分が仕事で旧軍人の話を
聞くようになったからです。

旧軍人て、嘘をつくんですよ。
もちろん誠実な人もいましたが、それ以上に
他人の話を自分のことのように話す奴、自己
弁明をする奴が山ほどいた。
始めのうちは私も本当のことだと思って全部
鵜呑みにしていたんです。
ところが、だんだん取材を重ねていくうち、
他の証言や記録とかから考えて、コイツがそ
の日時にその戦線にいたはずない、というこ
とがわかってくるようになった。
それを指摘すると激高するんですよ。
お前みたいな戦争を知らない若造に何がわかる!
ってね。
それで言い返すようになった。

「あんたはそういうけど、本当は最前線に出
ないで南の島の基地にいただけじゃないか。
その頃俺たちは本土空襲で焼夷弾を山ほど浴
びて、死ぬ思いをしたんだ!」。
そう言わざるをえなくなった。

戦争の話は、本当にこちらが勉強して、かな
りの知識を詰め込んでから対峙しないと危ない。
本人が言っているんだから間違いない、なんて
ことはないんですよ。
誰だって自分を守りたい。
それを忘れちゃいけません。

私自身、必死に東京大空襲を生き抜いたけど、
だんだん語り慣れてくるというのかな。
気がついたら、非常に冷静沈着な勇気ある少年
が、あの火事の中を逃げて、人を助けようとし
て川に落ちて……なんて、格好いい体験談になっ
てきた。

あのときの私は、実際はそこら中に散らばる死
体を見ていても、哀しいなんていう気分は全然
なかった。
麻痺していました。
そういう言いたくない部分は抜け落ちてしまう
んです。
ただ、かく時はさすがに自生が利きますから大
言壮語にはなりにくい。
最近、よく「体験を語り継げ」という声を聞き
ますが、実は語り継ぐのは難しいことなんですよ』」

 

 

 

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