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お家騒動
六本木7丁目に下屋敷のあった佐賀藩鍋島家
(「佐賀藩鍋島家の成立とお家騒動」)は
もとは佐賀の龍造寺家の家臣でした。
後に、佐賀藩鍋島家の藩祖となる鍋島直茂(1538〜
1618)は、主君の龍造寺隆信の死後、病弱だった
後継者の補佐役を務めると同時に、豊臣秀吉から大名
として所領も与えられているという不思議な立場。
隆信には、病弱な後継者・政家以外に実は幼いながらも
二人の子がいたのですが、直茂が出家させていました。
そのような経緯の上、政家の子・高房が妻を殺害し
自らも命を絶つという衝撃的な事件が起きたことから
巷では隆信の祟りとの噂が囁かれるようになります。
それどころか挙げ句の果て、話は「化け猫騒動」
にまで脚色され、歌舞伎の演目になるという有様。
上映される際に、佐賀藩鍋島家から強い抗議が
あったため、主人公の名前を変える等の
変更をして上演したそうです。
関ヶ原は、父子で東西に分かれて
1600(慶長5)年の関ヶ原では、鍋島直茂が
東軍の徳川方、子の勝茂(1580-1657、
佐賀藩鍋島家初代藩主)が西軍の豊臣方と
分かれて戦っていますが、これは家の生き残り
をかけた選択であったといわれています。
秀吉の死後、直茂は徳川家康に
従う方針を早々に打ちだします。
一方、西軍が敗れ窮地に陥った
子の勝茂は、同じく西軍の島津氏から
一緒に船で帰国することを勧められました。
しかし切腹を覚悟していた勝茂は
大坂に残ることを選びます。
家康は父・直茂の忠誠などにより
勝茂を赦し、代わりに筑後・柳川の
立花宗茂を討つことを命じました。
これは家康が、鍋島家に恩を与えることにより西国、
中でも九州の島津家、毛利家、立花家など豊臣系大名の
制圧に利用しようとしたためと考えられています。
家康の養女を継室に迎える
柳川城を落とし、島津征討に参戦したことにより
1601(慶長6)年、直茂に肥前35万7千余国を
安堵する朱印状が家康より下されます。
直茂はすぐに、勝茂の弟である忠茂を
人質として江戸の秀忠に差し出しています。
1603(慶長8)年に秀吉の養女だった勝茂の前室が
亡くなると、家康の縁族の端になりたいと願い出て
1605(慶長10)年に、家康の養女を継室に迎えました。
「老松雲竜図鐔(おいまつうんりゅうずつば)」
江戸時代前期 河村若芝作(佐賀出身の画家)
縦横とも 7.5cm (写真/「徴古館」)
藩財政が窮するまでの将軍家への尽力
幕府は、1604(慶長9)年に江戸城普請計画を
発表して西国の諸大名らに手伝いを命じます。
徳川家康との関係修復のために勝茂は積極的に
尽力し、1606(慶長11)年から始まった
本格的な普請の際には、虎ノ門の普請を担当。
翌々年の1608(慶長13)年には駿河城の普請、
1609(慶長14)年、1610(慶長15)年の名古屋城、
と普請は相次ぎ、鍋島藩の財政は大きな痛手を被ります。
同じ頃、中国、四国、九州の大名も各々の
城普請を行い、鍋島藩も1608(慶長13)年
に、佐賀城を本格的に普請。
このような大名の城普請に対し、家康は好ましくない
と制し、なかでも広島城主・福島正則の新城に
対しては破却するという手荒な手段をとっています。
忠誠をかたちに
1614(慶長19)年の夏、勝茂は江戸で家康の腹心
である本多正信に面謁して相談をしています。
「(関ヶ原の戦いでは)所存に任せざる次第
を許されて、本領安堵をうけたのは新恩頂戴
同然である」などと感謝し、妻子を江戸に
引っ越させ忠誠を表したい旨を表明。
また、大坂冬の陣が起きる頃に、勝茂は大阪方から
勧誘の書状を受け取っていましたが、それを未開封
のまま徳川家へ差し出して、その忠誠を賞されます。
大坂夏の陣が起こると九州の諸大名のうち
島津氏の出陣が止められ鍋島勝茂のみが出陣を
命じられましたが、これは前年の未開封の書状を
差し出した忠誠が認められてのことでした。
外様大名の気苦労
徳川幕府は外様大名の力を政治の中枢から除くこと
により安定したものになったといわれています。
外様大名は参府の時期についても
幕閣の要人である土井利勝らに内々に指示を仰いで
従っており、将軍の信頼を得ている幕閣要人との
お付き合いは重要課題でもありました。
このため勝茂は、1610(慶長15)年頃から
大御所家康や秀忠、家康の側室・阿茶局の他、
幕閣要人の本多正信、正純父子、大久保忠隣
などへ贈遺、つまり贈物をするようになります。
「井戸茶碗 銘栄城(いどぢゃわん めいえいじょう)」
李朝(朝鮮) 初代・鍋島勝茂伝来
2度目のお家断絶の危機
1637(寛永14)年10月に島原・天草の乱が起きる
と、勝茂は原城跡本丸一番乗りという目覚しい
活躍をしたものの、軍令違反であったため
一時は改易の上、流罪との噂が流れます。
幸いなことに改易にはならず、勝茂は
翌年1638(寛永15)年までの出仕停止と
江戸桜田屋敷での逼塞を命じられただけで
赦免されて事なきを得ました。
家康から家光までの3代将軍の間に取り潰された
(改易)数は 131家にも及んでいますので
この時期の鍋島家は、心穏やかならぬ
日々を過ごしていたことでしょう。
5年前の1632(寛永9)年には、同じ九州の54万石
熊本藩加藤家の2代藩主・加藤忠広(清正の子)が
改易され、出羽国庄内に配流されていました。
江戸で生まれた忠広の子を許可なく熊本に
連れ帰ったことが改易理由ともいいますが
諸説があってはっきりしていないようです。
ということは、お取りつぶしもやむ終えないと誰もが
納得するような決定的な理由がなかったとしても
お家断絶があり得るということにもなります。
鍋島家が改易にならずにすんだのは
島原の乱での功績などが考慮されたということの
ようですが、このことは関ヶ原の戦い時に次ぐ
鍋島家を襲った大きな危機でもありました。
黒地群蝶模様留袖(くろじぐんちょうもようとめそで)
昭和(写真/ 「徴古館」)
鍋島家の献上品の輸入が、突然ストップ
この後、勝茂は将軍外交に対して
細心の注意を払い、献上品などにも
今まで以上に気を遣うことになります。
という状況の中で、鍋島家の重要な献上品でも
あった中国磁器が輸入されなくなるという不測
の事態が発生したのは 1644年のことでした。
国許の家老に命じて、長崎に渡来する
唐船から、珍しい唐物を買わせることにより
鍋島家は献上品を調達していたのです。
その予算は毎年、7500万石にも上ったといいます。
* (『佐賀県資料集成』)
「染付大根文変形小皿(そめつけだいこんもんへんけいこざら)
江戸時代(元禄〜享保 1700〜1740年)鍋島藩窯(写真/「徴古館」)
将軍献上用の鍋島焼に力を注ぐ
7500万石といえば、旗本の中でも多い石高です。
とはいえ献上品は高価であれば良いわけではなく
また既に決まっている献上品を替えるには
幕府の許可が必要でした。
今まで以上にあらゆることに気を遣わなければなら
ないという時に、佐賀藩の重要な献上品であった中国
磁器が手に入らない事態は、勝茂を窮地に陥れます。
そこで佐賀藩は、将軍献上用の高級磁器である
鍋島焼の生産に取り組むことになりました。
1650年代から始まり、1690〜1726年に最盛期を迎えた
鍋島焼については、次回にお話ししましょうね。
* (参照/大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」雄山閣)