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飯炊き女の介添えでひっそり出産
加賀藩3代藩主・前田利常が、金沢城の
天守下の暗い部屋でひっそりと生まれた時、
母・千代(寿福院)の介添えは、飯炊き女
ただ一人でした。
利常は前田利家の四男であり、十人目の
子どもでしたが、この赤ちゃんの出産に
関心をはらいう者はなく将来、藩主に
なろうとは誰一人思いもしませんでした。
生まれた日さえ正確にはわからなかった
ため、後に利常を加賀藩の後継として
幕府に届ける際に大慌てで介添えをした
飯炊き女を探し出して、日にちを確定
したといいます。
*まつ(芳春院)
*|
*|ーーー利長(長男) 2代藩主
*|ーーー利政(二男)
*|ーーー幸姫(長女) 前田長種に嫁ぐ
*|ーーー蕭姫(二女)
*|ーーー摩阿姫(三女)
*|ーーー豪姫(四女)
*|ーーー与免(五女)
*|ーーー千代姫(六女)
*|
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*前 田 利 家(1537〜1599)1538、39年生説も
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* |ー知好 |ー利常 |ー利孝 |ー利貞 *
* |(三男) |(四男) |(五男) |(六男)
*金晴院 寿福院 明運院 逞正院 *
誕生した当初、利常は母の千代と暮らして
いましたが、後に前田長種のもとに嫁いで
いたまつの長女・幸姫(こうひめ)のいる
越中守山で育てられることになりました。
利常が6歳になった頃
関ヶ原の戦いが起こります。
とはいえ利常の生まれた年は、
1693年説と1694年説とありますので
それによって年齢表記が異なりますが。
ここでは1993(文禄2)年11月25日誕生説
をとり満年齢の記載にしています。
関ヶ原の前哨戦
1600年9月の関ヶ原の戦いの直前の
8月に、関ヶ原の前哨戦ともいわれる
「浅井畷(なわて)の戦い」
が起こりました。
丹羽長秀の子・長重(1571・元亀2年~
1637・寛永14年)と、前田利家の
子・利長との戦いです。
利家の妻・まつを江戸に人質に出し東軍
についた前田家を脅威に思う、西軍の
参謀役というべき大谷吉継は、あらゆる策
をめぐらして前田家を制そうとしました。
丹羽長重を含む越前大名の
多くは西軍についています。
吉継ら西軍の動きを察した利長は
金沢を出て丹羽長重のいる小松城
(現在は石川県小松市)を包囲します。
小松城の天守台
東西20m、南北18m、高さ6.3m、傾斜は仰角82°
「浅井畷(なわて)の戦い」
兵の数では比較にならないほど多い前田軍
でしたが、小松城は数十年にわたって自治
を勝ち取った、加賀一向一揆の人々が作った
堅城であり、攻め取るのは容易ではありません。
そこで利長は、同じ西軍方の大聖寺城
(現在の石川県加賀市)に向かい勝利
しますが、吉継が利長の妹婿を巻き
込んで流した巧みな嘘に騙され
金沢に撤退を決めてしまいます。
その途中、利長が長重と戦ったのが
「浅井畷の戦い」ですが、小松城付近は
沼や田が多く、浅井畷という細い道で
戦ったことからつけられた名前で
「畷(なわて)」とは「細い道」の意。
そうこうするうちに関ヶ原の戦いは
1日で決着がつき、西軍の勝利が決定
していますので、結局のところ長重も
利長も関ヶ原の戦い自体には不参加
ということになります。
和議の条件は、利常の人質
西軍の処分の決定前の9月18日、利長と
長重は和議を結び穏便に事を収めます。
決められたのは前田家から丹羽家へ
利常を人質に出すことでした。
6歳の利常は、長重の居城小松に
送られることになります。
「利長之を延見して曰く、和議既に成る、
*宜しく舊怨(長い間に積もった恨み)
*を一洗せざるべからず。
*是を以て我は舍弟猿千代(利常)
*を出して質たらしめんとす。」
* (石川県立図書館・石川県史 第二章 )
父・利家と最初で最後の面会
長重は関ヶ原の処分により改易されましたが
実直な人柄や大坂の役での活躍で許され、
1603(慶長8)年に常陸国古渡(ひたちふっと、
現在の茨城県稲敷市)藩の1万石の大名に復帰。
その後は江戸崎藩(茨城県稲敷市江戸崎)、
棚倉藩(たなぐらはん、福島県東白川郡
棚倉町)そして白河藩(福島県白河市)
の初代藩主となっています。
それのみならず、秀忠の御伽衆(おとぎしゅう、
相談相手)という重職に抜擢されることにも
なりますが、その前の利常がまだ小松城に
いる6歳の時のことです。
療養のために草津温泉に行く途中の利家
が、小松城にいる利常に会いに来ました。
利家を抱き上げた利家は、着衣の脇から
手を入れて背をなで、戦国武士にとって
重要な筋肉を備えもつ我が子の成長ぶり
を喜んだといいます。
体格が最も自分によく似た息子・利常に
利家は、金箔で飾った刀と脇差の
大小二刀を授けます。
翌年、利家は亡くなっていますので
これが利常と利家が会った最初で最後
の面会となりました。
珠姫の手紙
その後、3歳の秀忠の娘・珠姫を
正室に迎えた7歳の利常は、3年後の
1605(慶長10)年に3代藩主になります。
政略結婚でしたが、二人の仲は
睦まじかったといいます。
大名は、妻子を江戸に置く決まり
でしたが、加賀藩は免除され
珠姫は金沢で暮らしていました。
参勤で江戸にいる利常について、父である
秀忠に「お父様 利常様を早く金沢に返して
ください」と書き送った手紙が残されています。
「わたつらひ見まひとし****
*て次八郎遣りし候******
*ぎしよく之件(くだん)此者ニ
*よくよく申候へく候、****
*ゆたんなくやうやう□□***
*尤ニ候、かしく*******
*又此たき物なくさみ」****
(右からの縦書きを横書きにしてみたもの)
前田利常書状(野々市市
野々市デジタルデジタル資料館)
利常の手紙
また利常の方は、相手が珠姫かははっきり
していませんが、病身の身内の女性に
このような手紙を送っています。
そちらへやった家臣・喜八郎に事情を
伝えなさいとの趣旨で、たきもの(香木)
をもたせたことが添えられている
利常の優しい気遣いが感じられる書状。
利常との間に三男五女をもうけた
珠姫でしたが、1622(元和8)年
に、24歳で亡くなってしまいます。
「元和八年三月前田利常の夫人逝去す。
*夫人は將軍秀忠の第二女なり」
* (石川県史)
隠居後、再び後見人として藩政に
利常は、1633(寛永10)年に光高に
家光の養女・阿智姫(水戸家の徳川頼房
の娘)を正室に迎え、
1635(寛永12)年には、満姫を家光
の養女として浅野光晟に嫁がせます。
次男の利次には10万石の富山藩を、
三男・利治には7万石の大聖寺藩を分封。
この大聖寺藩で、利常の全面的な支援の
もと大聖寺藩の藩窯が築窯され、多くの
古九谷の名品が生まれました。
これが九谷焼へと繋がって行きますので
利常は九谷焼の祖でもあるのですね。
* (「古九谷(九谷焼)」)
利常の支援により大聖寺藩藩窯で焼かれた古九谷の名品
「青手桜花散文平鉢(青い桜)」
石川県立美術館所蔵
1639(寛永16)年には光高に家督を譲って
隠居するも、1645(正保2)年、光高が急死。
次の藩主となる綱紀がまだ3歳でした。
後見人になるように家光からの命じられた
利常は、5代藩主・綱紀の後見時代に、
「改作法」などの優れた施策を打ち出しています。
また、綱紀の正室には、家光の弟でもある
保科正之の娘・麻須姫を迎えています。
隠居城「小松城」
利常は後年、自らの隠居城
として小松城を選びました。
「浅井畷の戦い」の時に攻める
ことのできなかった堅城である
小松城は、その時はすでに破城。
1615(元和元)年の「一国一城令」よる
破城でしたが、利常の隠居に伴い、1639
(寛永16)年に幕府に工事を願い出ます。
利常は桂離宮の造営等に尽力し、京風文化
を取り入れて金沢文化を開花させた藩主
ですので、利常の美意識の結晶ともいえる
お城だったのでしょう。
「小松の浮城」
小松城は、梯川の水を引き入れて何重にも
堀を巡らせた水城「小松の浮城」と呼ばれる
城でしたが、現在はほとんど埋め立てられて
残っているのは天守台等ごくわずか。
この石垣は、金沢城と同様に隙間のない
「切り込みはぎ」と呼ばれる石の組み方で
作られた美しいものです。
この上に建っていた天守は、屋根も桧皮葺きで
一見、茶室のような建物で、隠居城であること
から戦闘的なものではなく、望楼のような
洒脱なものだったということです。
こちらは毛利家の下屋敷だった
現在東京ミッドタウンの石垣
発掘で出てきたものを再現したそうですが
確かに石の組み方違いますね
ニックネームは「お猿」
利常が隠居城として選んだのは、生涯にたった
一度、父と会うことのできた小松城でした。
利家は、利常の幼名・猿千代から利常を
「御さる」と呼んでいましたが、初めて
出会った御さるは、満足のいく息子でした。
その記憶は、利家にとっても利常にとっても
忘れられないものだったに違いありません。
梨をむいてくれた長重
しかし利常には、小松城での出来事
でもう一つ、忘れることのできない
思い出があったといいます。
それは人質として小松城にいた時
に、城主である丹羽長重が利常に
自ら梨をむいてくれた思い出。
当時、長重はまだ子どもをもつ前でした。
利常は隠居後の小松城に、裏千家の
創始者・仙叟宗室を招いて、三の丸に
住まわせるほど茶道に通じた人でした
が、長重もまた茶を嗜む人。
関ヶ原の戦いで改易された後に、大名に
復帰したのも、長重の誠実な人柄が
評価されたためということです。
そもそも「浅井畷の戦い」の当事者である
前田利家と丹羽長重の間に私怨はなく
立場上争うことになった相手にすぎません。
利常を人質にすることで事を穏便
に済ませたことを、長重は気にし
利常に気遣いをしていたともいいます。
もう一つの「父の記憶」
誕生の日は、はっきりわからない利常
に死が訪れたのは、1658(万治元)年
11月7日、66歳の時でした。
梨を食べる時に利常は、いつも
小松城で長重が梨をむいてくれた話
を、周りの人に語ったといいます。
私はこの話を何度読んでも、その度ごとに
幼い利常と梨をむいている長重の姿が
彷彿として涙が溢れそうになります。
長重に美味しいかと問われた時に利常は
映画のシーンのように、満面の笑みで応えた
のではなく、むしろ心とは裏腹に
無表情に頷いたような気がしたりして……。
長重のむいてくれた梨の話は、利常の心
を生涯あたため続けてくれた、もう一つ
の忘れることのできない父の記憶だった
のかもしれません。
* (参考/宮元健次「加賀百万石と江戸芸術
* 前田家の国際交流」人文書院 2002
* 磯田道史『殿様の通信簿」新潮社2006
* 石川県立図書館・石川県史)