「平家にあらずんば人にあらず」「見るべきほどの事をば見つ」平家の人々の言葉

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「平家にあらずんば人にあらず」

前回の「賃貸保証会社落ちたの私だ」の中で
「平家にあらずんは人にあらず」という
日本人ならば、誰でも知っているであろう
言葉を書きました。

 

平家でなければ云々という内容からは、一見
平清盛が言ったようにも思いがちですが
実際は平時忠の言葉です。

 

平時忠は、平清盛の妻である平時子の弟にあたる人。

 

   平清盛
    |————平徳子
   平時子(姉)

   平時忠

   平滋子(妹)
    |————高倉天皇
   後白河上皇

 

 

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「平家にあらずんば人にあらず」というのは
『平家物語』四・禿髪(かぶろ)の中に出てくる言葉。

 

「六波羅殿の御一家の公達といひてしかば、
花族も英雄も、面をむかへ、時をならぶる人なり。
されは入道相国のこじうと、平大納言時忠卿
の宣ひけるは『此一門にあらざらむ人は、
皆人非人なるべし』とぞ宣ひける」

 

この「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」
という部分が、「平家にあらずんば人にあらず」
と現代風に言われているのです。

 

 

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誤解された言葉?

この「人非人」という、ちょっとひいてしまう
ような言葉ですが、これを「人間ではない」
「人間以下だ」と説明している人もいます。

 

ですが本来はそのようなことではなく
平家一門でなければ宮中では出世ができない
というほどの意味だと思われます。

 

「人非人」は「人の道に外れたことをする人」
の意で、「人の道に外れたことをする」
「裏切る」ということから「敵」という意味を持ちます。

 

つまり「平家一門でない人は裏切るかもしれない
ので、重要な役職を与えてはならない」と
平時忠は平清盛に言ったのだということです。

(「山科薫マニアックな世界を楽しみましょう」)

 

 

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平家がいくら権勢を誇っていたとはいえ、平家一門
以外は人間ではない、とはいくらなんでもいわない
でしょうから、これが平時忠が言わんとした
本当の意味のような気もします。

 

とはいえそうなりますと、だからよそ者ではなく
役職は身内で固めて独占するということでもあり、
それはそれで問題発言ではありますが。

 

つまりどちらがより一層ひどいか、
あるいはましかとの差はあれ、問題発言で
あったことには間違いないでしょう。

 

 

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平家一門の野心家・平時忠

この問題発言をした平時忠は、中級貴族であった
平時信の子として生まれましたが、生年は1127年、
1128年、1130年と諸説あるようです。

 

母は二条大宮・令子内親王(れいしないしんのう、
白河天皇の第3皇女)で下仕えの女房をして
いましたが、氏素性はわかっていません。

 

母親が同じ姉には、平清盛の後妻となった
平時子がいて、母親違いの妹は、後白河上皇
の子を生んだ平滋子(建春門院)。

 

この後白河上皇の子とは第80代・高倉天皇です。

 

    平清盛
     |——————— 平徳子
    平時子(姉)    |
              |
    平時忠       |———安徳天皇
              |
    平滋子(妹)    |
     |        |
     |——————   高倉天皇
     |
    後白河上皇

 

高倉天皇の子ども(安徳天皇)を生んだのが
平清盛の娘・徳子ですので、時忠の姉が徳子を生み、
時忠の妹が高倉天皇を生んだことになります。

 

これ以外の兄弟姉妹の縁もあり
平時忠は権力の中枢近くにいました。

 

別名、平関白(へいかんぱく)とも呼ばれた野心家
で、平安末期の朝廷で暗躍した人でもあります。

 

 

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流罪

応保元年(1161年)、平時忠の妹・平滋子は
後白河上皇の子・憲仁親王(高倉天皇)を出産します。

 

  平清盛
   |———————— 平徳子
  平時子(姉)

  平時忠

  平滋子(妹)
   |
   |———————— 憲仁親王(高倉天皇)
   |
  後白河上皇——— 二条天皇

 

平時忠は、生後わずか10日で妹の子を皇太子に
しようとした陰謀や、後白河上皇の子である二条天皇
を呪い殺そうとした呪詛事件に関わっていたとの咎で、
翌1162年、出雲に流罪に処せられます。

 

この事件に関しては平清盛は、二条天皇の支持に
まわり、平時忠を助けようとはしなかったようですが、
二条天皇の崩御により時忠は都に戻り、従三位
権中納言に昇進し公家の仲間入りを果たしています。

 

 

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二度目の流罪の後に

永万元年(1165年)の二条天皇の崩御によって都に
戻れた後、妹の子・憲仁親王が仁安3年(1168年)に
高倉天皇に、妹・滋子は皇太后になります。

 

平時忠は出世をしてゆきますが
抗争に巻き込まれて再び出雲へ流罪。

 

しかし翌年には都に帰り、またもや
要職に就くことになりました。

 

 

 

 

最初の失脚時には清盛に、二度目の
流罪には、後白河上皇に切り捨てられた
との感が拭えないかったのでしょうか、

 

平時忠の活躍の場は、建春門院となっていた
妹・滋子の側近としてのものが主になってゆきます。

 

平時忠が、例の「平家にあらずんは人にあらず」
と言ったのはこの頃のことだそうで、当時の史料
『覚一本(かくいちぼん)』に記されています。

 

 

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清盛の死

安元2年(1176年)3月に、後白河法皇の50歳の
祝賀が催されたわずか3カ月後、建春門院が病いで
亡くなると、次期天皇の争いが再燃します。

 

治承2年(1178年)11月には、徳子が高倉天皇の
皇子を生むと、平時忠の妻・領子が乳母となり、
清盛は皇子を皇太子にするため、生まれた翌月、
12月には立太子の儀式を行いました。

 

 1181年没
 平清盛
   |—————————— 平徳子・建礼門院
 平時子(姉)       
              |  1178年誕生
 平時忠          |———安徳天皇
              |
 平滋子(妹)・建春門院  |
  |           |
  |———————————高倉天皇
  |         1181年没
 後白河上皇

 

娘の生んだ子が皇太子になったものの、皇太子の父・
高倉天皇は、治承5年(1181年)1月14日に21歳で
崩御し、また同じ、治承5年(1181年・養和元年)
の閏(うるう)2月には清盛が64歳で死去。

 

熱病で倒れた清盛は
『あた(熱い)、あた』
と苦しみにもだえ、

 

『仏事や堂塔建立などは不要。
頼朝の首を切り墓前に供えよ』
と遺言したと伝えられています。

 

 

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三度目の配流、能登の地で

そして1184年(元暦元年・寿永4年)2月、一の谷
の戦いで大敗した平家は、翌1185年(元暦2年・
寿永5年)の3月には壇ノ浦の戦いで壊滅します。

 

(「元暦」というのは源氏方の呼び方で
「寿永」というのが平家方の呼び方です)

 

壇ノ浦で捕虜となった平時忠は減刑を願い、
また娘を源義経に嫁がせてもいますが
9月、能登国(石川県北部)に配流。

 

 

 

 

「平家にあらずんは人にあらず」との言葉
から、わずか10年ほどの間で
世の中は180度変化していたのです。

 

まさに「驕る平家はひさしからず」(『平家物語』)。

 

そして文治5年(1189年)2月24日、
都へ再び帰ることを願っていた平時忠は
3度目の流罪の地、能登で生涯を終えました。

 

 

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「波の下にも都がございます」

平時忠が捕虜となった壇ノ浦の戦いの時に
時忠の妹の孫である幼い安徳天皇を
時忠の姉・時子が抱いで入水しています。

 

『吾妻鏡』では、安徳天皇を抱いて入水した
のは、建春門院に仕えていた、按察使局伊勢
(あぜちのつぼねいせ)としていますが
『平家物語』では時子となっています。

 

6歳4カ月の幼い安徳天皇の命の終わりは
せめても祖母の胸の中で、との思いなので
しょうか、時子の方が有名な気がします。

 

 

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その時は二位尼と呼ばれていた平時子は
波間に消える間際に、このように安徳天皇
に言ったと伝えられています。

 

「浪の下にも都の候ぞ
(波の下にも都があるのですよ)」と。

 

 

 

「見るべきほどの事をば見つ」

壇ノ浦といえば、もう一つ有名な
平知盛の言葉がありますね。

 

 

 

 

平知盛は平清盛と平時子の子で、壇ノ浦で
母・時子が、彼の甥にあたる安徳天皇を抱いて
入水したのを見届けた後に言った言葉です。

 

入水した後、万一浮かび上がったりしては辱めを受け
るとの思いから、知盛は鎧を二重に着ておもりにし、
「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害せん」
と入水します。

 

「見るべきほどの事をば見つ」
という言葉がなぜか昔から私は好きでしたが。

 

 

 

 

その時、知盛34歳、乳兄弟の平家長と手を
取りあって、身を海に投げたということです。

 

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