保科正之・長屋暮らしもした将軍の子 「三の橋」古川の橋11

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160814tunazaka

 

 

「二の橋」と「三の橋」の東側

古川に架かる「三の橋」は、古川の東側(地図では右)
に、会津藩保科家(松平肥後守)の下屋敷があった
ことから「肥後殿橋」とも呼ばれていました。

 

現在の住所でいいますと
港区三田2丁目あたりになります。
会津藩保科家の上屋敷「和田倉門邸」は
鍛冶橋内の千代田区皇居外苑3付近でした。

 

中屋敷は「芝藩邸、芝新銭座邸」で、
港区東新橋1丁目付近、現在ではホテル
ヴィラフォンテーヌ汐留のある一帯。

 

そして今日、御紹介の下屋敷「三田藩邸」ですが
1658(万治元)年5月15日にこの屋敷を構えてからは
実質的な拠点となりました。
「御田下屋敷」とも呼ばれていたそうです。

 

 

古川に架かる橋hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

 

広大な敷地をもつ「三田藩邸」

下の江戸時代の地図では、水色の矢印の場所が
「二の橋」で、緑色の矢印が「三の橋(肥後殿橋)」。

 

「三の橋」から「二の橋」近くまでの
古川の東側に「  ●  ●  ●  」で囲った所が
会津藩保科家下屋敷、三田藩邸の敷地です。

 

 

aiduhoshina会津藩保科家下屋敷「三田藩邸」

 

 

現在、その場所には三井倶楽部の南半分や
慶応義塾中等部等がありますが
敷地面積は、なんと32,972坪もあるそう。
屋敷内で軍事調練が出来るほどだったといいます。

 

会津藩保科家の三田藩邸の右側の「——  」が
「三田綱坂」と呼ばれる坂ですが
次の写真ですとお屋敷は右側になります。

 

この屋敷の主が、明暦の大火の際に
陣頭指揮をとった保科正之です。

 

 

160814tunazaka会津藩保科家下屋敷沿いにある「三田綱坂」

 

 

 

隠れるようにして出産

保科正之は前回、御紹介した第4代・徳川家綱の叔父
にあたり、第2代将軍・秀忠の子でしたが庶子だった
ため、江戸城で出産することは許されず、正之の
存在すら、幕府では数名の人間が知るのみでした。

 

正之を生んだ母・静(志津、後の浄光院)は
『会津家世実記』では、秀忠の乳母の侍女の
神尾栄嘉(かんおさかよし)の娘としています。

 

一方、『柳営婦女伝来』では、武蔵国板橋郷
竹村の大工の娘と記載されています。

 

 

 

 

生まれた場所についても『松平会津家譜』では
江戸神田白銀の竹村次俊宅とありますが
江戸北の丸にいた武田信玄の次女・見性院の
所領、大牧村(浦和)だという説もあるようです。

 

そんな幸松(正之の幼名)が誕生したのは
1611年6月17日(慶長16年5月7日)。

 

静の最初の子は出産することも叶わず、一時は
お江の方一派に命を狙われたため、幸松と静は
裏長屋で暮らしていたともいわれています。

 

 

010_1_201311241629247a6 正之の時代に作られた小袖

 

 

 

高藤藩主・保科正光の養子に

そのうちお城から迎えが来るだろう、との期待
が裏切られただけではなく、正之は父である
秀忠に会うことさえできませんでした。

 

武田信玄の娘・見性院の元で養育されていた幸松は
1617(元和3)年、6歳の時に信濃国高遠藩主・
保科正光の養子になることが決まります。

 

これにより母と幸松、二人の身の安全は
確保されることになりました。

 

 

 

 

(幸松が養子に行ったのは「7歳」と記載されている
ことが多く、当時の年齢の数え方ですが、ここでは
全て現代の年齢の数え方で書きたいと思います)

 

保科正光には跡継ぎにする予定だった弟の正貞や、
養子の左源太がいたことから、幸松(正之)は
養子に行くことを嫌がったといわれています。

 

 

 

narabukuyo保科家の家紋「並び九曜(角九曜)」

 

 

 

生涯「保科」姓を名乗る

高遠藩の保科家では幸松を将軍の子と戴いて、
跡継ぎにする予定だった左源太を廃嫡しましたが
正光は、左源太には生活に不自由しないよう
加増や金子を与えることを遺言しています。

 

また正光は、秀忠と正之の父子対面を実現させたい
とも願っていたといいますので、正之は実父は
ともかく、養父には恵まれていたといえるでしょう。

 

しかし残念ながら、父子対面の実現前に
正光は亡くなってしまいます。
1631(寛永8)年11月12日、21歳になっていた幸松は
名を保科正之と改め、三万石の高遠藩主となりました。

 

 

 

 

公式行事以外は冬でも裸足でいたという
正之は、城外で領民と触れ合うことも多く
藩主の使命は領民の幸せと学んだといいます。

 

保科正之は出世をした後に、松平を名乗ることを
勧められますが、養父・保科正光の恩を重く
感じて生涯、保科姓を名乗りました。

 

 

徳川家(1〜5代将軍)

*   ① 家康
*   |__________________ _ _
*   |     |     |     |
*     信康    秀康     ② 秀忠    忠輝
             1579〜1632
                |
                |
*    __________  |_____
*   |      |   |  |  |  |  |  |   |
*   ③ 家光    忠長       保科正之
  1604〜1651   1606〜1633      1611〜1672  ::  *
     |
    |
*    |____________
*    |     |     |
    ④ 家綱    綱重   ⑤ 綱吉
  1641〜1680

 

 

 

兄たちとの対面

藩主になる前の1629年には、兄である
駿河府中城主・徳川忠長(秀忠の二男)
と初めて会うことになりました。

 

正之を気に入った忠長は家康の
葵の紋のついた遺品を与えてます。

 

(しかし忠長はわずか4年後の1633(寛永10)年
12月6日、 様々な事件を起こしたため、幕命に
より配流地の上野国高崎で自害しました、享年28)

 

 

「三の橋」の東側(写真では左)一帯が会津藩下屋敷のあった場所

 

 

正之が藩主となった翌年の1632(寛永9)年1月、
正之を正式に子どもと認めなかった秀忠が亡くなり
長男・家光が3代将軍に就任します。

 

家光がお忍びで目黒に鷹狩りに行った折、お寺の
僧侶に保科正之が弟であることを知らされます。

 

驚いた家光でしたが、正之のあくまでも
家臣として接する謙虚な姿に、次第に
弟への親愛の情を深めていきました。

 

 

160814ninohasihyugazaka「二の橋」から見た古川

 

 

 

「高遠」 →「 山形」 →「会津+幕政」

家光の信頼が深まると同時に
正之は目覚ましい出世をしていきます。

 

1636(寛永13年)7月21日、25歳の時に
出羽国山形20万石へと大幅な加増移封後、洪水や
凶作で苦しむ領民を救うための仕事にかかります。

 

1643(寛永20年)7月4日、32歳で
陸奥国会津藩23万石に移封。

 

これ以降、幕末まで正之の子孫が
会津藩主を努めることになりました。
すでに20代の頃から幕政に関わっていた
正之に一層の重責が加わります。

 

1651(慶安4)年4月20日の家光臨終の間際に
「肥後よ宗家を頼みおく」と、次期将軍・家綱の
補弼(ほひつ、補佐)をまかされたのです。

 

 

 

 

正之は20年以上もの長い間、
会津へ帰ることなく幕政に専念しました。

 

とはいえ正之は会津を重臣たちに任せきりに
することはなく、遠く離れた江戸より指図を
して会津藩の改革にも尽力しています。

 

「殉死の禁止」「税制改革と減税実施」
「飢饉対策」「90歳以上の高齢者への扶持米支給
(これは年金制度の始まりといわれている)」
「間引きの禁止」「救急医療制度の創設」等々。

 

 

160814hyugazaka「二の橋」を渡ると「日向坂」 会津藩保科家下屋敷付近

 

 

 

「都知事」兼「首相」

正之は、会津藩主であった以上に江戸の幕政に
専念して、まさに東京都知事であり日本国首相
のような働きをした人でもありました。

 

武力の武断政治から文治政治へと流れを変え、
「末期養子禁の緩和」「大名証人制度の禁止」
「殉死禁止令」の三大美事といわれる正之の施策は
江戸幕府の基盤を安定させることになりました。

 

忘れてはいけないのは、このブログで紹介
している、麻布の古川の水源の一つである
玉川上水の開削をしたのも保科正之。

 

江戸の人口が増えて、足りなくなった
水を補うための策でした。

 

 

160729ninohasi古川に架かる「二の橋」

 

 

 

自分の屋敷は後回し

明暦の大火(振袖火事)では江戸城も
二の丸を除いて多くを焼失しました。
幕閣らは天守閣の再建を主張しますが
正之は町方の復興を優先します。

 

廃墟のようになってしまった江戸の町の復興に
全力を注いでいる正之には、焼失した自分の屋敷
のことなど考える余裕はなく、そちらは全て
嫡子・正頼に任せきりの有様。

 

その時の過労がもとで正頼は病死をしてしまいます。
しかし、その死を悲しむ暇もないほど
正之は奮闘を続けたのです。

 

 

 

 

明暦の大火の数年後、無理がたたった正之は
50歳を過ぎる頃からろうがい(結核)に苦しみ、
また眼病も患って晩年には失明。

 

将軍の子に生まれながら、兄弟すら自分の存在を
知らず、長じては、4代将軍となった幼い甥・家綱
を全力で支え、将軍以上の働きと実績を残し
生涯、養父の姓を名乗り続けた正之。

 

会津藩保科家が「松平」姓を名乗り
「会津葵」の家紋を使うようになったのは
第3代藩主・正容(まさかた)からです。

 

 

 

aiduaoi「会津葵紋」

 

 

 

1672年(寛文12年)12月18日に、「肥後殿橋」
と呼ばれた「三の橋」近くの会津藩江戸下屋敷で
保科正之は亡くなっています。
61歳でした。

 

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「レーベルカフェ」二の橋の袂にある素敵なカフェ 古川の橋10

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160814labelcafe

 

 

「二の橋」の袂

麻布通りから「二の橋」を渡って「日向坂」、
オーストラリア大使館などの写真を撮った後に
「二の橋」の袂(たもと)で見つけた「レーベル
カフェ」で一休みすることにしました。

 

(「レーベルカフェ  トーキョー(Label  cafe  Tokyo)」
〒108−0073 港区三田1丁目11-49
レーベルビル1階 03-5444-6677
火曜定休 9:00〜17:00)

 

「レーベルカフェ」は、水分不足で疲れた真夏の
夕方に、突然現れたオアシスという感じ。

 

「日向坂」からお店へと続く、この通路を
見ただけでも、素敵なお店という期待感で
ドキがムネムネしてしまいます。

 

 

160814lanelcafe「日向坂」からお店へと続く通路

 

 

のどの渇きももちろんですが、お腹も
すいていたので、この写真の左にある椅子の
メニューを見ましたが、残念ながら
この時間はケーキ以外はないようですね。

 

モーニングセットと、ランチセット、
それ以外はお茶の時間。

 

朝は9時からオープンしているようですが
夕方の5時に閉まってしまうというのは
ちょっと早い感じもしますが。

 

カフェでモーニングセットを頂いたのは
一体いつだったか忘れてしまったほど前ですが
今度「レーベルカフェ」で食べてみたいな。
まあ、何はともあれ今日はのどの渇きを潤しに。

 

 

 

どっしりした木のドアを開くと

壁でスペースが少し区切られているように
見える、写真の左の方に入口のドアがあります。

 

 

160814labelcafetokyo麻布「レーベルカフェ トーキョー」

 

 

う〜ん、外から見て思った雰囲気通りのお店です。
奇を衒(てら)うような派手なお洒落さではなく
落ち着いた自信を感じさせるセンスの良さという感じ。

 

入った瞬間の空気感もさることながら
私は何といっても、壁面の一面の大きな曇り
ガラスの醸し出す雰囲気に圧倒されました。

 

はっきりと見えるわけではないのですが
存在感のある木々たち。
ちょっと森みたいな感じがしますね?

 

と思うでしょ、ところ違うのですよ。
麻布十番側、麻布通りから見た
「二の橋」はこんな風です。

 

 

160729ninohasi麻布十番の方から見た「二の橋」

 

 

実は上の写真には、ほんの少しだけ
「レーベルカフェ」が写っています。

 

左上の高速道路の太い脚の左側に、5ミリほど
見えているのですが、これでは全くわかりません
ので、次の写真をどうぞ。

 

「日向坂」の方向に向かって、「二の橋」を
三分の一か半分ほど行った所で「レーベルカフェ」
方向を撮ったものです。

 

 

「二の橋」の中ほどから古川と「レーベルカフェ」を臨む

 

 

この写真では、高速道路の下の右端の中央
あたりに見える建物が「レーベルカフェ」です。

 

外からですと、先ほどのガラス一面に描かれた
ように写っていた、木々の存在はあまりわからず
あの木は、どこにあるの?という感じ。

 

でもこうして見ますと、古川は結構大きい川なのですね。
第7代将軍・徳川綱吉が「四の橋」の麻布御殿
(白金御殿)に船で行くことができるように
川幅を1間ほど大きくしたのですものね。

 

ここからでは、あんなお洒落な「レーベルカフェ」
があるとはとても思えないところも
意外性があって、隠家風でいいのかも。

 

 

160814labelcafetokyo木々が描かれたような「レーベルカフェ」の壁面ガラス

 

 

 

野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー

訪れたこの日は8月14日、お盆期間中だったの
ですが、お休みはあくまで定休の火曜日だけ
ということで通常の営業でした。

 

さてさて、何にしましょうか?
とメニューとにらめっこ。

 

ランチは「日替わりプレートごはん」と
「野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー」があるようです。

 

「日替わりプレートごはん」は、10種のおかずと
黒米ごはんに、2日毎に替わる具だくさんスープが
添えられている魅力的なメニュー。
毎日のスープの名前が小さな紙に書かれています。

 

ランチの時間(11:30〜15:00)はとうに過ぎて
いたのですが、カレーを用意してもらえる
ことになりました、感謝、感謝。

 

 

labelcafecurry「野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー」温泉卵のせ

 

 

「野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー」には
温泉卵かパクチーをのせてもらうことが
できるので、私は温泉卵を選択。

 

御覧の通り、お米が「日替わりプレートごはん」
同様、黒米でその他の穀物も入っていましたよ。

 

御飯はかなり柔らかめでしたが、キーマ風
カレーってこういうのなのでしょうか?

 

 

160524kurogome黒米

 

 

飲物は「レーベルカフェ」自家製の
梅シロップをソーダで割ったもの。

 

冷たいお水割りや、ホットも可能だとか。
甘すぎず、サッパリとして
暑い日にはぴったりの飲物でした。

 

 

160814labelcafeumesiroppusoda「レーベルカフェ」自家製の梅シロップソーダ割り
(ボケててごめんなさい)

 

 

この「レーベルカフェ」、何かやたらお洒落だなあ
と思っていたら、レーベルクリエーターズという
モノづくりメーカーが作ったカフェだそう。
ふ〜む、やっぱりね。

 

「レーベルカフェ」のあるビルが
レーベルビルで、上階は会社というつくり。
2004年に生まれた日本のモノづくり
衣・食・住をテーマにした会社です。

 

 

 

壁面の大きなガラスが絵画のような美しさ

「レーベルカフェ」は大阪にもあって、そちらも堂島川
に面したお店だということですが、違うのは
「レーベルカフェ OSAKA」の大きな壁面は
曇りガラスではなく普通の透明のガラスだということ。

 

 

labelcafeosaka(写真/「レーベルカフェ OSAKA」)

 

 

外の景色が見えるのも開放感があって、とっても素敵
ですが、麻布の「レーベルカフェ」のガラス窓も
負けず劣らず、独特の雰囲気を醸し出していますよね。

 

もしかしたら、先ほど外からの写真をご覧いただいた
ように、曇りガラスの窓は、さほど美しくないものを
隠す目的なのかもしれません。

 

でも、そうであったらなおのこと
極上の仕上がりといった美しさですね。

 

この日は「レーベルカフェ」に、パソコンを持って
きている女性が2人いましたが、私もパソコンを持って
きて、住み着いてしまいたいほどの心地よさでした。

 

 

160814labelcafe麻布「レーベルカフェ トーキョー」

 

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「日向坂(振袖坂)」と「仙台坂」を繋ぐ「二の橋」 古川の橋9 「振袖坂」の名前の由来の一考察

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160729ninohasi

 

 

「二の橋」の欄干は矢羽根模様?

古川の橋、今日は「二の橋」の御紹介です。
冒頭の写真の手前側が麻布十番4丁目6番 で、
「二の橋」を渡った先は三田2丁目1 番 になります。

 

港区に入った古川の橋を「天現寺橋」から辿ってきて
今日の「二の橋(  m  )」は、11番目の橋。
住所が「南麻布」から、ここで初めて
「麻布十番」になりましたね。

 

 

古川に架かる橋hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)・
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

現在の「二の橋」は、1998(平成10)年12月に
新しく架け替えられたもので、長さは20メートル、
幅は15メートルほどの橋です。
橋の様子を書こうとして、その部分の名称がわからず…

 

「欄干」でもないですし、「手すり」とも違うしと
検索してみましたら「欄干(欄杆・おばしま・手すり)」
とありました。
欄干でいいのですね、あるいは手すりでもいいみたい。

 

 

160729ninohasi ↑ 「二の橋」のこのあたり矢羽根模様に見えませんか?

 

 

 

矢羽根模様は毛利家から?

とにかく「二の橋」のその手すりの部分の模様が
矢羽根を象ったようにも見えますよね。

 

と書きながら、ふっと思いました。
江戸時代、この「二の橋」を渡った場所には
徳山藩毛利日向守の屋敷があったことから
「日向橋」とも呼ばれていた橋です。

 

ということは、毛利家から「三本の矢」→  矢羽根模様
ということなのでしょうか?、調べた限りでは
そのような記述は見当たりませんが。

 

 

160729ninohasi麻布十番側から見た「二の橋」はすでに坂道

 

 

 

「日向坂(ひゅうがざか)」

上の写真でもおわかりの通りに、「二の橋」は
麻布十番(手前)から三田(橋を渡った先)
へと上り坂になっています。

 

そしてこの「二の橋」を渡ると
そこからは「日向坂」が始まります。

 

 

160814hyugazaka「二の橋」を渡ったところから始まる「日向坂」

 

 

「日向坂」の名前の由来としては
以下のように書かれています。

 

「江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。
振り袖坂ともいった。由来は不明である。
誤って日なた坂とも呼んだ」

 

「由来は不明」というのは「日向坂」の方ではなく
「振袖坂」の名の由来が不明ということですよね?

 

 

 

「日向坂」の別名「振袖坂」

「振袖坂」とはこれまた美しい名前の坂ですが
同じ名前の坂が、仙台の宮城野区榴岡(つつじがおか)
にもあることを知って(『flom  仙台』)
また、ふっと思いました。(よくふっと思う日です)

 

「日向坂(振袖坂)」を「二の橋」まで戻り、
そのまま真っすぐ麻布十番の方に行きますと
南麻布1丁目と元麻布1丁目の間に「仙台坂」
という坂があります。

 

 

160712sendaizaka元麻布1丁目と南麻布1丁目の間にある「仙台坂」

 

 

名前の由来は、当然のことながら仙台藩伊達家
の下屋敷があったことによるのですが、坂に
隣接している南側一帯が仙台藩下屋敷でした。

 

住所は南麻布1丁目2-5で、1657(明暦3)年
5月14日に拝領した屋敷です。

 

 

hyugazakasendaizaka・・・)内が「仙台藩伊達家下屋敷
その北側の(———)が「仙台坂
 ↓  )の所が「二の橋(日向橋)
———)が「日向坂(振袖坂)

 

 

 

品川区にも「仙台坂」

現在は、汐留の日本テレビタワーがあるあたりにも
仙台藩の屋敷があって、近くにある坂はやはり
「仙台坂」と呼ばれていました。

 

そちらは品川区東大井4丁目と
南品川5丁目の間にあるそうです。

 

伊達家は外様大名の伊達政宗が樹立し
明治になって廃藩置県を迎えるまでの長い間
途切れることなく仙台を統治した大名です。

 

 

140915satumaimotakikomigohan

 

 

 

諸藩中、第3位の石高

石高は、表高62万56石4升4合で
諸藩のなかで第3位を誇ります。
実高は、支藩であった一関藩を含めて
18世紀初頭には100万石を超えていたといいます。

 

江戸の人々が食べていたお米も
仙台藩でとれたものだったそう。
また、干しアワビやフカヒレも
長崎俵物として外貨も得ていたとか。

 

伊達本家は大広間詰国持大名で代々、将軍家
より松平姓を許された家でもあり、歴代藩主の
ほぼ全てに、陸奥守の官位が与えられています。

 

伊達家は地方知行により多くの陪臣を抱えており
直属家臣が約7千人(江戸中期では約1万人)、
陪臣を合わせますと2万数千人から3万人(江戸中期
は約3万5千人)という兵力を抱えていました。

 

 

150503hakkogenmai

 

 

 

「陪臣」とは、家来の家来

ここで「陪臣」という言葉が出てきましたが
「陪臣(ばいしん)」とは「又者(またもの)」
ともいわれ、主従関係において家臣の
そのまた家臣を指す言葉です。

 

たとえば将軍の家臣といえば
大名や旗本、御家人であり「直臣(じきしん)」。
大名を除いた旗本、御家人は「直参(じきさん)」
と呼びます。

 

 

 

その大名や旗本、御家人の家臣は
将軍から見れば「陪臣」となります。
「陪」は重なるの意味で、「陪臣」は
家来の家来、またげらいのこと。

 

ちょっと話はそれますが前回、書きました
寺坂吉右衛門
のことを陪臣という人がいます。
寺坂が、浅野内匠頭の家臣・吉田忠左衛門
の足軽だったからです。

 

確かに最初はそうでしたが後に、浅野内匠頭の
足軽になっていますので、寺坂吉右衛門は
浅野内匠頭の陪臣ではなく、れっきとした家臣です。

 

 

150528teapothuji

 

 

 

仙台の「振袖坂」もなだらかな坂

話を戻しまして家臣で1万人、陪臣を合わせると
3万人以上という伊達家の家臣のうち、どれほどの人
が麻布の仙台藩伊達家下屋敷にいたかはわかりません
が、かなりの数だったことは想像に難くありません。

 

そこで暮らす多くの人たちも
当然この辺りを歩いたことでしょう。

 

「仙台坂」の方は、長さも長く傾斜がきつい
坂然とした坂(?)ですが、「日向坂(振袖坂)」
はおっとりとした短い坂。

 

次の地図でもおわかりの通り「日向坂(振袖坂)」は
「仙台坂」の半分ほどの長さですが、仙台の宮城野区
榴岡(つつじがおか)にある「振袖坂」も
なだらかで短い坂だということです。

 

 

 

hyugazakasendaizaka仙台藩伊達家下屋敷沿いにある「仙台坂」の
少し先の「二の橋」を渡ると「日向坂(振袖坂)

 

 

 

仙台の「振袖坂」の名の由来

「郷土史『仙台耳ぶくろ』三原良吉  宝文堂刊」
には「振袖坂」の名の由来としてこのように
記されているそうです。

 

享保(1716〜1735)の改革で知られる
第8代将軍・徳川吉宗の時代。

 

信仰心が厚く、参詣することを願いながらも
病死した仙台の呉服屋の娘の魂が、死後お寺に
行き巡礼者に自分の振袖の片袖を託します。

 

娘の四十九日にあたる日に、巡礼者は片袖を親元に
届け、片袖を埋めた塚のそばにあった坂を
「振袖坂」と呼ぶようになったというお話です。

 

 

150528thicpukikkou

 

 

「振袖坂」命名の一考察(?)

麻布の「仙台坂」の先にあった「日向坂」は
「仙台坂」とは異なりおだやかな坂で
まるで故郷、仙台の「振袖坂」を思わせる坂、

 

その坂を通る時に、仙台の「振袖坂」の片袖のように
今すぐここから懐かしい故郷、仙台へ飛んで帰りたい
と思っていたのかもしれません。

 

そうした人たちが「仙台坂」の少し先に位置する
「日向坂」を、故郷の「振袖坂」と同じ名で呼ぶ
ようになったのではあるまいか、
との妄想が湧いてきてしまったというわけです。

 

 

160814hyugazakaueここで「日向坂(振袖坂)」は終わり

 

 

明暦の大火、振袖火事絡みではない

最初に「振袖坂」と聞いた時には、1657
(明暦3)年の江戸の大火、振袖火事に
関連する名前なのかなと思いました。
(その話を書くと長くなりますので、また今度)

 

ところが「振袖坂」の名はそれとは無関係のよう。
振袖火事絡みでしたら、坂の名の
由来として残っているでしょう。

 

ということは振袖火事とは関係のない
ところから来ているのではと。

 

 

 

 

暑い日差しの中を歩いていて、ちょっと
考え過ぎてしまったのかもしれませんね。

 

そうそう「二の橋」の袂(たもと!)に
素敵なカフェがありましたので、行ってみましょうか。

 

 

 

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