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なぜ「南部坂」を選んだのか?
前々回、「忠臣蔵」の有名な場面「南部坂雪の別れ」
の舞台である「南部坂」をとりあげました。
その時、大石内蔵助が討入り前に、浅野内匠頭の妻
である瑶泉院に、別れを告げるという重要な舞台に
なぜ「南部坂」が選ばれたのかということが
少々気になりました。
「忠臣蔵」は元禄赤穂事件をもとにした創作ですし
「南部坂雪の別れ」はフィクションですので
別に「南部坂」でなくても「氷川坂」でも
「本氷川坂」でもいいわけですから。
瑶泉院の屋敷と南部坂の位置
まず、それぞれの位置関係を見てみましょう。
「南部坂」の回に御紹介した通り、「南部坂」の
場所は地図の右の下、首都高速道路のそばの
緑色で書いた線の部分。
「南部坂」という名は、陸奥盛岡藩南部家の
お屋敷が近くにあったことに由来します。
同じ場所が、明暦2年からは、赤穂藩浅野家の
下屋敷になっています(相対替と言います)。
地図でいいますと「A」の場所です。
M(三次浅野家下屋敷)、A(赤穂浅野家下屋敷)
一番長い紫色の線が「氷川坂」、
ピンク色で示したのが「本氷川坂」、
緑色は「南部坂」
「M」は、前回御紹介した瑶泉院の実家、
三次(みよし)浅野家の下屋敷のあった場所。
その「M」を挟んで右上斜めに走っているのが
「氷川坂」で、左下斜めに短くあるのが
「本氷川坂」でした。
内匠頭家、瑶泉院家、南部坂は正三角形
こうして地図を見ますと、浅野内匠頭の下屋敷と、
瑶泉院の実家の下屋敷、南部坂は、ほぼ正三角形の位置。
忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」では、討ち入りの前日の
12月13日に、大石内蔵助が瑶泉院を
訪ねたことになっています
(これはフィクションで実際は、前年の11月)。
その時には当然のことながら赤穂浅野家(A)は
お取り潰し後ですので、もう屋敷はありませんので
内蔵助は、瑶泉院の実家の浅野家(M)を
訪ねてきたわけです。
瑶泉院の実家のそばには「氷川坂」「本氷川坂」
もあるのに、なぜ「南部坂」なのでしょう?
瑶泉院の実家、三次(みよし)浅野家の
下屋敷跡(赤坂6丁目)
「南部坂」を選んだ理由は……
もう一度、下の地図を御覧いただきましょう。
これは現在の地図ですが、基本的には
江戸時代と同じだそうです。
大石内蔵助は車を首都高に待たせてあったので
「瑶泉院の実家の屋敷」から「南部坂」を通過したのだ、
というのは冗談ですが、やはりその道から
帰ったのかもしれません。
M(三次浅野家下屋敷)、A(赤穂浅野家下屋敷)
一番長い紫色の線が「氷川坂」、
ピンク色で示したのが「本氷川坂」、
緑色が「南部坂」
そこで「南部坂」が選ばれた理由を想像してみますと……
1 「氷川坂」や「本氷川坂」では瑶泉院の家の前後、
* 地続きという感じであまりに近過ぎる。
2 内蔵助が瑶泉院を訪ねた時は、すでに
* 浅野家の屋敷ではないものの、「南部坂」は
* 赤穂浅野家下屋敷とゆかりのある坂だから。
3 「南部坂」は明治期には、歩くのが困難という
* ことから「難歩坂」ともいわれたように
* 決して穏やかではなかった坂です。
* それがいかにも、内蔵助が立ち向かって、その
* 身に負おうとしている困難を象徴しているから。
などが思い浮かびますが、実際はどうなのでしょう。
穿ち過ぎているでしょうか?
ちなみに赤坂には、今回の瑶泉院の実家である
三次浅野家の下屋敷、赤穂浅野家の下屋敷の他にも
三次浅野家の上屋敷、広島浅野家の中屋敷と
4つの浅野家の屋敷がありました。
上屋敷、中屋敷、下屋敷
少し前に御紹介の「新坂」の前にあったのは
三次浅野家の上屋敷で、「南部坂雪の別れ」
に登場するのは下屋敷です。
大名が江戸にお屋敷を置くようになったのは
参勤交代の制度が始まってからのことですが
お屋敷の数は藩の大きさにより様々です。
瑶泉院の実家の三次浅野家では、上屋敷と下屋敷
の2つがあり、内匠頭の赤穂浅野家も同様でした。
一方、本家の広島浅野家では、上屋敷、中屋敷、
下屋敷とありますが、中屋敷は1つではなく
2つあったそうです。
その中屋敷の1つがあった場所が
現在の赤坂サカスです。
内匠頭亡き後、下屋敷で過ごした瑶泉院
上屋敷とは、藩主が江戸滞在中に住む家で
中屋敷は、隠居や世継ぎが暮らす家といわれます。
下屋敷は別荘、別邸といった趣の存在だった
ようで、その他に抱(かかえ)屋敷、
蔵屋敷を持つ藩もあったそうです。
ということで前々回に御紹介した「新坂」
のそばの、8丁目の三次浅野家の上屋敷
は、瑶泉院の父親が暮らす屋敷でした。
瑶泉院は浅野内匠頭に嫁いだ後は、赤穂浅野家の
上屋敷のある鉄砲洲で暮らしていましたが、元禄赤穂
事件で内匠頭が即日切腹になった後は、6丁目の
下屋敷で亡くなるまでの年月を過ごしています。