宇和島藩初代藩主・伊達秀宗は、伊達政宗の長男

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六本木にあった宇和島藩・上屋敷

前回、愛媛県西予市の「山田まんじゅう」を
ご紹介しましたが江戸時代、西予市は
宇和島藩の宿場町として栄えた町です。

 

その宇和島藩の江戸藩邸・
上屋敷は、麻布にありました。

 

当時は麻布龍土町という地名でしたので
「宇和島藩麻布屋敷」と呼ばれていまし
たが、今の住所でいうと六本木7丁目。

 

現在その場所には、国立新美術館、
政策研究大学院大学などが建っています。

 

 

宇和島藩伊達家の上屋敷があった
「国立新美術館」六本木

 

 

麻布には仙台藩伊達家の下屋敷もありましたので、
江戸時代、麻布には宇和島藩伊達家の上屋敷と、
仙台藩伊達家の上屋敷があったことになります。

 

下の地図では、上の方が宇和島藩の上屋敷、
下が仙台藩の下屋敷。

 

宇和島藩伊達家があるのは、東京ミッドタウン
の正面あたりで、六本木ヒルズを挟み
宇和島藩伊達家が上で、仙台藩伊達家が下です。

 

宇和島藩伊達家の上屋敷は、36,051坪の
広い敷地であるのに対し港区南麻布1丁目に
あった仙台伊達家の下屋敷は、21,293坪。

 

東新橋にあった仙台藩伊達家の上屋敷
でも、25,819坪だったそうです。

 

 

 

(地図の上の方) 宇和島藩伊達家 上屋敷 36,051坪
(地図の下の方) 仙台藩伊達家 下屋敷  21,293坪

 

 

 

仙台藩主・伊達政宗の長男と生まれながら

伊予宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗は
仙台藩の初代藩主である伊達政宗の長男として
生まれ、当初は2代仙台藩主にと目されて
いたものの、諸事情から叶いませんでした。

 

その理由としては、秀宗の母親が正室では
なく側室だったからといわれていましたが
実はそうではなく別の事情だともいいます。

 

1591(天正19)年に、兵五郎という幼名の秀宗が
陸奥国の村田城で生まれた時、政宗の正室・愛姫
(めごひめ)には男子が長い間、生まれなかった
ために、待ち望まれた世子誕生でした。

 

しかしわずか3歳の1594(文禄3)年、父・政宗に
伴われて秀吉に拝謁した後、人質として秀吉に差し
出された兵五郎は伏見城で暮らすことになります。

 

 

 

 

 

秀次事件

秀吉が甥である秀次に、跡を託した後の
1593(文禄2)年、淀殿が秀頼を出産する
と、秀吉はことのほか喜びようでした。

 

前田利家夫妻を仲人にして、生まれた
ばかりの秀頼を後継者・秀次の1歳の娘
と婚約をさせる、などと考え出す始末。

 

そして翌1595(文禄4)年、突如秀次に謀反
の嫌疑がかけられ、瞬く間に秀次の切腹と
妻子等39名の処刑という事件が発生します。

 

この処刑は京都の三条河原に40メートル四方
の堀が掘られた中で、秀次の子の遺体の上に、
その母、侍女,乳母等の遺体が次々と無造作
に折り重なっていくという、酷いものでした。

 

 

 

 

 

 

秀吉のもとで元服し「豊臣」秀宗に

この秀次事件の後、秀吉は伊達政宗
に起請文を出させています。

 

「もし政宗に逆位があれば、直ちに
隠居して兵五郎を当主に立てる」
という内容の誓約でした。

 

1696(文禄5)年9月、兵五郎は
豊臣秀吉の猶子となり元服。

 

秀吉から偏諱(へんき、名前の一字を
もらうこと)を受け、「秀宗」と名乗る
とともに、従五位下侍従に叙位、任官。
3歳の秀頼のお側小姓となります。

 

 

 

 

そのわずか2年後の1698(慶長3)年、
秀吉が死去、1600(慶長5)年には
五奉行の石田三成等が、五大老の徳川家康
に対して挙兵し関ヶ原の戦いが始まりました。

 

秀宗は、石田三成方の宇喜多秀家の
もとで人質となり、1602(慶長7)年
には、徳川氏の人質になることに。

 

いくら戦国の世とはいえ、現在でいえば
小学校を卒業するまでに、3度も人質
として各地を転々とさせられたのです。

 

 

 

 

 

異母弟・忠宗が誕生

その頃、父・伊達政宗と正室
の間に男子が誕生しました。

 

後の仙台藩2代藩主となる
伊達忠宗、幼名・虎菊丸です。

 

翌年の1月、政宗は虎菊丸を
家康に拝謁させています。

 

一方、秀宗は家康に、徳川四天王
の一人で重臣であった井伊直弼の
娘・亀を正室するよう命じられます。

 

1611(慶長16)年、弟の虎菊丸が江戸城
で元服し、将軍・秀忠から忠の字を
もらい、忠宗と名乗ることになりました。

 

 

 

 

 

 

理不尽な藩主除外

秀宗は、豊臣秀吉から「秀」をもらい、一時
は豊臣姓を名乗り秀頼に仕えていました。

 

伊達家の長男とはいえ、徳川の世で仙台
藩主となるのはふさわしくない、これが
藩主になれなかった理由だといいます。

 

しかし私は、これに大いに
疑問を感じざるをえません。

 

人質となった秀宗が、親の反対を
おして勝手に伏見城に行ったわけで
はなく、親の命令に従ったまでです。

 

当時、兵五郎はわずか3歳、当然のこと
ながら仙台を離れたくはなかったでしょう。

 

今でいう小学校1年生で、既に小姓として
秀頼に仕えましたが、それらも全て政宗
をはじめ、周囲の大人が決定したこと。

 

 

 

 

 

同じ「秀」だし、ってダメ?

自らの意思で秀吉の家臣だった武将達が
全て遠ざけられたというわけでもありません。

 

親の意思に、幼児の時から従った子が
父・政宗の跡を継ぐことができない
とは、なんと理不尽なことでしょう。

 

たしかに弟の名前は、徳川秀忠から
一字をもらったものではあります。

 

徳川秀忠から「忠」の字を賜り
  虎菊丸 (弟) →「忠宗」

 

豊臣秀吉から「秀」の字を賜り
  兵五郎  (兄)→「秀宗」

 

ですが幸い(?)といってもはなんですが
秀吉も秀忠も共に「秀」の字ががついています。

 

ここはひとつ「『秀宗』の『秀』は
『秀忠』の『秀』から賜ったことにする」など
という新しい解釈にするとか、なんとか……。

 

 

 

 

例えば現在の日本に目を転じてみても、離婚後
も結婚していた時の氏を使う人もいます。

 

この時、結婚していた時の氏である「伊達」は
離婚後に名乗っている氏の「伊達」とは、
「民法上の氏は異なる」などという、
わけのわからない説明が、21世紀の
日本でもなされているわけですし。

 

秀宗は、秀吉の人質であり、
家康の人質でもありました。

 

であるならば「秀」の一字の解釈
など、いかようにもできそうな
もの、などと思うのですが。

 

 

 

 

 

参陣の功として

そのような中、秀宗は父とともに
1614(慶長19)年、大阪冬の陣に参陣。
いくさ後、徳川から政宗に
伊予宇和島10万石が与えられます。

 

政宗はそれを秀宗に譲りたいと
申し出て許されたことから、秀宗は
10万石の伊予宇和島藩主となりました。

 

仙台藩の支藩ではなく、国主格
(国持)大名としての扱いです。

 

秀忠からは、西の伊達、東国の伊達と相並ぶ
よう命じられたといいますが、これは有力
外様大名である伊達家の東西分断、かつ
豊臣家に近い秀宗を、四国に遠ざける
ためだったともいいます。

 

 

 

 宇和島藩伊達家の家紋

 

 

 

仙台伊達家からの「家臣」と「借財」が紛糾の元に

政宗は、伊予宇和島に向かう秀宗につける
家臣を、仙台藩伊達家家中から選び出し
また藩主交代が続いて、藩の財政が疲弊
していた宇和島藩のための初期の資金
として6万両を用意します。

 

一説には3万両ともいいますが、何れにせよ
大金には違いなく、それらの返済に関して
宇和島藩では後に、紛糾の原因となりました。

 

1615(慶長20)年の3月18日、
伊達秀宗が宇和島城に入城したことに
より、宇和島藩が正式に成立しました。

 

仙台伊達家からの多額の借財とともに
仙台藩からきた家臣と、そうでない藩士と
の間で揉め事が生じ、殺人にまで至ります。

 

一時、政宗は激怒して秀宗を
勘当したそうですが、後に和解。

 

このことがあり、父子の関係は
かえって良好になったといいます。

 

長男でありながら家督を継げなかったこと、
また長期にわたる人質生活のことなどを
父・政宗に訴えることができたからです。

 

 

 

 

 

伊達政宗の長子

秀宗は、宇和島藩が仙台藩の支藩
と扱われることを嫌いました。

 

将軍・家光と御成之間での対面の折には
弟の忠宗より上座に着席したともいわれます。

 

石高は少なくとも忠宗より年長
であるとの意思表示でしょう。

 

父・政宗から「唐物小茄子茶入」や
秘蔵の伽羅の名香「芝舟」を贈られた
秀宗は、父と同様に和歌の才に秀でて
いたことから、父と和解後は和歌の
交歓をしながらも藩政に力を注ぎます。

 

1622(元和8)年に遠江守を叙任し、
1626(寛永3)年には従四位下に昇位。
そして1636(寛永13)年、政宗死去。

 

 

こちらは細川家所蔵の香木「白菊」ですが、実はこれ
「一木四銘香」といい四つの名前を持っている香木で
政宗から秀宗に贈られた「芝舟」と同じ香木です

 

 

 

維新まで続いた宇和島藩

1657(明暦4)年7月21日に、秀宗は
世子の宗利に家督を譲って隠居し、8月16日
には、五男の宗純に伊予吉田藩を分知。

 

これにより宇和島藩は7万石、
吉田藩は3万石となります。

 

翌1658(明暦4)年、6月8日
江戸藩邸にて死去、68歳。

 

死後の翌日、9日には宮崎八郎兵衛、
高島太郎衛門が、18日は神尾勘解由、
23日には渡辺左衛門が殉死したといいます。

 

 

 

 

秀宗後は、

2代・宗利(むねとし)、
3代・宗賢(むねよし)、
4代・村年(むらとし)、
5代・村候(むらとき)、
6代・村寿(むらなが)、
7代・宗紀(むねただ)、
8代・宗城(むねなり)、
9代・宗徳(むねえ)

と宇和島藩伊達家は
江戸末期まで存続しました。

 

多くの家がそうであるように、血縁として
は途中で耐えたため、3代は仙台藩主家から
宗賢(むねよし、秀宗の弟)を迎えています。

 

また8代藩主・宗城は、土佐の山内容堂、
福井の松平春獄、薩摩の島津斉彬とともに
「幕末四賢侯」と称され活躍しました。

 

 次回は、六本木の宇和島藩伊達家上屋敷跡
  からの出土品についてです、また見てね〜!

 

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「中村錦平」「中村卓夫」「中村康平」  梅の庭に咲き誇る三兄弟

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中村錦平

中村錦平、中村卓夫、中村康平三兄弟の祖父で
ある初代・中村梅山は大正初期に趣味が嵩じて
陶芸家の道に入った人でした。
その子どもが2代目・中村梅山です。

 

2代目・中村梅山の子として1935(昭和10)年に
生まれの錦平は、1956年に金沢市美術工芸大学の
彫塑科に入学したものの才能に疑問を感じ中退。

 

やきものを「作る側」ではなく、「使う側」に
立とうと考えて銀座にある日本料理の中島で
板前修行に入りました。
そこで彼は、北大路魯山人の存在に行き当たります。

 

 

 

北大路魯山人「伊賀釉四方平鉢」

 

 

 

再び、やきものを志す

彼は父の手伝いをしながら
やきものの修行を始めます。

 

そして、1960年に現代日本陶芸展(朝日新聞社主催)
に初入選、翌1961年は、日展と日本現代美術工芸展
に入選を果たします。

 

1964年には、三菱銀行金沢支店での建築に
関する初仕事の後、1966年にソニービルで、
1998年は北陸放送会館に陶壁を作りました。

 

1969年にロックフェラー財団に
招聘されて、1年間欧米に滞在。
以後、活躍は世界的に広まっていきました。

 

 

 

中村錦平「粉引風白釉徳利」

 

 

 

「東京焼」

中村錦平は、御自身のやきものを
「東京焼」と呼んでいます。

 

やきものは普通、作る場所で採れた土を使いますが
彼は電話一本で手に入る、ビニール入りの粘土を
使って作品を作っているのだそう。

 

やきものの土台ともいうべき土がそうである
のみならず顔料や釉薬も特別なものではなく
誰でもカタログを見て簡単に取り寄せる
ことのできる市販品を使っているといいます。

 

このこだわりのなさには驚くばかりですが
一方、その無頓着さは自信の
裏返しであるようにも思えます。

 

 

中村錦平(写真/「21世紀美術館」)

 

 

 

「余計な遊びに徹して」

「東京焼・中村錦平展 1993〜94年」の
カタログには、
「東京ほど多種のテーマ、多様な素材の
掘り出せる場は他にない。
伝承なし、様式なし、愛陶家なし
の地が意欲を盛りあげる。」と。

 

また陶壁作品についてはこのように
語っていらっしゃいます。

「余計な遊びに徹して、空間を飾り、
埋める事に関心を持って、
作品を作りたいと思っています」

 

「余計な遊びに徹して」という言葉が、
何とも魅力的な中村錦平は、赤坂のお隣
にある東京・青山に窯を構えています。
現在、多摩美術大学名誉教授。

 

 

 

 

 

中村卓夫(3代目・中村梅山)

中村錦平が誕生した10年後の1945年に
生まれたのが、中村卓夫です。

 

1978年、会社員を経た後の33歳になってから
父・中村梅山の元で陶芸を始めました。

 

1982年 名古屋工業試験場瀬戸分室で釉の研究
1984年 イタリア・国立ファエンツァ陶芸
   美術学校で学ぶ
1990年 和光 アートサロンにて個展を開催
2004年 WEDGWOOD「ジャパネスク」シリーズ製作
2013年 中村卓夫展 和光ホール
   「陶・もうひとつの琳派 」等々

 

作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館、
シカゴ美術館、金沢21世紀美術館等に、
オブジェ、花器等が所蔵されています。

 

 

中村卓夫(写真/「西福ギャラリーブログ」)

 

 

 

自分の道は「壊すこと」

卓夫が長年の製作の中で見つけた「自分の道」、
それは「壊すこと」。

 

やきものの材料である粘土を、投げ、きり、
ちぎるという動作を重ね、「作るのではなく、
壊すこと」から数々の作品が生まれてゆきます。

 

他人と同じことをしても意味がないという
彼の制作は、轆轤(ろくろ)を使わずに
タタラという伝統的な技法を用いるもの。

 

「粘土に自然に起こることを、見つけるのが
私の仕事です。
自然に動く表情、おもしろい瞬間を掴むんです」
と彼は説明します。  (「REVALUE NIPPON」)

 

「ぎりぎり器」「すりぬける器」「浮遊する器」
と自由な器の個展を開催し、花器にも香炉にも、
自由自在に遊ぶことのできる「うつわ」を考えて
いたという彼は、ついに全く新しい形の
「うつわ」を見つけます。

 

 

中村卓夫「器になるコトをやめたうつわ」

 

 

 

「器になるコトをやめたうつわ」

それが「器になるコトをやめたうつわ」シリーズや
「箱になるのをやめたハコ」シリーズです。

 

「用」を離れ、作者の意図からも離れ、
「場」との関係を結んで表現することで
「うつわ」になる、新しい「うつわ」の世界。

 

「うつわはうつろに通じ、茶碗にせよ花器や皿類にせよ、
何かを保持する空隙を抱えたモノとして作られるが、
用途が一義的になるうちに、うつろは見えなくなり
姿形や意匠ばかり意識されがちになる。
器に埋められたうつろを、器を鉈で割るように
断ち切ることで、発火させた作品。平らな皿が、
下から逆転した軸物のようにじかにたれ上がる
「SUIHATSU」。
常に過去に引き摺られ、歩調を緩めがちな伝統に、
鞭を入れ、現在に跳躍させようとする。中村の俯き
加減の目の鋭角は、伝統の愛好層にも、現代美術を
好む人々にも、共に刺激的だろう。」
              大倉宏 美術評論家

 

 

中村卓夫
光琳を思わせる九谷様式の絵付けが美しい「花器」

 

 

 

3代目・中村梅山

祖父である初代・中村梅山や父、2代目梅山の
住居でもあった梅山窯には、現在「ギャラリー梅山」
があり、中村卓夫と中村康平、それぞれの住まいと
アトリエとなっているそうです。

 

「キャラリー梅山」
石川県金沢市尾張町2-16-22 Tel. 076-222-0779
営業時間は朝の10時から夕方6時までで、
お休みはないようですが、訪れる際は
事前に電話で予約が必要とのことです。

 

「ギャラリー梅山」の地図を見て、これまた驚き。
何と数日前に御紹介した、版画家の
クリフトン・カーフの「かーふコレクション」
のすぐそばではありませんか!

 

 

金沢の地図
「ギャラリー梅山」と「かーふコレクション」はこんなに近く

 

 

同じ金沢市ということは知っていましたが、
かーふコレクション(「『日本を愛し、日本人より
日本人らしく生きた青い目の版画家』クリフトン・
カーフ」)
が金沢市主計町で、

 

ギャラリー梅山は金沢市尾張町ということ
でしたので、まさかこんなに近くとは、地図を
見るまでは思ってもいませんでした。

 

主計街と尾張町の端に、それぞれが位置しているのか
否かはわかりませんが、ともあれ金沢に行った折には
是非、両方を尋ねてみたいものです。

 

ちなみに、この地図の左上の方が金沢駅で、ここの
少し下(南)の方に行きますと兼六園があります。

 

赤坂の料亭「赤坂金龍」からクリフトン・カーフに
辿り着き、同じく赤坂の料亭「浅田屋」つながりで
中村梅山からギャラリー梅山へ、そして両者は金沢で
隣町のギャラリーとは、本当におもしろいですね。

 

 

赤坂の地図
「金龍」- – – -「かーふコレクション」
「浅田屋」- – – – 「ギャラリー梅山」

 

 

 

中村康平

中村卓夫の3年後、1948年に生まれたのが中村康平。
1973年に多摩美術大学彫刻科を卒業後は
陶芸による前衛的なオブジェを次々に発表します。

 

ニューヨークのメトロポリタン美術館の
コレクションになるなど、彼の作品は
国内外で高い評価を受けました。

 

しかしその後、彼は製作の軸足を茶碗作りに移します。
茶碗づくりは古い器の「写し」から始め、先人たちの
心を汲み、茶碗の本質に迫るための精進を重ねました。

 

 

 

中村康平「赤楽茶碗」

 

 

 

「王道を歩いてみようと思った」

そこから生まれてきた茶碗の数々は、とても
魅力的ではありますが、茶陶となると
俄然お値段が張ってしまうのが常のこと。
私には手の届かないものに
なってしまったのは残念です。

 

前衛陶芸の八木一夫は「茶盌もオブジェでっせ」
という言葉を残しているそうですが、
いわれて見ればその通り。

 

2008年に行われた「明日をつくる建築家の
ために」と題するセミナーの中で、中村康平は
「王道を歩いてみようと思った」
との言葉を聴衆に伝えています。

 

 

中村康平

 

 

 

「もし文化のない街に育っていたら」

つい1カ月前の2017年の2月に出版された
松任谷由実の本『ユーミンとフランスの秘密の関係』
(Cccメディアハウス)には中村康平の
こんな言葉が載っています。

 

「僕は長らく現代美術をやっていました。
が、真なるアヴァンギャルドとは、インター
ナショナルであるためには、と考えたとき、
伝統あるものに立ち返る必然性に迫られました。
それでこの街に戻り、茶の湯の茶碗を
つくり始めたのです」

 

また、父である中村梅山からは何も受け継が
なかったが、もし文化のない街に育っていたら、
ものをつくることはしてなかった、
ともおっしゃっていらしたそうです。

 

 

中村康平「赤楽茶碗」

 

 

 

「父からは何も受け継がなかった」

父親から陶芸を学ぶことはもちろん、大人になるまで
父の仕事にはあまり興味もなかったのかもしれませんし
何より彼の作品は、父親の模倣ではありません。

 

中村康平の「父である中村梅山からは何も
受け継がなかった」という言葉は
確かに事実には違いないのでしょう。

 

ではありますが、親の顔も知らずに育ったような
事情があれば別ですが、一つの家で家族として
暮らしていた時間の中で、何らかの影響は受けて
いたのではないだろうかという気もします。

 

 

 

 

それは単に遺伝子ということではありません。
手先の器用さや性格は遺伝すると思っていますが、
残念ながら才能は遺伝しないのではないか
と私は考えています。

 

そういえば、父親も祖父も陶芸家
という友達がいますが、彼女は、
「親子だからといって才能が伝わるものではない」
という言葉をよく口にしていました。

 

遺伝ではないけれど、環境という言葉とも
ちょっと違うような気がする何か。

 

もっと軽くもあり、同時に決定的でもある
空気のように存在しているものの中で、
彼ら三兄弟は育ったのではないかと思うのは
穿ち過ぎているでしょうか。

 

 

 

 

 

親子なの?

おそらく10年以上前のことだったと思うのですが、
友人が「先週、中村卓夫の展覧会を見て来た」
と言ったことがありました。
(実はちょっと自信がないのですが、多分)

 

私が「中村卓夫のお父さんが作った器がこれよ、
中村梅山」というと、彼女はかなり驚いた顔を
しながら私が手にした器を凝視していました。

 

その器と展覧会で見た作品が、彼女の中では
あまり結びつかないようでした。

 

その時に見た中村卓夫の作品が、少なくとも
父・中村梅山の個性をなぞったようなものでは
なかったことは、彼女の表情から明らかでした。

 

 

 

 

 

梅の庭

祖父も父も、三人兄弟の全てが陶芸家。
門外漢の私にはよくわからないことではありますが、
恵まれた環境といえる一方、かなり厳しい状況
ともいえるような気もします。

 

梅の木のたくさんある庭に作られた梅山窯。
そこで初代・梅山が生まれ、2代目・梅山が育って
ゆき、そして今、枝分かれした梅山の御子息が
それぞれの個性で思う存分咲き誇っている。

 

「売り家と唐様で書く三代目」などと揶揄
されたりするほど、三代目というのは難しい
ようですが、梅山家の三代目である三兄弟は、
それぞれがご自分の道を見つけて極めて
いらっしゃる様は驚くばかりです。

 

馥郁とした香りを放ちつつ、気品の
ある清楚な佇まいの梅の花。

 

梅の庭で育まれた「中村錦平」「中村卓夫」
「中村康平」は21世紀の初め
三者三様の作品を花開かせています。

 

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身がわり うさぎからのメッセージ7

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

あぷりの主治医(中医)

ももちがいなくなってしまってから7年ほど
経った後のこと、ももちの次に私のもとに
来てくれたあぷりも、5歳を過ぎていました。

 

悲しいことに、ももちを苦しめた騒音は
あぷりの体も蝕んでいたのです。

 

あぷりは最終的に、うさぎの名医さんと評判の高い
藤沢の病院で診ていただくことができたのですが
その先生の勧めにより、荻窪の中医(漢方)の
先生にも通うことになりました。

 

いわゆるハリやお灸といった治療ですが
両先生のお陰て、あぷりの寿命を2年以上も延ばして
頂けたことに、私は心から感謝をしています。

 

 

藤沢と荻窪の先生にお世話になったあぷり

 

 

 

「持って行ってくれたんだね……」

ももちの後に来たアプリが見ていただいた先生
ですので、当然のことながら荻窪の中医の先生に
ももちを診て頂いたことはありませんし
ももちの話をしたこともありませんでした。

 

ところがある日の診察中に、先生と
あぷりの話をしている時に、私が、

 

「前のうさぎは私のナイトでした。
4年半しか生きられなかったのですが……」

 

 

 

 

と言いますと、先生は遠くを
見つめるような表情をしながら、

 

「(私の)病気を持って行ってくれたんだね……」
と、独り言のようにおっしゃったのです。

 

驚いた私は思わず「そうなんです!」
と叫ぶように言ってしまいました。

 

 

 

 

それ以上、話すと私は泣いてしまいそうで
何も言うことは出来なかったのですが。

 

先生は何もおっしゃらないものの
私が話をしなくても、いろいろなことが
わかっていらしたようです。

 

実は、先生もまた私の友人のTさん同様
動物とのコンタクトにおいて、やはり普通の
人とは異なる能力がおありのようでした。

 

 

 

 

その話をしますと長くなりますので
今日はいたしませんが。

 

私はももちが足ダンをして唸った相手が
何なのかはわかりません。

 

ですがももちは、私の体に襲いかかるもの
と闘って、それを代わりに持って行って
くれたのではないかという気がしています。

 

 

うさぎ 赤坂「青野」

 

 

 

身代わり

当時、騒音による体への影響は
ももちだけではなく私も同様でした。

 

大腸に何らかの異常をきたしているのは
明白でしたが、ももちの死後は悲しみのあまり
忘れるともなく忘れていたのです。

 

そしてももちの死から、かなり時間がたった
ある時、私の体から大腸の問題が
全くなくなっていることに気づきました。

 

 

 

 

そうなったのは、ももちの死後からだ
ということにも同時に気づいたのです。

 

誰にも言っていなかったその事実を、あぷりの獣医さん
に突然、指摘された私は、ただただ驚くばかりでした。
まさに先生のおっしゃる通りだったからです。

 

考えてみますと、ももちだけではなく、他の動物たちも
私に同じことをしてくれていたのですが、それに私が
気づいたのは、数十年の年月が経ってからのことでした。

 

 

 

 

 

 

「ペットは飼い主の寿命を延ばす」

そういえば二、三日前の「スプートニク(SPUTNIK)」
には、ペットが飼い主の寿命を延ばすという理論を
学者たちが確認したという記事が載っていました。

 

それによりますと、ペットの存在が人の
体調に。ポジティブな影響を与えるのみならず
寿命も延ばす可能性がある事実を証明する
ことに成功したということでした。

 

心臓発作で入院した後に、退院した92人の健康状態の
調査結果で、94パーセントの人の健康状態に良い影響
を与え、心臓の機能を調整し、飼い主がストレス状態
から抜け出すのをペットが助けているということです。

 

 

 

 

このようなことはペットと暮らしている人
ならば、何となくではあっても常日頃
実感していることだと思います。

 

それが今回、新たに科学的にも数値として
証明されたということなのでしょう。

 

私はこのようなことはいわば当然のことであって
本当はそれ以上のもっと積極的な関わりを、ペットは
人間に対してしているのではないかと思っています。

 

 

 

 

 

飼い主の命を救った大ちゃん

そういえばかなり前に、友人のTさんに
こんな話を聞いたことがあります。

 

九州出身のTさんが生まれるずっと前、Tさんの
母親がまた若い(幼い)頃に、彼女と母親が
飼い犬の大ちゃんを連れて歩いていました。

 

二人は話に夢中で、線路に近づいていた
ことにも気づかなかったようです。

 

 

 

 

その線路は、音や光で電車が来たことを
知らせる警報機も、また人の行く手を阻む
遮断機が降りてくることもない踏切。

 

一緒にいた飼い犬の大ちゃんだけが
迫り来る電車に気づいていました。

 

それを知らせるために、おそらく大ちゃんは
何らかの働きかけを二人にしたと思われ
ますが、功は奏さなかったようです。

 

 

 

 

もう時間がありません。
その時に大ちゃんがとった行動は
電車に飛び込むことでした。

 

大ちゃんは、自らの命を犠牲にする
ことで、大切な二人を守ったのです。

 

その後、大ちゃんは菩提寺の許可を
得て、Tさんの家の先祖代々のお墓に
人間と一緒に葬られたということです。

 

 

 

備前焼のうさぎさん「ジカバーニッポン」東京ミッドタウン

 

 

 

アメリカのうさぎも頑張る

また、こちらは5年ほど前のアメリカでのお話。
母親と2人子どもの住む家が夜中に火事になった時
ペットのうさぎが母親を必死で起こして母子を助け
自らは息絶えたということでした。

 

このような人を救う動物の話は、きっと皆さんも
どこかで耳にされていることでしょう。

 

私はこれを書いていて、以前このブログに書いた
ペリという犬のことを思い出しました。
「死後にお別れを言いに来た犬『ペリ』」

 

私が夏休みで家を空けている間に、姿を消したペリを
母と一緒に夢中になって探している時、一瞬だけ姿を
現して自分の死を私たちに教えた犬のことです。

 

 

 

犬張子の香合「泉屋博古館所蔵」六本木

 

 

 

シーツが黄色くなるほどの黄疸

生まれたばかりの赤ちゃんは、新生児黄疸といって
体が黄色くなることはさほど珍しいことではない
ようですが、その生理的黄疸といわれる症状は
しばらくすると収まりまるのが普通です。

 

ですが私が生まれてすぐにかかった黄疸は、体が黄色く
なるばかりではなく着ているものを通し、寝ているシーツ
にもその黄色が染みて行くという症状の重いものでした。

 

近所のお医者さんは手の施しようがないということで
東大病院に紹介されましたが、そこでも生まれたばかりで
小さ過ぎ、何の処置をすることも出来ないと言われるのみ。

 

 

 

 

結局、治療らしいものは出来ずに
「しじみの汁で体を拭くように」と指示され、

 

「もう少し大きくなって可愛いくなった頃に再発
したら残念ですが、その時はあきらめて下さい」
と言われたそうです。

 

私がその話を母から聞いたのは
いつだったかは覚えていません。

 

ただ自分のことでありながら記憶はないためか
なんとも罰当たりなことに、それまで生きていられた
ことに対して、何の感謝も特別な感慨もなく、他人事
のように、ふ〜んという感じだったことは覚えています。

 

 

 

 

 

初めてペリに会った日

ペリが私のもとに来てくれたのは
私が小学校に入る前のことでした。

 

デパートのペット売り場で元気に遊んでいる
子犬たちの中で、一匹だけしょぼんと角にいた
子犬を見て「この子がいい!」と決めたのです。

 

黄疸の話を聞いた時の記憶は曖昧ですが、ペリと
初めて会った日のことは鮮やかに覚えています。

 

 

 

 

家に着いたペリは、デパートのペットショップ売り場に
いた時とは全く異なり、元気に走り回っていました。

 

幼稚園に行く前と、帰ってきてから
ペリを散歩に連れて行くのは私の役目になりました。

 

朝は「早く、散歩に行こうよ」
とでもいうようにペリは私を起こします。

 

 

 

 

考えてみますと私は子どもの頃は犬のペリに
いい歳大人になってからは、うさぎの
ももちに起こされていたのですね。

 

なんとも情けない一生であったことよ、
と反省しきり……。

 

そんな風にかなりの時間を一緒に過ごして
いたペリは、数年後の夏休みに私の前から
突然、姿を消してしまったのです。

 

 

秋の夕暮れ 東京ミッドタウン

 

 

 

白い毛が黄色に

夏休みに私が家を開けたといっても
それほど長い間ではありませんでした。

 

私が出かける時は何の症状もなく、普段と
同じように見えたペリが突然、黄疸を発症。

 

真っ白い毛も、目の白い部分も
全て黄色になってしまったといいます。

 

 

 

 

と話には聞いても、私はあの真っ白なペリの毛が黄色に
なってしまったとは、正直なところ想像がつきません。

 

また、ペリ以外でも、そのような状態に
なった動物も見たことはありませんし。

 

獣医さんに往診をお願いしましたが
ペリは回復しませんでした。

 

生憎、母も1晩だけ家を空けることになり
「ペリを決して家から出さないように」
と留守の者に言って出たそうですが
結局、ペリは家を出ました。

 

 

真ん中のプルデンシャルタワーの上にある雲
横向きの犬の上半身に見えませんか?

 

 

 

姿を消したペリ

不注意でペリを出してしまったのかもしれません。
でもそれ以上に、ペリはどうしても姿を隠したかった
のではないか、と母と私は思っていました。

 

動物は死を迎える時に、姿を消すともいいます。
私はペリが病いで黄色に変色してしまった姿を、私に
見せたくなかったのではないかという気がしています。

 

そして数十年経った2013年の8月、このブログ
「死後にお別れをいいに来た犬『ペリ』」
を書いた後、私はようやく気づいたのです。

 

本来それは、私が負うはずの病
だったのではないかということに。

 

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