ホントにももちが作ったんだよ うさぎからのメッセージ5

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161206massage

 

 

(前回の続きです)

バンバン起こし

ももちが朝、私を起こそうとする時にとる方法を
私は「バンバン起こし」と呼んでいました。

 

それは、私の胸の上を左から右に、右から左へ
バンバンと行ったり来たりを繰り返すからです。

 

当時の私は寝相が悪いこともあり、使っていたのは
セミダブルのベッドでしたが、それでも私の胸の上を
ベッドから落ちずに、行ったり来たりするのは
かなり難易度が高かったはず。

 

しかも私は、起こそうとするももちから
逃げようとして動きますしね。

 

ベッドの左側には、ベッドの高さとほぼ同じ
高さの収納家具を置いていたのですが、そこに
ももちが乗っている写真が次のもの(ボケてますが)。

 

 

161206momochilightベッドサイドテーブルの上に座るももち

 

 

ももちの右側に見えているま悪いものはライトで、
その向こう側には鏡が置いてあります。
写真の左側が、手前がベッド。

 

 

 

ベッドサイドテーブル

ももちが座っているテーブルの表面は
そのままですとツルツルして危険なので
何枚も重ねた布で包んでありました。

 

そこに直径10cmに満たない、筒型の
常滑焼の花瓶を置いたことがありました。

 

 

 

 

中には、葉っぱが全て落ちた後の枯れ木の枝が
入れてありましたが、もちろん水は入っていません。

 

ももちは時々、花瓶を倒しては
木をかじっていたようでした。

 

次の写真の中で、ももちが立っちをしている
右側の写真の、右端の方に小さく写っているものが
その花瓶と枯れ木です。

 

 

161206massagemomochi右の写真の右端に写っているのが、花瓶に挿してある枯れ木

 

 

 

「うん!?」

ある日、目を覚ましてふっとベッドサイドのテーブルに
目をやると、このようなものが目に飛び込んできました。

 

 

151206momochimateki

 

 

一瞬、もちが作ったものとは思えませんでした。
とはいえ他には誰もいません。

 

ももちの作品(?)の左上の方に円の一部のようなものが
見えますが、これはサイトテーブルの上に開いてある
ライトの大理石で出来た台座の部分です。

 

 

161206momochilightこのライトの台の部分 ↑

 

 

私は、ももちがこれを作っている制作現場を
見てみたかったとつくづく思いました。

 

とにかく写真を撮っておかなくちゃ、と
当時はカメラがなく、ももちを撮るために
用意していた、インスタントカメラで写すことに。

 

私は思わず、ももちの制作現場という
言葉を使ってしまいましたが、ひょっとしたら
これは偶然に出来たものなのでしょうか?

 

でもそうだとしたら、それはそれで
一層不思議な気もしますが。

 

 

 

 

 

翌日はバージョンアップ

ところが私の驚きは、これで終わりませんでした。
その日はももちの作品をそのままにしていたのですが
翌日は、なんとバージョンアップをしていたのです!

 

今日も、写真、写真と思いインスタントカメラを
手に取ると、何ということでしょう、

 

カメラ慣れしていない私は昨日、写真を撮った後に
オフにするのを忘れていたようで、残念ながら
写真はもう撮れない状態になっていました。

 

 

 

 

私は、証拠写真が撮れなくて、心底がっかりしました。
せっかくももちが作った作品なのに、と。

 

とはいえ、写真が撮れたにしろ、ももちがそれを
作っている動画がない以上は、ももちが作った証拠
にはならないわけですから、まあ同じなのですが。

 

ただ1つ、かえすがえすも残念なのは
写真が無理でも、せめてその模様を
スケッチしておけばよかったということです。

 

実は、私は今ではその模様を全く覚えていないのです。

 

(次回に続きます、今回も終わらずにごめんなさい)

 

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江戸切絵図に「松平家」が多いのはなぜ?

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higonokami1857

 

 

江戸の町は「松平」だらけ!

江戸切絵図を見ていると屋敷の名前に
「松平」が多いことに驚きます。

 

冒頭の切絵図では「松平肥後守」、「松平主殿頭」、
「松平隠岐守」、「松平時之助」というように。

 

左下の「三の橋」、真ん中の「二の橋」、上の「一の橋」、
そして今度は流れを右に変えて中央が「中の橋」、
右端が「赤羽橋」というように、古川に囲まれた場所
にある8つの屋敷のうち4つが「松平姓」なのです。

 

松平を名乗る屋敷がなぜ多いのか、という
理由については、大きく分けて3つあります。

 

 

tokugawaaoi「徳川葵(三つ葉葵)」

 

 

 

① 徳川を名乗らない家康の子孫は松平

家康の子孫で徳川を名乗らない家が
松平を名乗っています。

 

徳川を名乗ることができるのは、徳川の嫡流の
「尾張」、「紀伊」、「水戸」の御三家だけです。

 

それ以外は、家康の子孫であっても徳川を
名乗ることできず、また御三家でも
その分家となると徳川ではなく松平です。

 

 

「松図襖」狩野尚信 徴古館(佐賀藩鍋島家)

 

 

家康の次男である秀康を始祖とする家も、
松平を名乗っていますが、所領が越前で
あったことから、「越前松平家」といわれます。

 

前々回にお話をした保科正之も、2代将軍・秀忠の子
ですので、松平姓を許され、3代藩主・正容からは
松平を名乗っています。

 

こちらは会津藩主だったことから「会津松平家」

 

 

保科家の「会津葵紋」

 

 

家康の娘・亀姫の夫も「奥平松平家」となり、
家康の異父弟・康元、勝俊、定勝も「久松松平家」
となっています。

 

その中で城主大名として幕末まで
続いたのは、末弟・定勝のみです。

 

下の江戸切絵図で、左下の「松平肥後守」下屋敷の
表門側の道を挟んだ、右上の「  ■   松平隠岐守
(伊予国松山藩)」と、上から下へ書いてある
のがこの「久松松平家」のお屋敷です。

 

 

higonokami1857                     ↑ 「松平隠岐守」

 

 

 

② 家康が将軍になる前からの親類も松平姓

次は、家康が江戸幕府の征夷大将軍となる以前から
松平を名乗っていた、家康の親類たちの子孫も
当然のことながら松平姓です。

 

家康は三河国加茂郡松平郷の松平家の9代目
ということですが、記録に残る限りでは
松平を名乗っていたのは3代・松平信光から。

 

先祖を松平信光までさかのぼると、徳川家康と
共通の祖となる松平家を、「十八松平」といいますが、

 

この十八という数字は、かならずしも正確な数を
表すものではなく、「松」という字を分解した
「十」「八」「公」からきているといいます。

 

 

140420matu

 

 

 

十八松平(十四松平とも)

「竹谷(たけのや)松平家」
「形原(かたのはら)松平家」
「滝脇(たきわき)松平家」
「藤井(ふじい)松平家」

 

「大給(おぎゆう)松平家」
譜代大名4家と旗本を数多く出した家ですが
十八松平家の全てが大名とは限らないようです。

 

「大草(おおくさ)松平家」は、旗本
でしたが、嗣子がいないため断絶。

 

 

 

「五井(ごい)松平家」
幕末まで続いていますが旗本でした。

 

「福釜(ふかま)松平家」も同様に、大名には
取り立てられず旗本どまりで、松平一族の中では
優遇されなかった家だということです。

 

「東条(とうじょう)松平家」は、嗣子がない
ため、1607(慶長12)年に断絶していますが
家康が尾張徳川家を創設したことにより
領地と家臣の大半が尾張藩に引き継がれました。

 

 

150718hitotugimanjushougetu

 

 

 

「長沢(ながさわ)松平家」は跡継ぎがいない
ことから、家康の六男・忠輝が養子に入り
11代となりましたが、異母兄にあたる徳川2代
将軍・秀忠によって改易、家名は断絶。

 

忠輝の血筋は残っていたのですが
幕府はなかなか家と認めません。

 

1719(享保4)年になって、ようやく
長沢松平家と承認し、1834(天保5)年
に十人扶持と禄が下されました。

 

この長沢松平家の18代・忠敏(主税助)
は、幕末期の新撰組の前身である
浪士組の取締役となった人です。

 

 

150717hitotugimanjushougetu

 

 

「能美(のみ)松平家」の14代・松平親貴は
戊辰戦争が勃発すると、旧幕府側から離反して
新政府側に寝返りましたが、このように
見ていきますと、松平家も様々ですね。

 

「桜井(さくらい)松平家」
改易したものの、後に復活。

 

桜井松平家の江戸屋敷は、東京府芝区三田2丁目
(現、港区三田2丁目)にあったということです。

 

次の切絵図では、上の真ん中の「黒田甲斐守」の
屋敷の下あたりになるはずなのですが、そこに記載
されているのはお寺で、お屋敷は見当たりません。

 

 

higonokami1857桜井松平家が行方不明?

 

 

切絵図の作られた後に、桜井松平家の
お屋敷が出来たのでしょうか?

 

切絵図を上下左右に四分割した、左上あたりに
桜井松平家の屋敷があったということです。
(わかり次第、追記でお知らせします)

 

桜井邸は第二次世界大戦の震災を逃れ
戦後に香川県に売却。

 

そしてその場所は現在「東京さぬき倶楽部」となり
敷地内には、当時の土蔵や木造建築が残っています。

 

6年ほど前になりますが、家のリフォームのために
1週間ほど家を空けた時、「東京さぬき倶楽部」に
4、5泊お世話になりました。
リーズナブルで快適だった記憶があります。

 

 

160411toriizaka「鳥居坂」麻布十番から六本木方面にのぼる坂

 

 

「深溝(ふこうず/ふこうぞ)松平家」
4代・家忠は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの
前哨戦といわれる「伏見城の戦い」の際、

 

守将・鳥居元忠の副将格として
伏見城で籠城玉砕しています。

 

このブログで少し前に鳥居坂をとりあげた
「『鳥居坂』鳥居元忠は大石内蔵助の高祖父」
時に登場した、鳥居家の鳥居元忠と運命
を共にした人だったということですね。

 

 

160411toriizakaue鳥居元忠のお屋敷があった「鳥居坂」

 

 

 

③ 報賞、名誉として与えられた松平姓

御褒美、名誉としても、有力
大名に松平姓を与えています。

 

江戸城内での格式は、将軍家一門に
匹敵する大名であるという称号でした。

 

豊臣秀吉も同様だったようで、徳川2代将軍・秀忠
は、秀吉存命中に「豊臣秀忠」の名で
官位の辞令がおりているということです。

 

松平姓を許されたとはいえ名乗ることができるのは
当主と、将軍家への披露、叙位任官の済んだ
嫡男のみが公的な場で名乗るのみです。

 

他の場面や、当主と嫡男以外の
一族は、本姓を名乗ります。

 

 

hyugazakasendaizaka・・・)で囲った「松平陸奥守」は仙台藩伊達家

 

 

 

松平姓を許された譜代大名

「戸田松平家」「松井松平家」
「大河内松平家」
「本状松平家(後に廃絶)」
「柳沢松平家」「菅沼松平家」

 

松平姓を与えられた外様大名

「前田氏」「伊達氏」「島津氏」「毛利氏」
「黒田氏」
「浅野氏」「鍋島氏」「池田氏」
「蜂須賀氏」「山内氏」

 

 

 

 

そこで最後に、松平姓を与えられた側は
どのように思っていたのかということですが
実はちょっと微妙なところもあったそうですよ。

 

「松平より、うちの方が格が上だものね」と
思った家もあったとか、なかったとか……。

 

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保科正之・長屋暮らしもした将軍の子 「三の橋」古川の橋11

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160814tunazaka

 

 

「二の橋」と「三の橋」の東側

古川に架かる「三の橋」は、古川の東側(地図では右)
に、会津藩保科家(松平肥後守)の下屋敷があった
ことから「肥後殿橋」とも呼ばれていました。

 

現在の住所でいいますと
港区三田2丁目あたりになります。
会津藩保科家の上屋敷「和田倉門邸」は
鍛冶橋内の千代田区皇居外苑3付近でした。

 

中屋敷は「芝藩邸、芝新銭座邸」で、
港区東新橋1丁目付近、現在ではホテル
ヴィラフォンテーヌ汐留のある一帯。

 

そして今日、御紹介の下屋敷「三田藩邸」ですが
1658(万治元)年5月15日にこの屋敷を構えてからは
実質的な拠点となりました。
「御田下屋敷」とも呼ばれていたそうです。

 

 

古川に架かる橋hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

 

広大な敷地をもつ「三田藩邸」

下の江戸時代の地図では、水色の矢印の場所が
「二の橋」で、緑色の矢印が「三の橋(肥後殿橋)」。

 

「三の橋」から「二の橋」近くまでの
古川の東側に「  ●  ●  ●  」で囲った所が
会津藩保科家下屋敷、三田藩邸の敷地です。

 

 

aiduhoshina会津藩保科家下屋敷「三田藩邸」

 

 

現在、その場所には三井倶楽部の南半分や
慶応義塾中等部等がありますが
敷地面積は、なんと32,972坪もあるそう。
屋敷内で軍事調練が出来るほどだったといいます。

 

会津藩保科家の三田藩邸の右側の「——  」が
「三田綱坂」と呼ばれる坂ですが
次の写真ですとお屋敷は右側になります。

 

この屋敷の主が、明暦の大火の際に
陣頭指揮をとった保科正之です。

 

 

160814tunazaka会津藩保科家下屋敷沿いにある「三田綱坂」

 

 

 

隠れるようにして出産

保科正之は前回、御紹介した第4代・徳川家綱の叔父
にあたり、第2代将軍・秀忠の子でしたが庶子だった
ため、江戸城で出産することは許されず、正之の
存在すら、幕府では数名の人間が知るのみでした。

 

正之を生んだ母・静(志津、後の浄光院)は
『会津家世実記』では、秀忠の乳母の侍女の
神尾栄嘉(かんおさかよし)の娘としています。

 

一方、『柳営婦女伝来』では、武蔵国板橋郷
竹村の大工の娘と記載されています。

 

 

 

 

生まれた場所についても『松平会津家譜』では
江戸神田白銀の竹村次俊宅とありますが
江戸北の丸にいた武田信玄の次女・見性院の
所領、大牧村(浦和)だという説もあるようです。

 

そんな幸松(正之の幼名)が誕生したのは
1611年6月17日(慶長16年5月7日)。

 

静の最初の子は出産することも叶わず、一時は
お江の方一派に命を狙われたため、幸松と静は
裏長屋で暮らしていたともいわれています。

 

 

010_1_201311241629247a6 正之の時代に作られた小袖

 

 

 

高藤藩主・保科正光の養子に

そのうちお城から迎えが来るだろう、との期待
が裏切られただけではなく、正之は父である
秀忠に会うことさえできませんでした。

 

武田信玄の娘・見性院の元で養育されていた幸松は
1617(元和3)年、6歳の時に信濃国高遠藩主・
保科正光の養子になることが決まります。

 

これにより母と幸松、二人の身の安全は
確保されることになりました。

 

 

 

 

(幸松が養子に行ったのは「7歳」と記載されている
ことが多く、当時の年齢の数え方ですが、ここでは
全て現代の年齢の数え方で書きたいと思います)

 

保科正光には跡継ぎにする予定だった弟の正貞や、
養子の左源太がいたことから、幸松(正之)は
養子に行くことを嫌がったといわれています。

 

 

 

narabukuyo保科家の家紋「並び九曜(角九曜)」

 

 

 

生涯「保科」姓を名乗る

高遠藩の保科家では幸松を将軍の子と戴いて、
跡継ぎにする予定だった左源太を廃嫡しましたが
正光は、左源太には生活に不自由しないよう
加増や金子を与えることを遺言しています。

 

また正光は、秀忠と正之の父子対面を実現させたい
とも願っていたといいますので、正之は実父は
ともかく、養父には恵まれていたといえるでしょう。

 

しかし残念ながら、父子対面の実現前に
正光は亡くなってしまいます。
1631(寛永8)年11月12日、21歳になっていた幸松は
名を保科正之と改め、三万石の高遠藩主となりました。

 

 

 

 

公式行事以外は冬でも裸足でいたという
正之は、城外で領民と触れ合うことも多く
藩主の使命は領民の幸せと学んだといいます。

 

保科正之は出世をした後に、松平を名乗ることを
勧められますが、養父・保科正光の恩を重く
感じて生涯、保科姓を名乗りました。

 

 

徳川家(1〜5代将軍)

*   ① 家康
*   |__________________ _ _
*   |     |     |     |
*     信康    秀康     ② 秀忠    忠輝
             1579〜1632
                |
                |
*    __________  |_____
*   |      |   |  |  |  |  |  |   |
*   ③ 家光    忠長       保科正之
  1604〜1651   1606〜1633      1611〜1672  ::  *
     |
    |
*    |____________
*    |     |     |
    ④ 家綱    綱重   ⑤ 綱吉
  1641〜1680

 

 

 

兄たちとの対面

藩主になる前の1629年には、兄である
駿河府中城主・徳川忠長(秀忠の二男)
と初めて会うことになりました。

 

正之を気に入った忠長は家康の
葵の紋のついた遺品を与えてます。

 

(しかし忠長はわずか4年後の1633(寛永10)年
12月6日、 様々な事件を起こしたため、幕命に
より配流地の上野国高崎で自害しました、享年28)

 

 

「三の橋」の東側(写真では左)一帯が会津藩下屋敷のあった場所

 

 

正之が藩主となった翌年の1632(寛永9)年1月、
正之を正式に子どもと認めなかった秀忠が亡くなり
長男・家光が3代将軍に就任します。

 

家光がお忍びで目黒に鷹狩りに行った折、お寺の
僧侶に保科正之が弟であることを知らされます。

 

驚いた家光でしたが、正之のあくまでも
家臣として接する謙虚な姿に、次第に
弟への親愛の情を深めていきました。

 

 

160814ninohasihyugazaka「二の橋」から見た古川

 

 

 

「高遠」 →「 山形」 →「会津+幕政」

家光の信頼が深まると同時に
正之は目覚ましい出世をしていきます。

 

1636(寛永13年)7月21日、25歳の時に
出羽国山形20万石へと大幅な加増移封後、洪水や
凶作で苦しむ領民を救うための仕事にかかります。

 

1643(寛永20年)7月4日、32歳で
陸奥国会津藩23万石に移封。

 

これ以降、幕末まで正之の子孫が
会津藩主を努めることになりました。
すでに20代の頃から幕政に関わっていた
正之に一層の重責が加わります。

 

1651(慶安4)年4月20日の家光臨終の間際に
「肥後よ宗家を頼みおく」と、次期将軍・家綱の
補弼(ほひつ、補佐)をまかされたのです。

 

 

 

 

正之は20年以上もの長い間、
会津へ帰ることなく幕政に専念しました。

 

とはいえ正之は会津を重臣たちに任せきりに
することはなく、遠く離れた江戸より指図を
して会津藩の改革にも尽力しています。

 

「殉死の禁止」「税制改革と減税実施」
「飢饉対策」「90歳以上の高齢者への扶持米支給
(これは年金制度の始まりといわれている)」
「間引きの禁止」「救急医療制度の創設」等々。

 

 

160814hyugazaka「二の橋」を渡ると「日向坂」 会津藩保科家下屋敷付近

 

 

 

「都知事」兼「首相」

正之は、会津藩主であった以上に江戸の幕政に
専念して、まさに東京都知事であり日本国首相
のような働きをした人でもありました。

 

武力の武断政治から文治政治へと流れを変え、
「末期養子禁の緩和」「大名証人制度の禁止」
「殉死禁止令」の三大美事といわれる正之の施策は
江戸幕府の基盤を安定させることになりました。

 

忘れてはいけないのは、このブログで紹介
している、麻布の古川の水源の一つである
玉川上水の開削をしたのも保科正之。

 

江戸の人口が増えて、足りなくなった
水を補うための策でした。

 

 

160729ninohasi古川に架かる「二の橋」

 

 

 

自分の屋敷は後回し

明暦の大火(振袖火事)では江戸城も
二の丸を除いて多くを焼失しました。
幕閣らは天守閣の再建を主張しますが
正之は町方の復興を優先します。

 

廃墟のようになってしまった江戸の町の復興に
全力を注いでいる正之には、焼失した自分の屋敷
のことなど考える余裕はなく、そちらは全て
嫡子・正頼に任せきりの有様。

 

その時の過労がもとで正頼は病死をしてしまいます。
しかし、その死を悲しむ暇もないほど
正之は奮闘を続けたのです。

 

 

 

 

明暦の大火の数年後、無理がたたった正之は
50歳を過ぎる頃からろうがい(結核)に苦しみ、
また眼病も患って晩年には失明。

 

将軍の子に生まれながら、兄弟すら自分の存在を
知らず、長じては、4代将軍となった幼い甥・家綱
を全力で支え、将軍以上の働きと実績を残し
生涯、養父の姓を名乗り続けた正之。

 

会津藩保科家が「松平」姓を名乗り
「会津葵」の家紋を使うようになったのは
第3代藩主・正容(まさかた)からです。

 

 

 

aiduaoi「会津葵紋」

 

 

 

1672年(寛文12年)12月18日に、「肥後殿橋」
と呼ばれた「三の橋」近くの会津藩江戸下屋敷で
保科正之は亡くなっています。
61歳でした。

 

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