九谷焼 その色と工程

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

古九谷「青手老松図平鉢」

 

 

 

九谷焼ができるまで

1 専用の土を作った後に成形して乾燥させる

 

2 素焼き(800度)

 

3 呉須(ごす 酸化コバルトを主成分とする青い顔料
 で焼成前は黒)を使って線描き(骨描き)をする

 

 

4 施釉(釉薬をかけると、表面がガラス質で覆われる)

 

5 本焼き(1300度)

 

6 絵の具を線描き(骨描き)の上に
 のせるように置いて上絵を描く

 

 

7 上絵窯(800度前後)で焼成
 すると絵の具が美しく発色する

 

 _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _

8 金彩、銀彩を施し錦窯(400度)で焼く

          (写真/「能美市九谷資料館」)

 

 

 

赤絵「赤地金襴手花唐草文鉢」
永樂和全作 明治4年(1871)

 

 

 

「赤絵(金襴手)」

赤い絵の具で器全体に「細描」と呼ばれる細かい
描き込みをしたものを「赤絵」と呼びます。
金彩が多いことも特徴の一つです。

 

上の写真(「赤地金襴手花唐草文鉢」)のように
赤で背景を塗り埋めた上に、金で絵付けをした
ものは「金襴手」といわれています。

 

職人の高い技術により出来上がる「細描」の
もっとも細いものは1ミリに3本描けるといいます
ので、その細さは想像を絶します(しかも筆書きで)。

 

 

 

赤絵の「細描」(写真/「NHK美の壷」)

 

 

 

赤絵は、1807(文化4)年に加賀藩が金沢で
築窯した「春日山窯」に京都から招かれた
青木木米の指導により作られ始めました。

 

その後、1832(天保3)年に開かれた「宮本屋窯」
の飯田屋八郎右衛門(いいだや はちろうえもん)
が細描の様式を確立したといわれています。

 

 

 

焼成による絵の具の変化

「6 上絵付け」に使う絵の具の焼成前と
焼成後の色がこちらの写真です。
左から「紺青」「紫」「緑」「黄」「赤」。

 

 

「群青」 ・ 「紫」 ・ 「緑」 ・ 「黄」 ・ 「赤」
(写真/「九谷 満月」)

 

 

焼成前のものは全てトーンが同じように見えて、私には
イメージが全く湧きませんが、専門家にはこの時点で
すでに出来上がりの色が見えているのでしょうね。

 

この五色を用いて作られる九谷焼を
「九谷五彩」あるいは「五彩手」と呼びます。

 

古九谷はこれらの色彩を駆使して動物や植物、風景
などを巧みな筆さばきで写実的に描写しています。

 

 

 

「青手」

この写真の古九谷「青手老松図平鉢」のように緑の
色絵の具を印象的に配したものは「青手」と呼ばれます。

 

 

古九谷「青手老松図平鉢(あおておいまつずひらばち)」
江戸(17世紀) 口径 42.8cm 底径 17.2cm  高 9.7cm
石川県立美術館所蔵

 

 

地紋に花小紋を埋めて紫と緑、黄の三色であしらい、
その上に豪快な老松をダイナミックに描き出したもの。

 

裏は(右の写真)、二段の波状渦形の雲文が描かれて
いますが、こちらを表にしたいほどの美しさです。

 

青手は、素地の余白を残さずに器全体に絵の具
を塗る、「塗り埋め」と呼ばれる方法で仕上げます。

 

上の「青手老松図平鉢」ですと地の色が黄色ですので
さほど塗り埋めを感じませんが、次のやはり古九谷の
「青手桜花散文平鉢」ですと、塗り埋めの迫力は圧倒的。

 

 

古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

私自身はこの力があまりに強すぎて、思わず一歩下がって
しまうような感じでしたが、じっと見つめているうちに
真の迫力と美しさに気づくようになりました。

 

青手は古九谷をはじめ、再興九谷である「吉田屋窯」や
「松山窯」など、江戸時代の大聖寺藩領内を中心に数多く
作られ、九谷焼を代表する絵付けとして知られています。

 

 

 

たっぷりの絵の具が作るガラスの立体感

また「6 上絵付け」ですが、九谷焼の特徴として
絵の具の役割をする釉薬をたっぷりと、この写真の
ように線が見えなくなるほど盛り上がるように置きます。

 

 

(写真/「 NHK美の壷」)

 

 

すると焼成後にこの部分が色ガラスとなり
絵が透けて美しく立体的になるそうです。

 

私はこれを知って、九谷の個性的な色は単に色遣いだけ
にあるのではなく、この厚塗りによる不思議な立体感が
独特の色合いを生み出しているのだと納得しました。

 

 

 

九谷焼のサイズ表示

九谷焼は「号数」で作品の大きさを表示しますが、
「1号が3センチ」で、5号は15センチ、
8号では24センチ。
種類により図る場所がこの図のように決まっています。

 

 

九谷焼のサイズ表示(図/「九谷焼彩匠会」)

 

 

「3センチ」の基準がどこからきているのかは
わかりませんが、尺貫法で一尺の  1/10  の
一寸のことなのでしょうか?

 

一寸は「3,03センチ」ですので、ちょっと大きいですが。
いずれにせよ「大・中・小」などという規定より
はるかにわかりやすく便利ですね。

 

 

 

こちらは金沢主計町茶屋街にある「かーふコレクション 」
外は雪ですがこちらは街中、九谷の窯があったのは
これよりはるかに鄙びた寂しい場所だったでしょう
(写真/「かーふコレクション」)

 

 

 

雪国だからこそ生まれた鮮やかな色彩

九谷焼の五彩の中でも、鮮やかで力強い
「緑」と「黄」で作りあげる世界は
九谷焼ならではという気がします。

 

この2色について石川県九谷焼美術館副館長
の中矢進一さんは、「植物の色ですよね。
そういったものを想起させますよね」と、

 

九谷焼作家の武腰潤さんは
「雪国に育ったばかりに、色彩に飢えているということ
はありました。南の方へ行けば色があるんじゃないか
なと思って、鹿児島へ出かけたことがあります」
ともおっしゃいます。

 

 

 

九谷焼・吉田屋窯「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm 石川県九谷美術館所蔵

 

 

 

また、石川県九谷焼美術館の高田宏さんは
古九谷の再興を志し、吉田屋窯を開いた豊田伝右衛門
(とよたでんえもん)に思いを馳せて
このように述べています。

 

「一番大本にあるのは、やはり雪深くてそして雪解けに
なれば一気に春が、若葉が芽吹き、若草が生えてくる、
そして花が開いてくるといった。(略)
雪の深い世界というのは、そして深い雪の中で今度は
精神的にずうと集中している時間がある、そういう
サイクルの中で古九谷の名品は作られてきたと思うし、
そして古九谷の名品の中の真髄を吉田屋は受け継ごう
としたんだと思う」

 

日本の色絵磁器の中でも異彩を放つ独特な様式
として知られる九谷焼のその濃厚な色は
雪に閉ざされ全てが眠りについているような
色のない世界から生まれたものだったのですね。

 


(参照/矢部良明監修「日本のやきもの史」美術出版社
「 NHK・美の壷」「能美市九谷資料館」「九谷満月」)

 

スポンサードリンク




九谷焼の歴史(古九谷〜再興九谷)

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

吉田屋窯「百合図平鉢」
石川県九谷焼美術館所蔵

 

 

 

九谷焼の歴史

九谷焼の始まりから現在までの流れを、

1「江戸時代初期〜中期」と
2 一時中断後の「復活」、
3 そして「大聖寺藩がなくなった明治時代以後」

の三つに分け江戸時代を中心にまとめてみました。

 

 

 

      1前田利家加賀
          |
          |
  ________________________________________________ 
* |   |   |    |   |   |
2利長  利政  知好  3利常  利孝  利貞
加賀)          (加賀
             |
             |
       _______________
       |   |    |    |
      4光高  利次  1利治  2利明
      (加賀)    (大聖寺)(大聖寺
                     |
                    3利直
                   (大聖寺

 

* (なお、利家の子・利孝は七日市支藩の初代藩主に、
*  利常の子・利次は富山支藩の初代藩主になって
*  いますが、煩雑なりますので記載していません)

 

 

 

1 1655(明暦元)年頃〜1710(宝永7)年頃

九谷焼は、加賀藩の支藩である大聖寺藩領内の九谷村で
磁器の原料である陶石が発見されたことから始まります。

 

加賀藩前田家の支援のもとに、大聖寺藩の初代
藩主・前田利治(としはる)、2代藩主・利明が
焼かせたものですが、築窯に際し、大聖寺藩士
を有田に修行に出します。

 

九谷金山の鋳金師だった後藤才次郎が、肥前磁器
(有田焼、伊万里焼)の産地で技術を習得後、
加賀国江沼郡九谷村(現在の石川県江沼郡山中町
九谷)の藩窯で焼き始めたことから「九谷焼」
と呼ばれるようになりました。

 

 

 

古九谷「青手桜花散文平鉢」石川県立美術館所蔵

 

 

 

1655(明暦元)年から1657(明暦3)年頃に
始まった九谷焼ですが、50年ほど経ったあとに
突然、作られなくなってしまいます。

 

理由としては、大聖寺藩の財政の問題とか
藩政の混乱、幕府の干渉などが挙げられて
いますが、正確なことはわからずに
現在に至るまで謎に満ちたまま。

 

この時期に作られたものは九谷焼の中でも
「古九谷」と呼ばれ珍重されていますが
ニセモノも多いといいます。

 

100年後に吉田屋窯で九谷焼が復活しますが
その少し前に、九谷ではなく金沢で加賀藩窯の
「春日山(かすがやま)窯」が1807(文化4)年
開かれ、京都から青木木米を招き赤絵、
金襴手を
作りましたがほどなくして閉窯。

 

 

 

古九谷(青手)
「青手土坡に牡丹図大平鉢
(あおてどはにぼたんずおおひらばち)」
口径 43.5cm 底径 17.8cm 高さ 10.2cm
(写真/「石川県九谷焼美術館」)

 

 

 

2 江戸時代後期に復活

「吉田屋窯」→「宮本屋窯」→「松山窯」→「九谷本窯」

⑴「吉田屋窯」1824(文政7)年〜1831(天保2)年

一時期途絶えていた九谷焼が
100年の時を経て復活します。

 

1824(文政7)年に窯を作ったのは、大聖寺の城下町
に住む豪商の豊田家(屋号 吉田屋)の4代・吉田屋
伝右衛門(よしだやでんえもん)です。

 

古九谷に魅せられた伝右衛門は、その再興を願って
私財を投じて九谷古窯跡の隣に窯を作ります。
その時、伝右衛門は72歳。

 

窯の完成の2年後には、山代村の越中谷に窯を移し
ますが、名称はそのまま「九谷焼」と称されました。

 

 

 

吉田屋窯「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)』
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm
(写真/「石川県九谷焼美術館」)

 

 

採算を度外視し、高品質の焼物を追求していた
「吉田屋窯」の作品は好評を博しましたが
巨額の投資は吉田屋の経営を圧迫して行きます。

 

4代・伝右衛門の死去もあり窯は7年でその歴史
を閉じていますが、吉田屋伝右衛門なくしては
現在の九谷焼はないといわれるほど。

 

吉田屋窯の作品の特徴としては緑、黄、紫、
紺青の四彩を用いて器の全面を塗りつめる
色絵が多く、赤を用いずに青い印象を受ける
ところから「青九谷」と称されます。

 

 

 

 

 

 


⑵「宮本屋窯」1832(天保3)年〜1859(安政6)年

「吉田屋窯」の現場の支配人だった宮本屋宇右衛門
(みやもとやうえもん)が、吉田屋窯を
「宮本屋窯」として再開することになりました。

 

最初は吉田屋風の青手も作っていましたが、加賀藩の
影響や絵付け職人の飯田屋八郎右衛門(いいだや
はちろうえもん)が赤絵の緻密な描写を得意としたこと
から、次第に赤絵の作品が多く作られるようになります。

 

しかし天保大飢饉や天保の改革などから、経営状態が
厳しくなっていた宮本屋窯は、宮本屋宇右衛門の死後
に跡を継いだ弟の理右衛門も亡くなり閉じられました。

 

 

 

松山窯(青手)
「双馬図平鉢(そうまずひらばち)」
口径 36.0cm 底径 19.0cm 高さ 6.5cm
石川県九谷焼美術館所蔵

 

 

 

⑶「松山窯」1848(嘉永元)年〜1872(明治5)年頃

大聖寺藩が江沼郡松山村で山本彦左衛門に
命じて、藩窯「松山窯」を作らせます。

 

九谷原石に吸坂村の陶土等を混ぜて作った素地が
灰色がかっていたことから鼠素地と称されました。

 

青手古九谷や吉田屋窯の様式を踏襲した、赤を用いない
九谷四彩の作品を作り、紺青は花紺青といわれる不透明
な水色をしているものが多く、黄緑色も使用しています。

 

大聖寺藩は衰退した宮本屋窯を九谷本窯とする
ことに決定したため、松山窯は次第に衰退。
最後は民窯として日常雑器を焼いていたということです。

 

 

 

九谷焼(赤絵)
「赤地金襴手花唐草文鉢」
永樂和全作 明治4年(1871)

 

 

 

⑷「九谷本窯」1860(万延元)年頃〜1879(明治12)年

大聖寺藩は経営困難に陥っている宮本屋窯を
藩窯とすることとし、藩士の塚谷竹軒、
浅井一毫を起用しますが、技術面で行き詰まり
京焼の名工・永楽和全を京より招聘。

 

しかし明治4年の廃藩置県で大聖寺藩がなくなった
ことにより。九谷本窯は消滅し、民窯へと
形を変えて行くことになりました。

 

なお、九谷本窯でどのような作品が作られて
いたかについては、不思議なことに、
現在のところ定かではないようです。

 

 

 

 

 

 

3 明治時代から現代

明治時代になると藩からの支援が得られなくなった職人
たちは、それぞれ作家として自立をすることになります。

 

九谷焼の輸出産業が盛んになった時期でもあり、彼らは
美術工芸品作家にふさわしい技術を磨いて行きました。

 

竹内吟秋(たけうちぎんしゅう)、
浅井一毫(あさいいちもう)兄弟や
初代・須田青華(すだせいか)、
九谷庄三(くたにしょうざ)、
北出塔次郎・不二雄(きたでとうじろう・ふじお)、
三代・徳田八十吉(とくだやそきち)、
吉田美統(よしだみのり)
などが有名な作家です。

 

スポンサードリンク