建礼門院(平徳子) 六道の巷に迷いしなり

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母も、わが子も

平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」という言葉
がでるほどの権勢を誇る平家も、その後それほどの
年月を経ることもなく「驕る平家は久しからず」
(『平家物語』)と謳われる如くに滅びました。

 

前回(「平家の人々の言葉」)に登場した人の
中で、壇ノ浦の戦い後まで生き残っていた人は、
建礼門院(徳子)と後白河上皇、そして能登国に
配流された平時忠の三人だけです。

 

(1185年4月時点での生存者

  1181年没
  平清盛
   |
   |—————————平徳子・建礼門院
   |           |
  1185年没         |
  平時子          |
               | 1178〜1185年
  平時忠 流罪       |——安徳天皇
               |
  1176年没         |
  平滋子・建春門院     |
     |         |
     |—————————高倉天皇
     |        1181年没
   後白河上皇        

 

 

 

どちらにせよ

建礼門院(徳子)が生き残ったことについては
母の時子が安徳帝を抱いて入水したあとを追い
身を投げたものの助けられてしまったと
『平家物語』は記しています。

 

一方、同じ『平家物語』の別の章「大原御幸」には、
壇ノ浦で安徳帝を抱いて入水する時に、母の時子が
建礼門院(徳子)に、生き残って平家一門の
菩提を弔うよう命じたとの記述もあります。

 

どちらが事実なのかはわかりませんが、いずれに
せよ、自分の母(平時子)が、まだ幼い我が子・
安徳帝を抱いて入水する時に、一緒に死にたい
と思わなかったはずはないでしょう。

 

 

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見忘るるさまに衰へはてたる墨染めの姿

1185年3月24日の壇ノ浦の戦いの後、京に連れ
戻された建礼門院(徳子)は、5月に吉田の地で
出家をしましたが、2カ月後の大地震で建物が倒壊
したため、9月には大原寂光院に入ることになります。

 

今までの国母としての華やかな境涯から一転して、
寂れた住まいで「見忘るるさまに衰へはてたる
墨染めの姿して(見忘れるほどに衰えた尼姿で)」
(『平家物語』)3.4人のお付の者と暮らす日々。

 

そんな大原に後白河法皇が訪れてきた出来事を
お能では『大原御幸(または小原御幸)』
という演目にしています。

 

 

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後白河法皇の養女として入内

壇ノ浦の戦い後、生存していた3人のうち平時忠は
能登に配流され、4年後に亡くなりましたが、
残った二人、建礼門院(徳子)と後白河法皇は
複雑な縁で絡み合った間柄ともいえるでしょう。

 

(1190年時点での生存者

  1181年没
  平清盛
   |
   |————————平徳子・建礼門院
   |           |
  平時子          |
  1185年没         |
               | 1178〜1185年
  平時忠 1189年没     |——安徳天皇
               |
  1176年没         |
  平滋子・建春門院     |
     |         |
     |———————    高倉天皇
     |          1181年没
   後白河上皇

 

 

徳子が、17歳で高倉天皇のもとに入内する時に
父の平清盛が武士だったため、後白河法皇の
養女というかたちをとって入内しました。

 

まだ12歳だった高倉天皇との間には、1178年に
憲仁親王(安徳天皇)が生まれすが、その時には
実父の清盛と、形式上の父であり舅でもあった
後白河法皇の間には暗雲が垂れ込めていたようです。

 

清盛は、高倉天皇を上皇にして院政を始めるように
と、わずか3歳の憲仁親王を安徳天皇にしましたが
それからほどなく高倉天皇は亡くなってしまいます。

 

 

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後白河法皇の妃には……

高倉天皇の崩御のすぐあとで清盛も亡くなっています
ので、そのわずかな間、ということは高倉天皇が
亡くなった直後のことでしょう、建礼門院(時子)
を後白河法皇の妃に、という話が持ち上がります。

 

険悪な仲となっていた清盛と後白河法皇の間を
取り持つ策として考え出されたものとはいえ、
高倉天皇の死後、その父親である後白河法皇の妃
になるなど、建礼門院(徳子)にはあり得ないこと。

 

大人しい建礼門院(徳子)は、この時は
色をなして怒り拒否しましたが清盛と時子、
後白河法皇もこの話には乗り気だったそうです。

 

 

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大原御幸

そして平家が滅亡した後に後白河法皇は、大原に
わび住まいをしている建礼門院(徳子)の元を訪れます。

 

建礼門院(徳子)にとって後白河法皇は
自分の実家一門と我が子を亡き者にした張本人。
時代が時代とはいえ、胸には複雑な思いが
よぎったことでしょう。

 

後白河法皇に問われて語った建礼門院の
言葉に、彼は涙して言います。
「あなたは六道を見たのですね」

 

 

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十界

六道とは、六道輪廻という言葉も使われる
ことがありますが仏教用語です。

 

この世の全てのものはその境涯に従って、十界に
分類することができ、十界の中の人間界である私達
の内にもまた十界が存在するということをいいます。

 

*1   2   3   4
仏界  菩薩界  縁覚界 声聞界
*  5    6    7     8      9   10
天上界  人間界  修羅界 畜生界 餓鬼界 地獄界
|________ 六道 __________|

 

仏界からはほど遠い人間界の私たちは
5の天上界から、10の地獄界までを
輪廻しているというのが「六道輪廻」です。

 

建礼門院(徳子)はこの六道を全て体験するが如くの
壮絶な経験をしたと後白河法皇に語るのです。

 

 

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「六道の巷に迷ひしなり」

「まず一門、西海の波に浮き沈み、よるべも
知らぬ舟の上、
海に臨めども、潮(うしお)
なれば飲水せず、餓鬼道のごとくなり。

汀の波の荒磯に、うち返すかの心地して、
舟こぞりつつ泣き叫ぶ、
声は叫喚(きょうかん)の、
罪人もかくやあさましや。(地獄界)

 

陸(くが)の争ひある時は、これぞまことに
目の前の修羅道の戦、
あら恐ろしや数数の、
駒の蹄(ひずめ)の音聞けば、畜生道の有様を、

見聞くも同じ人道の、苦しみとなり果つる、
憂き身の果ぞ悲しき。

 

少し前は雲上人として「天上界」の暮らしを
続けていた我が身は
たちまちのうちに
「六道の巷(ちまた)に、迷ひしなり」と。

 

 

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壇ノ浦の戦いから30年間

建礼門院(徳子)の没年は正確にはわからない
ようですが、1213年とする説が多く、そうなりますと
60歳位まで生存したことになります。

 

6歳4カ月の安徳帝と死に別れてからの30年間は
建礼門院にとってどのような日々だったのでしょう。
上の系図から3年後、生き残っているのは
建礼門院(徳子)ただ一人となっています。

 

(1193年当時の生存者

  1181年没
  平清盛
   |
   |————————  平徳子・建礼門院
   |           |
  1185年没         |
  平時子          |
               |
  1189年没         | 1178〜1185年
  平時忠          |——安徳天皇
               |
  1176年没         |
  平滋子・建春門院     |
     |         |
     |————————  高倉天皇
     |          1181年没
   1192年没
   後白河法皇
*:*白河法皇 

 

 

 

 

 

子方の足袋

そんな事を考えていましたら、安徳帝が亡くなった年と
同じ位の年齢で亡くなった男の子を思い出しました。

 

20年以上も前になりますが、お能を
観に行った時のことです。

 

お能は、お芝居でいう「子役」のことを
「子方(こかた)」といいますが、お能の
興味深いところは、子どもの役だから
子どもが演じる、とは限らないことです。

 

 

omotyadukusiayawanounokai370能の装束(写真)

 

 

例えば、成人している源義経を、あえて子方が
演じたりもするのですが、今日はそれが主では
ありませんのでこれ位にして話を戻しましょう。

 

その日は可愛い子方が舞台に登場していました。
演目は何だったか忘れてしまったのですが、
舞台に子方が登場した時に、私の隣りに
座っていた女性が言いました。

 

私の隣りの席には二人ずれの60代前後と思われる女性。
私のすぐ隣りの人が、連れの人に小声で囁いたのです。
「見て! ちっちゃな足袋!」と。

 

 

 

 

 

美しく愛らしい小さな足袋

小声とはいえ、そのささやきが耳に入っていた
私は条件反射的に、思わずその子方の足袋に
目をやっていました。

 

それは本当に清らかで、美しく
可愛いらしい足もとでした。

 

足と一体になったかに見える足袋は
まるで木目込み人形の足のようです。

 

丁寧に誂えられた小ちゃな足袋が
その主の小さな足を包んでいました。

 

 

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ただそれだけのことなのですが、私はお隣の
女性が感に堪えたように言い放った言葉に
心の中で激しく同意したものです。

 

ちっちゃくて、本当に可愛らしい足袋でしたが
勿論、体に比べて突出して足が小さいわけではなく
全てが小さいなかで足袋もそれに合わせて小さい、
というだけのことなのですが。

 

それが、どうしてこんなにも可愛く見えるのか、
不思議でならないほどの可愛さでした。

 

 

 

「ありがとうございました」

能舞台は客席から見て左側に、歌舞伎でいう
花道のような細長い通路があり、それを
「橋懸かり(はしがかり)」と呼びます。

 

 

kitaroppeitanogakudo舞台左が橋懸かり「喜多六平太記念能楽堂」
(東京都品川区)

 

 

そこから登場し、そして退場して行った子方は
幕の内側で正座をして待っていたのでしょう。

 

主役(シテ方)が橋懸かりから幕の内側に
消えた瞬間、男の子の声が響きました。
「ありがとうございました」
という元気な可愛い声でした。

 

このような声が客席にまで聞こえた経験は
私にはこの時、一度きりです。

 

「ありがとうございました」という声に
また客席があたたかな微笑みに包まれた
ことはいうまでもありません。

 

 

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絶句

それからしばらく後、私はお稽古友だちの
S子ちゃんから、子方を務めていた男の子が
亡くなったことを知らされました。

 

しかも母親が運転する車が、バックを
した時に轢かれたとのことでした。

 

言葉がないというのはこのことです。
いつ思い出しても、私は言葉を失います。

 

今、グーグルでお能を検索してみましたら、何百枚
という写真が並んでいたので、いくつかをクリック
してみると、偶然にも、それは全て同じサイトでした。

 

 

 

 

そのサイトで、主に文章を書いていると思われる方は
亡くなった子方の父親である能楽師でした。

 

生きていたならとっくに成人し、ひょっとしたら結婚
をしていてもおかしくないほどの年月が過ぎています。
私はその男の子の名前は、もう覚えていません。

 

それでもあのちっちゃな可愛らしい足袋と
「ありがとうございました」の声、亡くなったことを
聞いた瞬間、それらを忘れることはないでしょう。

 

 

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一睡の夢

それだけではありませんでした。
その男の子のことを考えていた私は、何となく本当に
何となく私は宗家の名前を検索してみました。

 

すると……、驚きました。
ちょうど一カ月前の2月21日、喜多流の十六世
・喜多六平太宗家がお亡くなりになっていたのです。

 

六平太先生の弟子でもあり、現在はイギリスにいる
S子ちゃんに、思わず私はメールをしていました。

 

 

 

 

もう既に知っているかもと思いつつも
書かずにはいられませんでした。
今年の1月に、彼女と六平太先生の話を
したばかりだったのですが……。

 

「とても此の身は徒(いたずら)に
山野の土となるべし。

惜しむとも惜しみとぐべからず。
人久しといえども百年には過ぎず。
其の間の事は但一睡の夢ぞかし」
(「松野殿御返事」『日蓮大聖人御書全集』)

 

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「平家にあらずんば人にあらず」「見るべきほどの事をば見つ」平家の人々の言葉

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「平家にあらずんば人にあらず」

前回の「賃貸保証会社落ちたの私だ」の中で
「平家にあらずんは人にあらず」という
日本人ならば、誰でも知っているであろう
言葉を書きました。

 

平家でなければ云々という内容からは、一見
平清盛が言ったようにも思いがちですが
実際は平時忠の言葉です。

 

平時忠は、平清盛の妻である平時子の弟にあたる人。

 

   平清盛
    |————平徳子
   平時子(姉)

   平時忠

   平滋子(妹)
    |————高倉天皇
   後白河上皇

 

 

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「平家にあらずんば人にあらず」というのは
『平家物語』四・禿髪(かぶろ)の中に出てくる言葉。

 

「六波羅殿の御一家の公達といひてしかば、
花族も英雄も、面をむかへ、時をならぶる人なり。
されは入道相国のこじうと、平大納言時忠卿
の宣ひけるは『此一門にあらざらむ人は、
皆人非人なるべし』とぞ宣ひける」

 

この「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」
という部分が、「平家にあらずんば人にあらず」
と現代風に言われているのです。

 

 

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誤解された言葉?

この「人非人」という、ちょっとひいてしまう
ような言葉ですが、これを「人間ではない」
「人間以下だ」と説明している人もいます。

 

ですが本来はそのようなことではなく
平家一門でなければ宮中では出世ができない
というほどの意味だと思われます。

 

「人非人」は「人の道に外れたことをする人」
の意で、「人の道に外れたことをする」
「裏切る」ということから「敵」という意味を持ちます。

 

つまり「平家一門でない人は裏切るかもしれない
ので、重要な役職を与えてはならない」と
平時忠は平清盛に言ったのだということです。

(「山科薫マニアックな世界を楽しみましょう」)

 

 

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平家がいくら権勢を誇っていたとはいえ、平家一門
以外は人間ではない、とはいくらなんでもいわない
でしょうから、これが平時忠が言わんとした
本当の意味のような気もします。

 

とはいえそうなりますと、だからよそ者ではなく
役職は身内で固めて独占するということでもあり、
それはそれで問題発言ではありますが。

 

つまりどちらがより一層ひどいか、
あるいはましかとの差はあれ、問題発言で
あったことには間違いないでしょう。

 

 

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平家一門の野心家・平時忠

この問題発言をした平時忠は、中級貴族であった
平時信の子として生まれましたが、生年は1127年、
1128年、1130年と諸説あるようです。

 

母は二条大宮・令子内親王(れいしないしんのう、
白河天皇の第3皇女)で下仕えの女房をして
いましたが、氏素性はわかっていません。

 

母親が同じ姉には、平清盛の後妻となった
平時子がいて、母親違いの妹は、後白河上皇
の子を生んだ平滋子(建春門院)。

 

この後白河上皇の子とは第80代・高倉天皇です。

 

    平清盛
     |——————— 平徳子
    平時子(姉)    |
              |
    平時忠       |———安徳天皇
              |
    平滋子(妹)    |
     |        |
     |——————   高倉天皇
     |
    後白河上皇

 

高倉天皇の子ども(安徳天皇)を生んだのが
平清盛の娘・徳子ですので、時忠の姉が徳子を生み、
時忠の妹が高倉天皇を生んだことになります。

 

これ以外の兄弟姉妹の縁もあり
平時忠は権力の中枢近くにいました。

 

別名、平関白(へいかんぱく)とも呼ばれた野心家
で、平安末期の朝廷で暗躍した人でもあります。

 

 

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流罪

応保元年(1161年)、平時忠の妹・平滋子は
後白河上皇の子・憲仁親王(高倉天皇)を出産します。

 

  平清盛
   |———————— 平徳子
  平時子(姉)

  平時忠

  平滋子(妹)
   |
   |———————— 憲仁親王(高倉天皇)
   |
  後白河上皇——— 二条天皇

 

平時忠は、生後わずか10日で妹の子を皇太子に
しようとした陰謀や、後白河上皇の子である二条天皇
を呪い殺そうとした呪詛事件に関わっていたとの咎で、
翌1162年、出雲に流罪に処せられます。

 

この事件に関しては平清盛は、二条天皇の支持に
まわり、平時忠を助けようとはしなかったようですが、
二条天皇の崩御により時忠は都に戻り、従三位
権中納言に昇進し公家の仲間入りを果たしています。

 

 

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二度目の流罪の後に

永万元年(1165年)の二条天皇の崩御によって都に
戻れた後、妹の子・憲仁親王が仁安3年(1168年)に
高倉天皇に、妹・滋子は皇太后になります。

 

平時忠は出世をしてゆきますが
抗争に巻き込まれて再び出雲へ流罪。

 

しかし翌年には都に帰り、またもや
要職に就くことになりました。

 

 

 

 

最初の失脚時には清盛に、二度目の
流罪には、後白河上皇に切り捨てられた
との感が拭えないかったのでしょうか、

 

平時忠の活躍の場は、建春門院となっていた
妹・滋子の側近としてのものが主になってゆきます。

 

平時忠が、例の「平家にあらずんは人にあらず」
と言ったのはこの頃のことだそうで、当時の史料
『覚一本(かくいちぼん)』に記されています。

 

 

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清盛の死

安元2年(1176年)3月に、後白河法皇の50歳の
祝賀が催されたわずか3カ月後、建春門院が病いで
亡くなると、次期天皇の争いが再燃します。

 

治承2年(1178年)11月には、徳子が高倉天皇の
皇子を生むと、平時忠の妻・領子が乳母となり、
清盛は皇子を皇太子にするため、生まれた翌月、
12月には立太子の儀式を行いました。

 

 1181年没
 平清盛
   |—————————— 平徳子・建礼門院
 平時子(姉)       
              |  1178年誕生
 平時忠          |———安徳天皇
              |
 平滋子(妹)・建春門院  |
  |           |
  |———————————高倉天皇
  |         1181年没
 後白河上皇

 

娘の生んだ子が皇太子になったものの、皇太子の父・
高倉天皇は、治承5年(1181年)1月14日に21歳で
崩御し、また同じ、治承5年(1181年・養和元年)
の閏(うるう)2月には清盛が64歳で死去。

 

熱病で倒れた清盛は
『あた(熱い)、あた』
と苦しみにもだえ、

 

『仏事や堂塔建立などは不要。
頼朝の首を切り墓前に供えよ』
と遺言したと伝えられています。

 

 

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三度目の配流、能登の地で

そして1184年(元暦元年・寿永4年)2月、一の谷
の戦いで大敗した平家は、翌1185年(元暦2年・
寿永5年)の3月には壇ノ浦の戦いで壊滅します。

 

(「元暦」というのは源氏方の呼び方で
「寿永」というのが平家方の呼び方です)

 

壇ノ浦で捕虜となった平時忠は減刑を願い、
また娘を源義経に嫁がせてもいますが
9月、能登国(石川県北部)に配流。

 

 

 

 

「平家にあらずんは人にあらず」との言葉
から、わずか10年ほどの間で
世の中は180度変化していたのです。

 

まさに「驕る平家はひさしからず」(『平家物語』)。

 

そして文治5年(1189年)2月24日、
都へ再び帰ることを願っていた平時忠は
3度目の流罪の地、能登で生涯を終えました。

 

 

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「波の下にも都がございます」

平時忠が捕虜となった壇ノ浦の戦いの時に
時忠の妹の孫である幼い安徳天皇を
時忠の姉・時子が抱いで入水しています。

 

『吾妻鏡』では、安徳天皇を抱いて入水した
のは、建春門院に仕えていた、按察使局伊勢
(あぜちのつぼねいせ)としていますが
『平家物語』では時子となっています。

 

6歳4カ月の幼い安徳天皇の命の終わりは
せめても祖母の胸の中で、との思いなので
しょうか、時子の方が有名な気がします。

 

 

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その時は二位尼と呼ばれていた平時子は
波間に消える間際に、このように安徳天皇
に言ったと伝えられています。

 

「浪の下にも都の候ぞ
(波の下にも都があるのですよ)」と。

 

 

 

「見るべきほどの事をば見つ」

壇ノ浦といえば、もう一つ有名な
平知盛の言葉がありますね。

 

 

 

 

平知盛は平清盛と平時子の子で、壇ノ浦で
母・時子が、彼の甥にあたる安徳天皇を抱いて
入水したのを見届けた後に言った言葉です。

 

入水した後、万一浮かび上がったりしては辱めを受け
るとの思いから、知盛は鎧を二重に着ておもりにし、
「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害せん」
と入水します。

 

「見るべきほどの事をば見つ」
という言葉がなぜか昔から私は好きでしたが。

 

 

 

 

その時、知盛34歳、乳兄弟の平家長と手を
取りあって、身を海に投げたということです。

 

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おひな様の「左近の桜」は「左近の梅」だったかも?、というお話  梅干し 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

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色をも香をも

立春はとうに過ぎ、今日は桃の節句
ですが、まだまだ寒いですね。
一昨日などはとても冷たい風が吹いていましたし。

 

そんな真冬に、凛として花を咲かせているのが梅の木。

「君ならで誰にか見せむ梅の花
     色をも香をも知る人ぞ知る」

という古今集の紀友則(きのとものり)
の歌が思い浮かびます。

 

(あなた以外の誰に、この梅の花を見せましょう。
花の色、そして香りをわかって下さる
風雅なあなた以外に)との歌を添えられて、
違いのわかる「あなた」に送られた梅の枝。

 

 

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梅の花の一枝を手折って、香をたきしめた
美しい料紙に、墨跡鮮やかに書き上げた
歌を添え、わらわに届けさせる……。

 

なんと優雅なことでしょう!
小学生の私はこの時代に心底、憧れていました。

 

紀友則は教科書でも有名な百人一首の、

「久方の光のどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ」

を読んだ歌人です。

 

という風雅な話の最中に恐縮ですが、今日は
この梅の花が実った後にできる梅干しの話です。

 

 

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1位  紀州、2位  群馬、3位  山梨

梅といえば紀州、それも南高梅
という名前が思い浮かびます。

 

私はこの「南高梅」を最近まで
「なんこうばい」と読むのだと思っていましたが
本来は「なんこううめ」なのだそう。

 

下の写真のカリカリ梅干しは
紀州・和歌山ではなく甲州・山梨の梅。

 

梅の実は、国内の80パーセントほどが
和歌山県で生産され、ついで群馬県の8パーセント、
山梨県の3パーセントと続きます。

 

この梅干しは、小さくてカリカリとした梅干し用の
「甲州小梅」という種類で、作っているのは
ヤマノー(山梨農産食品株式会社)。
塩分は約9パーセントです。

 

 

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甲州のカリカリ小梅

 

 

 

赤い色はシソの葉ではなく着色料

原材料名は、
小梅、漬け原材料(食塩、醸造酢、発酵調味料、
鰹エキス)、調味料(アミノ酸等)、酸味料、
香料、着色料(赤102)。

 

ちょっと意外だったのは、小梅の赤い色は
シソの葉の色ではなく着色料なのですね。

 

冒頭にもつけたこの写真の梅干しは、自家製の
梅干しを売っているお店で買ってきたもので
産地はわかりませんがシソの葉漬けです。

 

 

160302umeboshi自家製梅干しを売っているお店で購入したもの

 

 

 

薬用

梅干しといえば日本古来のもので、私はごく庶民的な
食べ物と思っていましたがそうでもなかったようです。
庶民が食せるようになったのは
なんと江戸時代になってからだそう。

 

「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花
       あるじなしとて春な忘れそ」

 

と太宰府に赴任する菅原道真が庭の梅を
詠んだのは、平安時代の901年(延喜1年)。

 

 

blog_import_515360577252b『東風(とうふう)』 原米洲作

 

 

そのしばらく後の960年(天徳4年)、
悪疫が流行った折に、村上天皇は梅干しと
昆布のお茶で回復したと伝えられ、

 

また同じく平安時代の984年(永観2年)
には、日本最古の医学書である『医心方』
に梅干しが登場しています。

 

コーヒーやチョコレートもそうですが、現在
嗜好品として楽しまれているものの多くが
最初はお薬だったのですね。

 

 

140222siraume370白梅

 

 

 

「男の子が生まれたら梅の木を植えよ」

鎌倉に入ると1214年(建保2年)には
禅僧の栄西が『喫茶養生記』で、お茶の効能を
書いたことは有名ですが、このお茶うけ、お茶の
お菓子として梅干しが供されたということです。

 

私が不思議思ったのは、戦国時代の
大名・黒田如水の次の言葉。

 

「男の子が生まれたら梅三株を植えよ」
と家臣にお振れをだしたとか。

 

 

 

 

女の子が生まれたら桐の木を植えるというのは、
その子が長じて嫁ぐ時に、桐の箪笥を作るとか
作らないとかということだと聞いたことが
ありますが、梅の木とは初耳でした。

 

これは梅の実を保存食として
活用するのが目的だったそうです。

 

江戸時代、1619年(元和5年)、徳川頼宣が
紀州藩主になると、梅栽培が奨励されたそうで
紀州の梅はここから始まったのでしょうか。

 

 

130215umeugu「梅」と「うぐいす」 赤坂「青野」

 

 

 

シソ染めは江戸期以降

またその後の寛文年間に京都の鹿苑寺の
鳳林和尚の日記には、「紅色の梅干しが珍しい」
という記載があるようです。

 

ということはそれまでの梅干しは
無着色だったわけですね。

 

江戸に入ってからシソを使って赤く染めるように
なり、1692年(元禄5年)の『本朝食鑑』にも
シソ染めの梅干しが珍重品であるとの記述があるとか。

 

1675年(延宝3年)頃になりますと
『雑兵物語』が成立し、そこには梅干しが
戦場食として活用されたと書かれています。

 

このように薬用や保存食に戦場食、お菓子
として大活躍することになった梅干しは
現在でもかわることなく人々に親しまれています。

 

 

blog_import_515360603e2a1赤坂「虎屋」本店に飾られていたお雛ざま(2013年)

 

 

 

ひな壇に飾るのは梅の花だったかも?

最後に今日、3月3日にちなんだ梅のお話を一つ。
おひな様には「右近の橘」「左近の桜」を飾りますね。

 

これは京都御所を模したもので
左にあるのが橘で、右側が桜。
この「左近の桜」は本来は「桜」
ではなく「梅」だったそうです。

 

 

kyotogosho向かって左が橘、右が桜 京都御所

 

 

時は村上天皇の御代。
おお、村上天皇は先ほども梅干しと昆布茶で
疫病を治したということで登場していましたね。

 

今日、2度目の登場の村上天皇が京都御所に
お住まいになっていた時に、橘と対をなして
いた梅の木が火災で倒れてしまいました。

 

村上天皇は、朝廷に入内していた紀貫之の娘の
紀内侍に、家にある梅の木を献上させます。
献上した紀内侍は、梅との別れをこのように詠いました。

 

 

 

 

 

うぐいすに聞かれたら……

「勅なればいともかしこし鶯の
    宿はと問わばいかが答えん」

 

(天皇の御命令ですので、梅の木を差し上げますが
この梅の木に来る鶯に「宿はどうなったのですか?」
と聞かれたらなんと答えましょう)

 

この歌に心を打たれた村上天皇は、梅の木を
紀内侍に返し、倒れた梅の木があった場所には
新たに桜の木を植えさせたということです。

 

 

130215ugusiro「ボクの宿はどこ?」  「梅」 赤坂「青野」

 

 

この歌の作者、紀内侍の父親の紀貫之は
今日の最初に御紹介した歌である、

「君ならで誰にか見せむ梅の花
     色をも香をも知る人ぞ知る」

を詠んだ紀友則の従兄弟にあたります。

 

ところで紀内侍がこの歌を詠まなかったら
おひな様の段飾りには「右近の橘」「左近の桜」では
なく「左近の梅」が飾られていたのでしょうか?

 

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