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錫釉薬陶器のデルフト焼
このデルフト焼のお皿は、1653年の
ロイヤル・デルフト陶器工房で作られた
フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」です。
17世紀のオランダの画家、ヨハネス・フェルメールの
この作品は「青いターバンの少女」とも
「ターバンを巻いた少女」とも呼ばれる作品。
白い地にブルーで描かれたものですが
この白地は磁器ではなく陶器にスズ(錫)釉を
掛けて表面を白くした錫(スズ)釉陶器です。
前回、ご紹介したマジョリカ焼と同じですね。
そうデルフト焼は、マジョリカ焼の影響を
受けているオランダの陶器なのです。
「マジョリカ焼」=「ファイアンス」
15世紀のイタリアで開花した美しい色絵陶器の
マジョリカ焼は、16世紀に入るとアルプス以北
のヨーロッパ各地に伝わっていきました。
フランス、ドイツ、スカンディナビアからロシアに
至るまで広がっていったこの錫(スズ)釉陶器を
アルプル以北では「ファイアンス」と呼んでいます。
これは当時のイタリアでマジョリカ焼の最大の
窯場であった「ファエンツァ」の地名に由来しています。
マジョリカ焼の広がり
イタリアのマジョリカ焼の陶工は、フランドル地方南部
のアントワープを始め、フランス、スイスへと招かれ
たり、あるいは移住してマジョリカ焼を作りました。
ベネディクト・ローレンツォは、1512年にリオンに
赴き窯を興し、1530年にはフランスの陶工、アバケース
がルーアンに窯を作ってフランス人としては初めて
ファイアンス(マジョリカ焼)を焼きました。
アルプスに近いムスティエ、中部フランスのズヴェール
など、各地に窯が作られて、17、18世紀には
ファイアンスはその頂点に達したといわれています。
アントワープがマジョリカ焼の中心地に
1508年、アントワープに初めてマジョリカ焼の窯を
作ったのは、イタリアのカステル・デュランテ窯の
陶工、グイド・ディ・ザビーノ(?〜1541年)でした。
(「グイド・ディ・ザビーノ」のカタカナ表記は、他に
*「ギュイド・ダ・サビーノ」「キド・ディ・ザビーノ」
*と色々ですが、ここでは参照した本の表記にしました)
その後、イタリアの陶工たちがフランドルに
集まるようになり、アントワープはマジョリカ焼
生産の中心地となっていきます。
「アントワープ」は「アントウェルペン」
とも言いますが、「アントワープ」は
英語の「Antwerp」からきています。
「アントウェルペン」は
オランダ語の「Antwerpen」から。
フランス語では「Anvers」で「アンヴェール」です。
リスボンと並ぶ世界最大の貿易港、アントワープ
現在はベルギーに属しているアントワープですが
15世紀にはブルゴーニュ公の領地であり、1506年からは
ハプスブルグ家のカール5世の領地となった土地です。
フランドル地方の毛織物の積み出し港として、
またその原料をイギリスから輸入する港として
栄えていたハンザ同盟加盟都市。
16世紀からの大航海時代には、リスボンを経由
してきたアジアの香辛料や、新大陸からくる銀
などが集積される場所でもあり、当時は
リスボンとともに最大の貿易港でした。
「アントワープ」→「ハールレム」→「デルフト」
しかし繁栄していたアントワープもオランダの独立戦争で
スペイン軍により1585年には破壊されてしまいます。
市民はスペイン王フェリペ二世と対峙し、念願の
ネーデルラント連邦共和国を樹立しましたが
陶工たちは動乱を避け、アムステルダムやハールレム、
ドルドレヒト、レイデン、ロッテルダム、デルフト、
さらにはドイツ、イギリスへと移住。
世界経済の中心地はアムステルダムへと移って行き
1600年頃、窯業の中心地はアントワープ
からハールレムになり、1650年頃には
デルフトがやきものの地となります。
「A」アントワープ 「H」ハールレム 「D」デルフト(地図/google)
デルフトはさほど大きくはないものの美しい都市で
画家のヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer、
1632~1675年)が生涯のほとんどの過ごした街
としても有名ですね。
デルフトにはフェルメールセンターなるものもあって
画家のアトリエの再現や、フェルメール作品特有の
顔料ラピスラズリなどが展示されていると
聞きますと、俄然興味が掻き立てられますね。
フェルメールが青(ウルトラマリン)を好んで
用いたのも、デルフトブルーからの影響から
ではないかともいわれます。
1600〜1800年頃は、ヨーロッパで最も有名な陶器の
産地の一つだったデルフト焼は、世界中の裕福な
人々の間で人気があり、彼らは自分のデルフトブルー
のコレクションを自慢し合っていたそうです。
中国・景徳鎮の「芙蓉手」
「染付芙蓉手蓮池水禽文輪花大皿(そめつけ
ふようでれんちすいきんもんりんかおおざら)」
景徳鎮窯 1590~1630年代
口径51.2 高9.5 高台径28.2
九州陶磁文化館所蔵(写真/「うまか陶」)
中国磁器をお手本に
マジョリカ焼の中心地がアントワープから
デルフトに変わるとともに、マジョリカ焼自体も
その焼成技法を改良し、また絵付けも意匠を
変えて新しい焼き物に変化していきます。
それが現在「デルフト焼」と呼ばれるもので、
この変化に大きな影響を与えたのが中国磁器でした。
1602年3月、オランダ人は中国磁器を積んだポルトガル
の船、サン・ティアゴ号を拿捕し、1604年にはサンタ・
カタリーナ号を拿捕して10万点あまりの磁器を
オランダに運び競売にかけたといわれています。
ハーレムやデルフトのマジョリカ焼工房の中には
タイルなどに生産の中心を変更していったものや
また安価な製品を作り、中国磁器と競合しない
独自の路線を模索したりしました。
しかし中には、中国磁器と見まごうほど
質の高い製品を作る工房も登場し、1620年頃
までには、イギリス人たちなどは「東洋の磁器
」と間違えるほどだったそうです。
日本・伊万里の「芙蓉手」
「染付芙蓉手花鳥文皿(そめつけ
ふようでかちょうもんざら)」
高さ8.0㎝ 口径39.0㎝ 底径17.8㎝
1670~1680年代 古伊万里
(写真/「伊万里の歴史や文化、自然の手帳」)
中国磁器に近づくために
1 マジョリカ焼では表面のみを錫(スズ)釉を
* 施していたが、表も裏も白い錫(スズ)釉を
* 掛けたことと、クワルトといわれる
* 光沢のある皮膜を施すようになりました。
2 器を重ねて焼成すると、焼きあがったものに
* 重ねた跡がつきますが、これを「目跡(めあと)」
* といいます。
* 中国磁器は匣(さや)と呼ばれる容れ物に入れて
* 焼くために目跡(めあと)がつきません。
* そこでデルフト焼も極力目跡を小さくしました。
3 陶土を純白にするために骨粉を混ぜて
* よく洗浄することにより、轆轤(ろくろ)で
* 薄く成型することが可能に。
これによりオランダのデルフト焼は白く、薄く、
しかも目跡もないという、他の陶器とは
全く異なるものとなったのです。
オランダ・デルフトの「芙蓉手」
「藍絵芙蓉手人物文大皿(あいえ
ふようでじんぶつもんおおざら)」
17世紀後半 サントリー美術館所蔵
(写真/「SUNTORY」)
模倣から独自の作品へ
1620年以降のデルフト焼は中国磁器の影響から
白地に藍色で絵付けをし、芙蓉手と呼ばれる
意匠を模倣していました。
「芙蓉手」とは、お皿の縁をいくつかに仕切ると
これが花びらの一枚一枚と見えることから、芙蓉
(ふよう)の花に見立て「芙蓉手」と呼ばれるもの。
この写真は芙蓉と同じアオイ科の
「ウスベニタチアオイ(薄紅立葵)」の花です。
やがてデルフト焼は、オランダの風物を絵柄
として取り入れるようになるとが、これが好評を
博し、市場は北ヨーロッパ諸国へと広がります。
異国情緒溢れる東洋の文様と、オランダの風物の
調和が生み出すシノワズリーは、単に中国磁器の模倣
ではなく、独自の世界を作り上げることになりました。
屈託のない突き抜けるような鮮やかな色の
マジョリカ焼から発展して、デルフト焼の白い地に
青で繊細かつ高度な技法を駆使して描写されるよう
になった絵は、すでに絵画の域に達していました。
デルフト焼は、東洋を写しながらも
独自の世界を開拓してゆくことができる
ことを、ヨーロッパの人々に伝えたのです。
「伊万里焼」と「デルフト焼」の繋がり
江戸時代初期、中国や朝鮮では磁器が主流となったため
陶器はあまり作られず、日本の茶人は土ものが手に入ら
ない寂しさからデルフト焼を好んで輸入したといいます。
そのようなものの一つが下の写真の花瓶です。
これはオランダからの注文で伊万里で作った「染錦
(元禄染錦)」と呼ばれる色絵磁器をデルフトが
写し、それをまた日本が輸入したものです。
*オランダからの注文で、伊万里が作る
* デルフトへ送る
* ↓
*その伊万里の色絵磁器をデルフトが写す
* 日本へ送る
* ↓
*伊万里を写したデルフトを日本で愛でる
「元禄染錦写八画面取筒型花瓶」
口径 7.9cm 高さ 16.8cm
伊万里の錦手を写したデルフト焼
17〜18世紀前半と推測
(写真/「総合文学ウェブ情報誌文学金魚」)
と、何やら「やぎさんゆうびん」のような趣ですが
デルフトで写されたものと日本のものの違いを
茶人は楽しんだともいわれています。
デルフト焼から大きな影響を受けた日本
このような日本の伊万里焼とデルフト焼の関係を
鶴山裕司が以下のように書いていらっしゃいます。
「南蛮美術を別にすれば、江戸期以前で確認
*できるヨーロッパ美術からの大きな影響は
*デルフト焼きくらいである。
*出島という細い細い流入口したかなったにも
*関わらず、日本の焼き物はデルフトの絵付けや
*器形から確実に影響を受けている。
*またデルフトも日本から影響を受けた。
*幕末になり浮世絵がブームになるまで、
*ヨーロッパで日本から確実な影響を確認できる
*美術品はデルフト焼きだけだといっていいい。
*日本の明治維新前後の19世紀末にヨーロパでは
*ジョポニズムブームが起こるが、その下地を
*作ったのは、日本から細々と輸入されそれを
*写したデルフト焼きの記憶だったのである」
* 「総合文学ウェブ情報誌文学金魚」
ロイヤル・デルフト「真珠の耳飾りの少女」
(写真/「Holland + Flanders」
現在残るデルフト焼の2つの工房
オランダのみならず世界で愛されたデルフト
焼ですが、最盛期には30ほどもあったという
工房も現在はわずか2つ。
デルフトにある唯一の工房は、1653年創業で
現在は「ロイヤル・デルフト」と称している
「デ・ポルセライネ・フレス」。
もう一つがフリースラント州(Friesland)
にある1572年創業の「ティヒラー社
(Koninklijke TichelaarMakkum)」。
(なお、Wikipediaには1594年創業とありますが、
*ティヒラー社は1572年といっていますので
*そちらが正確だと思います)
この写真はティヒラー社の花瓶なのですが
これはチューリップ用のものだそうです。
ハート型に近い平べったい花瓶の上部に
恐竜のヒラヒラ(?)のように
チューリップの差し込み口が並んでいます。
オランダってこんな風にチューリップを飾るのですね。
こちらは「ロイヤル・デルフト」の別の形のもの。
横並びではなく縦になりますが、やはりチューリップ
を1輪ずつさせるようになっています。
オランダ以外の土が原料
オランダの粘土はやきもの向きではないということで
材料は、フランスのシェルデ(オランダ語: Schelde、
フランス語: Escaut)河畔のトゥルネーの陶土と、
ドイツのライン(オランダ語: Rijn、
フランス語: Rhin)河畔のミュルハイムの
陶土を混成したものを素地としています。
粘土を成形した後に24時間ほど高温焼成をしてから
絵付けをし、コバルトと白い釉薬を掛けてもう一
度24時間ほど焼成すると、釉薬は透明になり
美しいデルフトブルーが生まれるのです。
「 ROYAL DELFT」
マジョリカ焼から始まって独自の発展を遂げた
デルフト焼でしたが、18世紀にマイセンでヨーロッパ
初の磁器製造が始まると急速に衰退して行きました。
しかし19世紀の後半になって、デルフト焼の
再評価がなされるようになります。
デルフト唯一の工房「デ・ポルセライネ・フレス」は
1905年、オランダ王室から「ロイヤル」の称号を許され
「ロイヤル・デルフト」と称するようになりました。
(参照/長谷部楽爾監修「世界やきもの史」美術出版社」
* 南川三治郎「欧州陶器紀行」世界文化社)